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追いかけて来る影

息を切らせながら暗闇の中を全力で走る。力いっぱい地面を蹴って前に進んでいるのに、足の裏の感触はふわふわとして頼りない。久保奈々子は泣きそうになりながら、それでも自分を追って来る影から逃げ続けていた。

 影は、常に奈々子の後ろにぴたりと張り付き、まるで距離は離れない。だけど、執拗に、奈々子を追いつめていく。奈々子はその影の正体を知らない。知ることが恐ろしかった。知ってしまったら、自分がもっとひどい状況に置かれてしまうような気がするのだ。

 辺りは真っ暗闇だ。そこは奈々子が生まれ育った田舎町の道路と似ている。周りを田んぼに囲まれていて、時折虫の鳴き声が聞こえて来る。その影は、奈々子との距離をどんどん縮めていた。荒い息づかいは、自分のものなのか、それとも影のものなのか分からない。奈々子は泣きそうになりながら、それでも懸命に足を動かした。追いつかれたら、とてつもなく恐ろしいことが起こる。本能が自分に語りかけてくる。

しかし、運動の得意でない奈々子は徐々に足がもつれ、上手く走れなくなる。息は切れ、喉がひりひりと痛む。影は奈々子のすぐ後ろに来ている。逃げなければ、逃げなければ…

 影にもう少しで追いつかれそうになった瞬間、奈々子は目を覚ました。


 窓の外で小鳥の鳴き声が聞こえる。カーテン越しにうっすらと明るい空が見えた。下着は奈々子の汗でぐっしょりとぬれていた。額に張り付いた前髪を払いながら、奈々子は布団をはいで緩慢な動作でベットから起き上がった。

 また、あの夢を見てしまった。

 昨日はサークルの飲み会があり、珍しく深酒をしてしまった。

アパートに帰るなり、化粧を落としただけで着替えもせず、ベットに入りぐっすりと寝てしまったのである。

酒が入っているからあの夢は見ないだろうと思っていたのに。

 寝ざめの気分は最悪で、まるで寝た気がしない。それでも、一限目の授業にはでなければ。

 真面目な奈々子には、授業をさぼるという発想はない。のろのろとシャワーを浴びて着替えをし、身支度を済ませてアパートを出た。朝食は食べれらる気がしなかった。



 一限目のジェンダー論についての授業中も、奈々子の頭は昨夜見た夢のことでいっぱいだった。授業に集中しなければと思うほど、追いかけて来る影のことを思い出してしまう。

 あの影の正体は何なのだろうか。なぜ、自分を執拗に追いかけまわすのか。なぜ、最近になってあんな夢を見てしまうのか…。

 元々、奈々子は夢を頻繁に見る方ではない。たまに見るときは、決まって日常生活を切り取ったような、何の変哲もない夢だった。よく夢占いに出て来るような、歯が抜けるだの高い所から飛び降りるだのと言った夢も、幼いころに少しだけ経験がある程度だ。

あまりにも何回も同じ夢を見るので、不気味に思いネットで夢について検索をしたころがある。調べていくうちに、怪しげな心霊現象を集めたサイトにたどり着いた。そこに書かれていた話では、繰り返し見る夢は自分の前世の記憶だというのだ。ある人は、幼いころから広い洋館でドレスを身にまとって踊っている自分を夢で何度も見ていた。大人になったある日、面白半分で霊能者に自分の前世を占ってもらったところ、中世ヨーロッパの貴族であると言われたのだ。

眉唾ものの話だが、奈々子にとっては他人事だとは思えなかった。もしかしたら、あの夢は自分の前世の記憶なのかもしれない。私は前世で何者かに追いかけられ、その末に死んでしまったのではないだろうか。だから、影が自分を捕まえそうになる瞬間に目を覚ましてしまうのだ。

奈々子には、そうとしか考えられなかった。今までの人生で、あの追いかけてくる影に心当たりなどまったくないのだ。



二限目の授業が終わった後、奈々子は同じサークルの友人である美香と学食を食べていた。

「そういえば、今日、バイトの面接だったよね」

 奈々子は月見うどんをすすりながら美香に尋ねた。美香は携帯の画面から顔を上げた。

「ああ、それね。面接の予約を入れようとしたら、もう募集人数はいっぱいだからって締め切られちゃってさあ」

 美香はガパオライスをかき混ぜながらため息をついた。

「えっ、だって募集されてから二日しか経ってないじゃん」

「やっぱ人気なんだよ。財務省の事務作業なんてさ。楽そうだし、エリート官僚と出会えるチャンスもあるし」

 奈々子は苦笑した。

「またすぐに見つかるよ。将来のエリート官僚なら、東大とコンパすればいくらでも見つかるじゃん」

「みんな考えることは同じだからなあ。飲食のバイトはキツそうだし。事務のバイトが一番だよね。なんか私、いっつも消去法で何もかもを選んでいる気がする」

 美香とはこういう所が自分と似ていて気が合うのだと、奈々子は改めて思った。奈々子も今はバイトをしていない。田舎の両親は、バイトよりも学業に専念してほしいと言ってくれ、毎月たっぷりと仕送りをしてくれる。それほど裕福ではないのに、無理をさせて申し訳なく思う反面、ほっとしている自分がいる。甘えすぎるのはよくない。しかし、この守られている身分でずっといたいと願ってしまう。

