第1話 side.ユーリアナ 旦那様の母君との誓い、私の気持ち
――バタンッと勢いよく部屋を閉める音が、執務室に響いた。
部屋を飛び出して駆けていく足音を聞きながら、私は瞳に残る旦那様の横顔を見る。
耐えるように唇を噛み締め、怒りと焦燥に満ちた顔。
あんな顔もできるんだな。
表情豊か……というには、呆れや疲れといった表情に偏っているけれど、心をそのまま映すように感情が顔に出る。
けど、怒った顔なんて初めて見た。
私がどれだけからかっても、驚いたり嫌な顔をするくらいで、怒ったところは見たことがなかった。
そうした顔を見せたのは、家族が相手だからか。
それとも、ただ端にこれほどまでに怒るようなことが、私に出会ってからなかったのか。
どっちなんだろうか。
もし前者であるなら、私のためには怒ってくれはしないのか。
「ふふっ」
そんなことを考えてしまう自分に笑ってしまう。
本当に乙女のようで、私らしくない。
私自身の変化を楽しみながら、ソファーから立ち上がる。
旦那様の母君と残されて気まずいとは思わないが、見ていたいのはいつだって彼だ。
さすがに、この状況を楽しむのは不謹慎にすぎるけど、興味は引かれる。
執務机に座る旦那様の母君に一礼をする。
彼女の顔に動揺の色はなく、こうなることを予想していたのは明らかだった。
旦那様はわかりやすいからね。
くすっと笑みを零して、旦那様を追いかけようとしたところで、「ユーリアナ様」と旦那様の母君から声をかけられた。
振り返ると、旦那様とよく似た琥珀の瞳が私を見据えていた。
「どうかしましたか? お義母様」
「……その呼び方にはいささか抵抗がありますが、今は構いません」
旦那様とは違って冷たく、変化の乏しい顔つきだけれど、堪えるような物言いにはいさかかどこではない不快感が現れている。
その態度は旦那様や義妹君と呼んだときの、彼彼女に似ていた。
特に嫌そうな顔をして、ため息を吐く旦那様に。
雰囲気はまったく違うのにやっぱり家族なんだなと思わせて、ついついからかいたくなってしまう。
とはいえ、私とて相手や状況は弁えている。
旦那様の母君相手にそのような無礼な真似はしない。
「クルをよろしくお願いします」
「ふむ、それは嫁として認めてもらえた、という認識でよろしいでしょうか?」
「……違います」
頭痛を堪えるように、旦那様の母君は額に触れた。
「貴女方が実際どのような関係なのか、私は知りえません。ただ、クルは率先して人付き合いをしません。特に貴族相手はその傾向が顕著に現れます」
「そうですね」
学園でも、誰かと仲よくしている場面を見たことがなかった。
本人は『貧乏子爵だから』と自虐的に言っているが、学園に通う生徒が皆、権力や資産しか見ていないわけでもない。
また、人見知りというわけでもなく、公爵令嬢と平然と話せる度胸があるのだから、友人の1人や2人くらいいてもおかしくはなかった。
そういえば、薔薇の庭園に迷い込んだときも、1人になれる場所を探してだったね。
「本人は否定するでしょうが、あれでいて傍に置く人は選びます。そのクルがどういう事情であれ、屋敷まで連れてくるのを受け入れたということは、貴女のことを信頼しているという証拠です」
「光栄ですね。旦那様から直接伺ったことはないですけど」
「素直ではありませんので」
「ふふっ、そうですね」
旦那様が聞いたら壮絶な嫌な顔をするだろうけど。
目端口端をこれでもかと曲げる旦那様を思い浮かべて楽しくなっていると、旦那様の母君が椅子から立ち上がった。
気品のある佇まいから、すっと頭を下げる。
「どうか、クルのことをよろしくお願いします」
子を想う親。
それを目の当たりにして、眩しいものを見るように目を細める。
あの子にしてこの親あり、といったところか。
親子揃って貴族らしくない、本当に。
貴族の親というのはもっと――と私の親のことを思い浮かべそうになって、すぐにその想像を散らす。
せっかくのいい気分に水を差す行為だな、それは。
歪みそうになる口の端を微笑みに変えて、私はドレスを摘んで礼を尽くす。
「アルローズ公爵家、ユーリアナの名に誓って」
◆◆◆
――初めて出会ったときから、旦那様は変だった。
旦那様の後を追い、廊下を歩きながらそんなことを考える。
私が気軽な口調を求めたからといって、それをあっさりと了承するのがまずおかしい。
他の人ならば、身分差を気にして丁重に断ってくる。
それなのに、『そうする』とあっさり受け入れられたのには、驚いたものだった。
私から提案したことだが、まず断られると考えていたからだ。
旦那様に興味を持