「でさ、大学の生協でまた楽そうなバイトの募集がしてあったの。見てよここ」

 美香は奈々子に向けて携帯電話の画面を向けた。

「鏡探偵事務所?」

 そのホームページは簡素でいかにも素人が作ったかのようだ。ロゴもデザインも何もかもが古臭い。

「探偵事務所の事務作業?なんか面白そうじゃん」

「でしょ?でも、週三しか募集してないし、時給も安いんだよねえ」

 奈々子は、ホームページの文言に見入った。浮気調査、素行調査、心霊調査…その文字に、奈々子は釘づけになった。

「ねえ、これ見てよ。心霊調査だって」

 画面を指さしながら、奈々子は言った。

「へえ、心霊だって!ここ、まともな探偵事務所じゃないのかもね。大学で紹介されてても、ブラックな所っていっぱいあるらしいし」

 美香は面白がっていた。しかし、奈々子にはこれが救世主のように思えた。

 この一か月間、繰り返し見るあの夢に悩まされて来た。商業ビルの一角にあるような、何人かの自称霊能者に自分の前世を占ってもらったことがあるが、皆ばらばらなことを言っていてあてに出来なかった。神社に行ってお祓いをしてもらったこともある。しかし、何の効果もないのだ。ここでだったらあの夢のことを解決してくれるかもしれない。奈々子はこっそりとホームページに書かれてある電話番号をメモした。



「所長、このところ浮気調査の依頼が増えてますねえ」

 紫苑は顧客リストの入った帳簿を眺めながら言った。鏡探偵事務所は個人事業主のため、毎年確定申告は自分でやらなければいけない。紫苑は数字に強いため、そのための帳簿整理を任されていた。玲一は、コーヒーカップを片手に椅子に座り足を組んでいる。

「それは、春だからな。冬の季節から徐々に暖かくなれば、街中で変質者が増える。同時に、邪心を起こしてハメを外す者も表れる」

「それ、統計がとれてるんですか?まあ、まともな探偵業務が増えてよかったじゃないですか」

 鏡探偵事務所は、一般的な探偵業務の他に心霊調査なるものも請け負っている。所長である鏡玲一は霊能力があるとうそぶいているが、紫苑には本当かどうかわからない。それどころか、インチキ心霊商法で荒稼ぎしているのではと疑っている。

「ところが紫苑くん。今日の午後に入っている依頼は、まともじゃない。久々におもしろい事件が出て来そうだ」

「ええ、まじですか?」

 また悪徳心霊商法に騙される被害者が出て来るのかと、紫苑は内心心配した。ほどなくして、来客を知らせるチャイムが鳴る。玲一は早速椅子から立ち上がった。

「紫苑くん。新しい依頼者だ。コーヒーの用意を」



 依頼主の澤田奈々子は一見して大人しそうな若い女性だった。髪も染めておらず、化粧もごく控えめだ。落ち着かない様子できょろきょろと周りを見渡している。

「本日はご足労頂いてありがとうございます。甘いものは大丈夫ですか?」

 玲一は女性なら誰しもうっとりとしてしまう笑顔を見せながら、奈々子にクッキーとコーヒーを差し出した。奈々子はいくらか警戒心の溶けた表情で、「ありがとうございます」とぺこりと頭を下げた。

「それで、ご用件というのは?」

 玲一が切り出すと、奈々子ははじめはたどたどしく、だが徐々に勢いよく喋り出した。毎日のように見る夢のこと、追いかけて来る影の臨場感、恐怖。全てを語り終えると、奈々子はほっとしたように息をついた。

「なるほどね。それで、澤田さんご自身は、影の正体を何だと思いますか?」

 玲一が尋ねると、奈々子はまた元の小さな声に戻った。

「私は、その、前世の記憶じゃないかと思うんです」

「前世?」

「はい。前にネットで見た情報に書いてあったんです。まったく身に覚えのないことが夢の中に現れたら、それが前世の自分の身分とつながりがあったそうなんです。ほら、よく小さな子供が前世の記憶を覚えているって話、あるじゃないですか」

「なるほどね」

 玲一はしたり顔で頷いている。呪いのビデオの次は、前世の記憶か。紫苑は超常現象のバリエーション豊かさに関心した。

「今はまだ前世の記憶だと決めつけるわけにはいきません。澤田さんは、その夢をどうしたいんですか。夢の続きを見たいですか、それとも無くしたいですか」

 奈々子は一瞬迷いの表情を見せ、言った。

「無くしたいです。影に捕まってから、自分がどうなってしまうのかなんて知りたくないし、体験したくありません」

「そうですか。それでは、いくつか質問させていただきます」

 玲一は改めて奈々子に向き直った。

「夢の中で、あなたはこれは夢である、という自覚を持っていますか?」

「いいえ。夢の中にいる間は、いつもの夢だ、とは気づけないんです。いつも夢から覚めてから気づきます」

「なるほど。夢の中にいるあなたは、主観で景色を見ていますか、それとも第三者の視点で見ていますか」

「主観です。自分自身の意志で身体を動かしています。まるで、この、現実世界と変わらないように」

 そう言って奈々子は自らの両腕を広げて見せた。

「わかりました。では、夢の中のあなたは今と同じ姿ですか。それとも、違う格好をしていたり、性別や体型が違っていたりしませんか」

 玲一の質問に、奈々子はこめかみに手を当てうつむいた。

「よく思い出してください」

「ああ、そういえば…違います。夢の中の私は、私じゃありません。地面が近く見えるんです。足も思うように進まない。体力がないんです。まるで子供みたいに…」

「夢の中にいるあなたは子供なんですね?」

「はい。小さくて非力です。でも、それが私自身かどうかは…」

「十分ですよ。それでは質問を変えますね。周りの風景を思い出してください」

 それから玲一はいくつかの夢の内容に関する質問を繰り返した。そして、最後にこう結論した。

「澤田さん。あなたにはこれから明晰夢を見る訓練をしてもらいます」

「明晰夢?それって、あの明晰夢ですか?」

 奈々子にとってなじみのある単語だったようだ。

「はい。その明晰夢です。夢の中でこれは夢だ、と気づける夢。澤田さんは、今はまだ明晰夢を見れていないようだ」

「でも、その明晰夢って見れる人と見れない人がいるんですよね。私はたぶん、見れない方です。今まで一度も見たことがありません」

「後発的に見れるようにすることも出来るんですよ。まず、夢であると気づいてから周りの様子を仔細に観察することが出来れば、前世の記憶との結びつきがわかるかもしれません」

 奈々子は浮かない表情をして「はあ」と答えた。今すぐここで霊視でも何でもして結論を出してくれることを期待していたのだろう。しかし玲一は気にする素振りも見せず、一冊の文庫本サイズの冊子を奈々子に差し出した。

「これは僕の知り合いの明晰夢のスペシャリストが執筆した訓練法が載っています。これを毎日実践すれば、おのずと明晰夢が見れるようになります」

 まるで通販番組の司会者のように歯切れのよい声で言われると、奈々子も受け取らざるを得なかったようで、渋々本を受け取った。

「それでは、明晰夢を見れるようになったら、またここへ来てください。依頼料はその際にお支払いいただいて結構ですよ」

 奈々子が事務所のドアから出て行った途端、紫苑は玲一に詰め寄った。

「前世の記憶なんて、本当にあるんですか?明晰夢か何だか知りませんけど、テキトーなこと言ってごまかそうとしてません?所長って、本当は霊能力…」

「紫苑くん。きみに今すぐ頼みたいことがある」

 玲一がいつになく真剣な表情で言うので紫苑は思わず黙った。

「何ですか?」

「あの女子大生に近づき、性格、趣味、趣向を徹底的に調べ上げてほしい」

「げっ何ですかそれ。そもそも、そんなこと所長は探偵なんだから、得意分野じゃないですか。ご自分で調査してくださいよ」

「残念ながら、今の私は他の案件で手いっぱいでね。それに、調査に協力してくれたら時給百円アップしてあげよう。毎月叙々苑にも行きたい放題。それでどうだ?」

 玲一は涼しげな目元を紫苑に向けた。

 けっ。何が手一杯だ。要は自分が楽をしたいだけなのだ。バイトをこき使いやがって。紫苑は内心毒つきながら、「今度は雪会席ですよ!」と叙々苑のコースを叫びながら事務所の階段を駆け下りた。

 事務所を出ると、辺りはまだ明るかった。日暮れまでまだ時間はある。

玲一には、紫苑が学校の許可なくアルバイトをしていることを感づかれているかもしれない。学校にバレたら最悪停学処分だ。それに食い意地の張っている紫苑は目の前のエサに弱かった。

 奈々子に追いついたのは、事務所の向かいの横断歩道だった。

「あの、すみません!」

 帰宅ラッシュの時間帯で、歩道には大勢のサラリーマンがざわめいている。紫苑が叫ぶと、奈々子は何事かといぶかしげに紫苑を振り向いた。

「ああ、あなた、事務所の…」

 何か自分が忘れ物をしたと思ったのか、紫苑の方へ歩み寄った。

「えっと、あの、仕事の用事とかじゃないんです」

 紫苑はもじもじしながら考えを巡らせ、プリーツスカートのポケットから学生証を奈々子に差し出した。

「私、ここの学校の生徒なんです」

「あら、あけびの星女子高校の生徒さんだったんですね」

 奈々子は関心したように学生証を眺めた。

「来年受験生なんで、そろそろ大学選びをしなきゃな~って思ってまして。えっと、その前にごめんなさい。勝手に依頼主のプロフィールなんか見ちゃったりして。このこと、所長には内緒にしてくださいね。澤田さんは、O女子大学の学生さんですよね?私、そこの心理学部にも興味があって、いろいろ調べてるんです。だけど、オープンキャンパスは大学の表面的なことしか知ることが出来ないし。私、もっと現役学生さんの話を伺いたくって。授業の様子とか、サークルとか、就職のこととか。だけどコネもツテもないんです。その、もしよかったら大学のこと色々知りたいんで、個人的に連絡先聞いていいですか…なんちゃって」

 奈々子は目の前にいる女子高生に関心した。まだ高校二年生なのに、将来のことをこんなにも真剣に考えてるなんて。自分が高校二年生だったころは、田舎の学校だったのもあって、将来のビジョンなんて薄らぼんやりとしか考えられず、大学も親や教師に進められるまま推薦で狙えるところに決めてしまった。

 自分を真剣なまなざしで見る紫苑に、奈々子は笑顔で答えた。

「もちろん、私でよかったら力になるよ」

「え、本当ですか?やったあ、ありがとうございます」

 紫苑は深々と頭を下げた。

「そんな大したことないよ。私でよければって感じ。ええと、紫苑ちゃん、だっけ?」

「紫苑は苗字です。名前は悠里です」

「ああ、そうなの。悠里ちゃん、連絡先交換しよっか」

「はいっ」

 紫苑は嬉しそうに携帯を取り出し、二人は連絡先を交換し合った。次に会う約束を取り付け、奈々子は神田駅方向へ、紫苑は事務所方向へと別れた。

 事務所に着くと、あの一連の流れを窓から眺めていたであろう玲一が待ち構えていた。

「首尾よくいったようだな」

「…何か首尾よくですか。ああ、疲れた」

 紫苑は来客用のソファへどっと腰を沈めた。

 これは玲一のいつもの手法だ。

 依頼人の話を聞いた後、依頼人の身辺調査を行い、それを後日、本人に披露する。あたかも霊能力を使って言い立てたことにして依頼人を信じ込ませる。

 紫苑は鏡探偵事務所の事務バイトの面接の際、玲一に家族構成や、母親が自殺していることを言い当てられた。それだけで、紫苑は玲一が本物だと信じ込んでしまった。しかし、今覚えばバイトに応募する際、名前と年齢の情報だけでそこを特定するのは探偵ならば朝飯前だろう。ただでさえ「紫苑」という苗字は珍しいのだ。ごくわずかな期間でも、玲一が本物の霊能力であると信じた自分が恥ずかしい。

 それにしても、と紫苑は改めて思う。

 自分がこの心霊探偵事務所などという胡散臭い所でアルバイトをするようになったのは、仕事のついでに霊能力について学び、母親の自殺の真相を解き明かしたいという下心があったからだ。紫苑の母親は、自宅マンションの屋上から飛び降りて自殺をした。警察も自殺と断定した。しかし、紫苑はどうしても納得できなかった。母が自分を置いて自殺をするなんて。

 もしかしたらあれは自殺などではなく、事故なのではないか。

 紫苑はずっと疑っていた。母は写真を撮るのが好きで、暇を見つけては外へ出かけ町並みや自然などの写真を撮っていた。屋上へ上ったのも、風景写真を撮りたかったからに違いない。現に、その日は滅多に見られない美しい夕焼けが空に広がっていたのだ。それに、屋上には母のものである一眼レフカメラが転がっており、遺書はなかった。

母はきっと、写真の一部に鉄柵が入るのを嫌がり、柵を乗り越えてカメラを身構えようとしたところを風にあおられ転落してしまったのではないかと紫苑は推察している。母は昔から、無邪気でおっちょこちょいな部分があったのだ。

しかし、そうだとしてもなぜカメラは鉄柵の内側に置かれていたのか、なぜ夕焼けの写真が一枚も撮られていないのか、疑問点もあった。

結局、警察は母が重いうつ病を患っていたことを理由に、自殺と決めつけた。



 奈々子はアパートに帰り、夕食と風呂を済ませた後改めて玲一から貰った冊子を取り出した。それはカラー印刷で書かれており、明晰夢を見る方法がステップアップ方式で記載されてある。

 本当に、こんなものを実践して明晰夢が見れるようになるのだろうか。そもそも、明晰夢を見ることによって、あの悪夢の正体が分かるものなのだろうか。

 奈々子は次に、事務所でアルバイトをしていた女子高生のことを思い出した。あけびの星女子校なんて、田舎出の奈々子ですら知っている中高一貫の名門お嬢様学校だ。そんな彼女が自分のような者に興味を持ってくれるなんて。年下なのに、すごくしっかりした感じの子だった。そんな子と仲良くなれば、後々得だろう。今回の心霊調査で、奈々子は学生にしては決して安くない料金を支払うことになっている。無論それは、親の金でもある。決して無駄にはしたくなかった。奈々子は冊子を開き、大きく明朝体で印刷されてある文字を目で追った。

『1 時計の針を読むこと。毎日五回から十回自分の時計を見ること。日ごろから腕時計を身に付けている習慣がある人は、その腕時計を見て、文字盤が正確に読めることを確認する。一週間ほど毎日繰り返し、この「時計観察」を習慣づける。コツは、時間そのものではなく、文字盤の動きに注視すること。すると、夢の中でもあなたは腕時計を身に付け、時計を確認するようになる。夢の中では文字盤が見えづらく、狂っているか歪んでいる場合が多い。それが明晰夢を見る第一歩だ。文字盤の様子がおかしければ、今は夢の中だということが分かる。』

奈々子は机の上に置いてある腕時計を手に取った。高校入学のお祝いに、父からプレゼントされたものだ。それから今に至るまで、丸五年、外に出る時は欠かさずつけている。つまり自分は、時間を確認するときは、腕時計を見ることが習慣づけられているといっていい。

奈々子は早速腕時計の文字盤の動きを目で追った。



 次の週の土曜日、紫苑は奈々子と有栖川公園の前で待ち合わせていた。

「大学のサークルなんて、私なんかが参加していいんですか?」

「大丈夫だよ~。インカレだし、割と出入り自由だから」

 紫苑は奈々子の所属するボランティアサークルに参加することになった。奈々子の友人の美香も一緒だ。

「紫苑ちゃんだっけ?えらいねえ、その年で大学研究なんて」

「えっと、紫苑は苗字です。名前は悠里です。そんなことないですよ。周りでも、熱心な子はOG訪問やってるし」

「へえ、さすが名門校は違うねえ」

 三人で雑談していると、サークルメンバーがぞろぞろと集まって来た。大学生たちは、見慣れない女子高生に興味津々だった。紫苑は持前の社交性をいかして、メンバーと打ち解け合うことが出来た。

「メンバーが増えてくれる分には大歓迎だよ。高校二年生なら、まだ大学も選び放題だね。うちなんてどう?総合大学だから、学部もたくさんあって面白いよ」

 紫苑に気さくに話しかけてくれるのは、サークルのリーダーである福田知樹だ。爽やかな笑顔で清潔感あふれる雰囲気は、今風のモテ男そのものだ。

 奈々子が所属するインカレサークルは、ボランティア活動をしているが、特定の分野に特化しているわけではないらしい。前月までは手話を学んで寸劇を養学校の子供たちに披露していたらしいが、今月は盲導犬の募金活動をしている。奈々子いわく、活動内容を変えることによって、サークルの出入りを活発にしているのだそうだ。確かに、メンバーたちの会話を見てみると付き合いが浅そうだった。

「でも、腰を据えて活動をする方がいいんじゃないですか?ほら、カンボジアに学校を建てるとか」

 紫苑が提案すると、奈々子は微笑みながら首を振った。

「海外での活動なんて、怖いじゃない。国内で、ちょこちょこと小さく活動する方が、私は好きだな」

 ふうん、と紫苑は相槌を打った。自分だったら、ボランティアサークルに所属するのだったら、やっぱり大きなことをやりたいなと思う。海外でなくても、震災復興のために東北へ遠征するとか、演劇をしながら全国の児童福祉施設を渡り歩くとか。しかし、奈々子はそうではないようだ。なるべく負担のかからない範囲でサークル活動も済ませたいらしい。

 この日は駅前に立って盲導犬育成施設のための募金を呼び掛けた。手作りの募金箱を手にとり、道行く人に呼び掛ける。始めは恥ずかしかったが、声を張り上げるにつれ慣れて来て、お金を入れてくれる人が表れると嬉しかった。

「紫苑ちゃん、その調子。堂々としてた方が、募金してくれる人も多くなるんだよね」

 美香が頼もしそうに言った。

 盲導犬の写真が印刷された横断幕やパネルを持った奈々子も、仲間との活動を楽しんでいるようだった。

「澤田さんは、犬好きですか?」

 紫苑が何気なく質問すると、奈々子は首を振った。

「ううん。あまり好きじゃない。私、どちらかというと猫派なの」

 なるほど。猫派っぽいな。と紫苑は勝手に納得した。

日も暮れ始めたころ、サークル活動は撤収した。福田知樹は紫苑に話しかけた。「これから俺ら飲み会に行くんだけど、紫苑ちゃんもどう?」

周りの男子学生たちの何人かがはやし立てた。

「え~未成年を飲み会に誘うなんて、福田やるなあ!」

「あはは、そんなやましい飲み会じゃないよ。アルコールなんて飲ませないからね。紫苑ちゃん、門限は何時?」

 本来の目的は奈々子の行動観察であって、サークル仲間との親睦を深めることではないのだが、奈々子も飲み会に参加すると聞いたので、紫苑は「やったあ!大学生の飲み会に言ってみたかったんです!」と張り切って答えた。

 飲み会は駅前でよくあるチェーンの居酒屋で行われた。飲み放題コースの薄い酒を飲みながら、大学生たちは雑談に興じた。授業の単位のこと、レポートの課題について、教授の噂話、就活の話、恋愛の話…等々。

 奈々子は総じて聞き役に回っていた。あまり自分から発言するようなタイプではないようだ。紫苑は奈々子の隣に座り、ちびちびとウーロン茶を飲みながら奈々子と一緒に相槌を打っていた。そこでは、福田の両親が不動産業をやっていて、都内にいくつも土地を持っていること、奈々子は福田に好意を持っていることは分かった。福田が何かを言ったり、笑うたびに奈々子の視線はそちらへ向く。だが、福田の隣に陣取っているやや派手目の女子たちのように、積極的にアプローチをするわけではないようだ。

 紫苑は今回初参加の女子高生ということで、特に男子学生から注目を浴び何かと話しかけられた。しかし、こういう場で目立つのは得策ではない。紫苑は適当に話を合わせながら時が過ぎるのを待ち、門限を理由にそうそうに帰ることにした。帰りの駅まで見送ると男子たちが列挙したが、紫苑は奈々子を指名した。

「奈々子さんが一緒に来てくれた方が心強いです」

「ええ~私なんかでいいの、紫苑ちゃん」

 奈々子はそう言いながらも嬉しそうだった。飲み会の場はあまり得意ではないらしい。紫苑と一緒に駅前まで来てくれた。紫苑は奈々子と並んで歩きながら、そっと聞いてみた。

「奈々子さんは福田さんのことどう思います?」

 突然の質問に、奈々子は面食らったように紫苑を見た。

「え、何、いきなり」

「福田さん、すごい人気ですよねえ。お金持ちだし、頭いいし、かっこいいし。あんな人が彼氏だったら素敵ですよねえ」

「やっぱり、紫苑ちゃんもそう思う?」

 奈々子は探るように訪ねて来た。

「そうですねえ。けど、私は福田さんみたいなタイプよりも、どこか影のある人が好きですね」

「影って、どういうこと?紫苑ちゃんって変わってるね」

 奈々子は少し安心したようにくすくすと笑った。

紫苑の通う女子高には、福田のように生まれついての金持ちがたくさんいる。そういう子は総じて素直で性格がいい。逆に母子家庭で奨学金を貰って学校に通っているような子は、努力家だがどこかひねくれていて、物事を斜めに構えるくせがある。紫苑はお金持ちの子よりも、こうした背景のある生徒たちとの方が馬が合った。

「確かに、福田先輩はかっこいいよね。けど、私は見てるだけで精一杯。私なんかが釣り合うわけないし」

「もったいないですよ!せっかく同じサークルにいるんだから、何か行動しないと!」

「あはは、そうだね。けど、いいんだ。たまに考えるんだけど。福田先輩と将来結婚する人はどんな人なんだろうね。きっと美人で頭がよくてお金持ちなんだろうねえ。そういうことを想像すると、すごい悔しくなる。なんていうか、持たざる者のひがみ、みたいな?」

 奈々子は乾いた笑みを浮かべ、紫苑を改札まで見送った。紫苑は電車に揺られながら、奈々子の人となりを整理してみた。どこにでもいる普通の子。だけど、それなりに悩みもある。誰だってそうだ。だが、それが奈々子の見る悪夢と何か関係があるのだろうか。



 飲み会が終わり、アパートへ帰り部屋の中で一人になると、奈々子はほっと溜息をついた。あの探偵事務所でバイトをしていた紫苑は不思議な子だな、と思った。高校生なのに、どこか大人びている。最初は自分があのような依頼をしていたことを知られていることが恥ずかしくもあったが、徐々に気にならなくなった。それどころか、知り合って間もない人には絶対に話さないようなことまで、紫苑には話してしまっている。自分の将来についての漠然とした不安や、福田のこと…。話している内に、心が軽くなったのも事実だ。あまり内にため込まないで、誰かに話した方がいいのかもしれない。

 ノートパソコンを開き、メールをチェックすると、早速玲一からのメッセージが目についた。明晰夢を見る訓練の経過報告を、奈々子はこまめにしている。腕時計を毎日のように眺め、文字盤をしっかりと頭に刻み込んでいる。そうしているうちに、悪夢の中で黒い影に追いかけまわされている自分が腕時計をしている感覚が出てくるようになった。夢の中では気づかないのだが、夢から覚めたときに記憶がよみがえってくる。そして、変化は他にもある。夢の中の自分は子供なのだ。自分の目線と足元の距離の感覚で分かる。次第に、夢の記憶がリアルで鮮明になっている。最初はそれが恐ろしかった。しかし、玲一はメールで奈々子を励ましている。いくら影が自分を飲み込もうとしても、その夢を思い通りにコントロールすればいいのだ。奈々子は早速第二の訓練を始めた。自分が理想とする夢を思い描くのだ。

ベットに横になり、目を閉じて空想を膨らませていく。行きたい場所、会ってみたい人物を思いうかべる。閉じたまぶたの中で、福田の姿が浮かんでは消えた。


 その夜、奈々子はまたあの悪夢を見た。しかし、これまでと様子が違う。奈々子はそっと自分の腕を持ち上げた。腕時計をしている。文字盤を見ようと目を凝らしたが、ぼやけていてよく見えない。

そうだ。これは夢だ。

 自覚を持った瞬間、一気に心臓がどきどきした。ついにやった!自分は今、明晰夢を見てるのだ!

 しかし、興奮することは夢を見る上でよくない。すぐに目を覚ましてしまう恐れがある。自分を落ち着かせようと、奈々子は深呼吸を試みた。しかし、すぐに背後で不吉な気配がする。あの黒い影が自分を狙っている。

 奈々子は焦らず、歩幅を緩めて歩き出した。周りの風景をよく見渡す。あたりは薄暗く、夜のようだ。前方には、街灯がぽつぽつと並んでいる。足元は固いコンクリートで、遠くに虫の鳴き声が聞こえる。両側にうっすらと見えるには青々と生い茂った草木だ。そうだ。向こう側には田んぼがひろがっている。ここは、自分が幼いことに過ごした風景だ。小学校へ行くときに、毎回この道を通ったのだ。

 黒い影は、奈々子の後ろにぴたりと付いてきている。荒い息づかいまでもが聞こえてくる。次第に奈々子は恐怖で支配された。今すぐこの場から逃げたい。後ろを絶対に振り返ってはいけない。恐ろしいものに飲み込まれてしまう。

 耐えきれず、奈々子は走り出した。黒い影は、奈々子を全速力で追ってくる。もう駄目だ。追いつかれてしまう。目を覚まさなければ、早く、早く…

 まぶたを無理やりこじ開けるようにして、奈々子は目を覚ました。窓の外は薄暗く、時折新聞配達をしているバイクのエンジン音が聞こえてくる。

 奈々子は重い頭を抱えた。

 確かに自分は明晰夢を見たのだ。しかし、思い描いていた夢ではない。あの悪夢の中で、自分はまた黒い影におびえている。


 その日、大学の授業は午後からだった。奈々子はノートパソコンを起動させ、早速玲一にメールを打った。明晰夢を見たこと、しかし、またあの悪夢を見たこと…

 しばらくして、玲一からのメールが届いた。前世のことについては触れられていない。ただ、その調子で引き続き訓練を続けてほしいという内容だった。奈々子はなんだかがっかりした。結局あの悪夢の意味はわからないままだ。

もしかしたら、自分は騙されているのではないだろうか。こんな馬鹿げたことのために、親からの仕送りを使って大丈夫なのだろうか。

 奈々子は自分の判断が正しいのかわからなかった。いつだってそうだ。高校受験も、大学受験も、いつも他人の判断に左右されてここまで来てしまった。

 憂鬱な気持ちになり、奈々子はベットの上に倒れ込んだ。何もする気が起きない。目を閉じたら、あの黒い影がまぶたの裏にちらついた。


翌週、紫苑は事務所に行き玲一に報告をした。奈々子の趣味趣向、好きな食べ物、嫌いなもの、友人関係、異性関係、悩み…等々。玲一は紫苑の報告に頷きながら、パソコンに向かっていた。

「澤田奈々子からのメールだ。明晰夢を見る訓練は順調なようだね」

「その明晰夢を見ることと、前世の記憶は何か関係があるんですか?」

 紫苑はうさんくさそうに奈々子からのメール文を見た。

「きみは明晰夢のことを若干誤解している。夢の中でこれは夢だ、と気づくことだけが明晰夢ではない。自分の想い通りの夢を見ることも明晰夢なんだよ」

 玲一はキーボードを叩きながら愉快そうに言った。


その翌週も、紫苑は玲一の命令で奈々子の人物像を探るために約束を取り付けた。奈々子の通う大学の講義を聞きたいと理由をつけ、土曜に開講されている授業に潜入した。

「心理学に興味があるんです。将来は心理カウンセラーの資格も取りたいと思っていて」

 これは本当のことだ。

「へえ、まだ高校二年生なのに、将来のことを真面目に考えてて偉いね」

 奈々子の横に座っていた美香が関心したように言った。

 講義が終わった後は、学食を三人で食べた。奈々子は安く手美味しいと評判のカツカレー定食を平らげ、大満足だった。美香がレポートのために早々に図書館へ向かったため、暫く紫苑と奈々子は二人きりになった。

「奈々子さんは、将来どんな仕事に就きたいですか?」

 紫苑の質問に、奈々子はう~んと首を傾げた。

「まだあんまり具体的には思い浮かばないの。強いて言うなら、楽そうな仕事かな。ってこんなこと言ったら怒られそうだけど」

「楽そうな仕事も、いいじゃないですか。でも、どうせやるんだったら、自分の好きな仕事ですよね」

「そりゃそうだけどさあ。仕事って、基本的につらいものじゃない?好きなことを仕事に出来たら、最高だけどさあ」

「少しでも自分の興味のあることだったら、やりがいがあるんじゃないですか」

 奈々子はお茶の入った紙コップを手のひらで包みながら、表情を暗くした。

「私、アルバイトもしてないし、正直言って社会に出るのが怖いの。このまま学生を続けたらなって思う。そんな身分じゃないけどね」

「アルバイト、すればいいじゃないですか」

「今のところはする必要ないから、出来ないの。やらなきゃって思うけど、怖くて踏み出せない。アルバイトごときで、怖気づくなんて、恥ずかしいよね。私、今まで挫折とかしたことなくて。ただ何となく流されるままに生きて来たから、この先失敗したり、恥をかいたりすることが怖くて堪らない」

 紫苑には、奈々子の気持ちはわかる。だけど、生きていく上でつらいことからは逃れられないということだけは、これまでの短い人生経験の中で理解している。

「紫苑ちゃんは、そういうのないの?」

 奈々子はすがるような目つきで紫苑を見つめた。

「そりゃ、ありますよ」

 紫苑は深く頷いた。

「私の母親なんて、既婚者と不倫した挙句、家族にも職場にもばれて、離婚と慰謝料を請求されて、自殺しちゃいましたからね」

 一瞬、奈々子が息を飲んだ。

「そう…なんだ」

「あれだけやりたい放題やってたくせに死ぬなんて、わけわかんないですよね。落ちる所まで落ちたんだから、後は這い上がるだけだったのに、死んじゃうなんてルール違反ですよね。だから奈々子さんも、そんなに怖がることないですよ。世の中には、生きてることが不思議なくらい、やらかしてる人いっぱいいるじゃないですか。うちの所長が言ってたんですけど、生きていくことは恥の上塗りだって」

 奈々子は目を丸くした。

「あの所長さんが?」

「はい。うちの所長も何かとやらかしてる側なんで。そんなに世の中、立派に生きてる人間だけじゃないですよ。カッコつけて、見かけだけ取り繕ってる人ばっかですって」

 奈々子は少しだけほほえんだ。

「そうかもね。紫苑ちゃんの言う通り、完璧を目指さない方がいいのかもしれないね」

「そうですよ。人間、利己的に生きるのが一番じゃないですか。アルバイトだって、大学生だからやらなきゃ、じゃなくて、ブランド物のバックがどうしても欲しいから働く、って方がいいと思いますよ。奈々子さん、物欲ないんですか」

「あはは、紫苑ちゃんって本当に面白いね。そうだね。自分の好きなように生きることが一番だよね」

 奈々子は自分を励ますように言った。


 その夜、奈々子は鏡からメールを受け取った。そこには、奈々子の望む前世の記憶のこととは別の内容が書かれていた。

『明晰夢を見れたなら、次にやることはひとつ。逃げてばかりいないで、その影に立ち向かうことです。そして、影の正体を自分で確かめること。それが、前世の記憶を解くカギになるはずです』

 奈々子は何回もメールの文面を読み返し、息をついた。あんな恐ろしいものの正体なんて、正直知りたくない。しかし、鏡の言うことも一利ある。どうして繰り返しあんな夢を見るのという根本的な解決をするためには、逃げてばかりいてはダメなのだ。

 奈々子は目をぎゅっとつむった。そうだ。自分はいつも面倒ごとから逃げてばかりでここまで来てしまった。今こそ変わるべきなのかもしれない。

ベットに入ってから奈々子が覚悟していた通り、またあの悪夢を見た。同じ黒い影に追いかけられ、必死になって逃げている。

 しかし、今回も明晰夢を見ることが出来た。前回とは違い、意識もはっきりしていて身体も軽い。

 奈々子は逃げながら、この先の展開を変えなくてはと思った。影から逃げてばかりではなく、立ち向かわなくてはいけない。

 震える足を押さえつけ、奈々子は立ち止った。心臓がどくどくと音を出して流れている。まるで夢ではなく、現実のようだ。そして、後ろを振り返った。

 奈々子はその目に飛び込んできたものを認識すると、思わずしゃがんで両手を広げた。

「チャッピー!」

 黒い影の正体は、一匹の犬だった。中型の雑種で、黒いふさふさとした毛をして茶色い人懐っこい目をしていた。チャッピーはようやく主人に振り返ってもらった嬉しさで、きゃんきゃんと鳴き尻尾をちぎれんばかりに振り回した。

「ああ、チャッピー!あなただったの。」

 奈々子はチャッピーの頭やおしりを撫で、そのなつかしい太陽のようなにおいを嗅いだ。そうしている内に思い出した。自分が幼いころに飼っていた犬のこと。道端に捨てられ鳴いていた子犬を拾い、両親にせがんで飼い始めたこと。毎日親友のように近所の山で遊び回ったこと。いつも自分の後を追いかけ回し、信頼と愛情に満ちた瞳で見上げてくれたこと。だが、ある日自分の不注意で死なせてしまったこと…。

「ごめんね、チャッピー。痛かったよね。怖かったよね。私のせいで…。本当にごめんね」

 奈々子はチャッピーの胸元に顔をうずめた。チャッピーはそんな奈々子を励ますように、濡れた鼻づらをその頬に押し付けた。そして、ぺろぺろと顔を嘗め回した。そのざらついた舌と、垂れた耳のつややかな毛の感触を思い出し、奈々子は胸がいっぱいになった。そうしているうちに、徐々に意識が遠くなっていく。冊子によれば、明晰夢は長くて五分ほどしか見ることが出来ないらしい。もうこれでチャッピーとお別れなのだろうか。もう、チャッピーの夢を見ることは出来ないのだろうか。奈々子は夢中でチャッピーの身体に抱きついた。

「チャッピー、消えないで。お願い、ずっとそばにいて」

 幼いころに、チャッピーを失くしたショックがよみがえって来た。しかしチャッピーは奈々子の傍にぴたっと寄り添い、嬉しそうに尻尾を振り奈々子を見上げている。その茶色い瞳を見て、奈々子は悟った。受け入れなくては行けないのだ。

 あたりの景色が白くぼやけ、後ろに引っ張られるように全身の感覚が鈍くなって行く。最後に、チャッピーは奈々子の頬をそっと舐めた。チャッピーのやわらかい毛の感触とあたたかな体温は、絶対に忘れないと奈々子は誓った。そして、あのまっすぐな茶色い瞳も。

 夢から目が覚めると、窓の外は白みかけて、時折小鳥のさえずる声が聞こえてくる。奈々子はゆっくりと身を起こした。頬に涙が伝っていた。


 鏡探偵事務所に奈々子が訪れたのは、それから一週間後のことだった。

「ご挨拶が遅れてすみません。課題やらサークル活動で忙しくて。あの悪夢の正体が解決出来たので、改めてお礼に伺いました」

 奈々子ははつらつとした笑顔で玲一と紫苑の前に現れた。

「わあ、奈々子さん久しぶりです。それにしても、なんだか雰囲気変わりましたね」

 紫苑はまじまじと奈々子を見た。前は大人しくて暗い印象さえ受けたのだが、今はすっきりとして付きモノが落ちたように思える。

「ええ、そうですか?最近ちょっとメイクを変えてみたんです。そのせいかなあ」

 奈々子が持参してきた焼き菓子と、紫苑が淹れたコーヒーを三人で囲みつつ、談笑した。

「それでは、明晰夢の正体は幼いころに飼っていた愛犬というわけか」

「はい。捨てられていたところを私が拾ってきて、チャッピーと名付けたんです。真っ黒い犬で、とても人懐っこくて、本当に可愛がっていました。だけど、ある日雨の中散歩に出かけたとき、大きな雷が鳴ってチャッピーがびっくりして道路に飛び出してしまったんです。私がちゃんとリードをしっかり持っていれば、トラックに轢かれることもなかったのに…。幼い私は、ショックのあまり記憶に蓋をしてしまったんです」

 今奈々子は思い出していた。雨が叩きつける中、チャッピーは胴体を血まみれになって横たわっていた。泣き叫びながら駆け寄ると、チャッピーは最後の力を振り絞って奈々子を見ようと首を曲げた。そして、奈々子の姿を捕えると、かすかに尻尾を振ったのだ。それが、チャッピーの最後だった。

「実家の両親は、あの体験がトラウマになってしまわないように、写真やチャッピーのおもちゃなんかを全部処分したそうです。だから、私はこれまでチャッピーのことを忘れて生きて来ました。それどころか、無意識の内に動物に触れることを避けていました。今思えば、チャッピーとのつらい記憶を思い出さないように、脳が自己防衛していたのかなと思います。それが、ボランティアサークルに参加して、盲導犬の募金活動をしている内に、潜在意識の中でチャッピーのことを思い出していたんです」

「そうなんだあ。不思議ですね、人の脳って」

 奈々子は焼き菓子をほおばりながら、深く頷いた。

「これが、チャッピーの写真です。実家に唯一、一枚だけ残っていました」

 奈々子は財布から一枚の古ぼけた写真を撮り出した。辺りを田んぼに囲まれたあぜ道に、小学校低学年くらいの女の子が笑顔で立っている。それに寄り添うように一匹の黒い犬が写っている。

「賢そうなワンちゃんですねえ」

「ええ、そうなんです。ボールで遊ぶのが大好きで、いつも私の後を追っていました。あの夢の中でも、チャッピーは私に遊んでもらいたくて、一生懸命追いかけてくれたんです」

 そう言って、奈々子はそっと目尻をぬぐった。紫苑もつられて瞳をうるませた。

「あ、そうそう、私、新しいサークルを立ち上げたんです」

 奈々子が明るい声で言った。紫苑は目を丸くする。

「えっ!すごいじゃないですか!どんなサークルですか?」

「平たく言うと、動物愛護活動をしています。人間に捨てられて保健所に送られてしまう犬や猫たちを救いたいんです。里親を募集したり、ワクチンや去勢手術をするための募金活動をしています。私も今はアパート暮らしだから犬は飼えないけど、いつかそういう子たちを引き取って行きたいなって」

 奈々子は照れ臭そうに笑った。

「チャッピーへの罪ほろぼしじゃないですけど、地道に活動しています。今はまだメンバーは私しかいないけど、下級生にも声をかけて徐々に増やしていきたいですね。あ、そうそうこれ」

 奈々子は大きなボストンバックの中から段ボールで作られた箱を取り出した。そこには犬と猫の写真がプリントされている。

「これから駅前に立って募金活動をする予定なんです。お二人も是非!」

 紫苑は喜んで財布から五百円を取り出し、募金箱に入れた。玲一は渋々といった様子で先客から受け取った依頼代金から千円札を抜き出し、募金箱に入れた。

「ありがとうございます!あ、これ、ホームページも作ったんで、よかったら是非覗いて見てくださいね」

 奈々子は二人に名刺を差し出し、次の活動のために慌ただしく事務所を後にした。

 紫苑は関心したように名刺を眺めた。

「奈々子さん、変わりましたねえ。チャッピーへの想いが、そこまでさせたんですね」

「元々彼女には変わりたいという願望があったんだろう。ただ、きっかけが必要だっただけだ。あの明晰夢だって、裏を返せば彼女の願望の現れなんだよ」

「ふうん。何だか複雑ですね。明晰夢ってやつは。ところで所長も見るんですか?明晰夢」

 玲一は肩を竦ませた。

「いいや。俺は現実主義者だからな。夢なんか見ないんだ」

 紫苑が覚めた目で玲一を見上げる。

「所長は人に夢を見させるのは得意ですよね」

 探偵事務所の窓の外で、速足で横断歩道を渡る奈々子の姿がちらりと見えた。


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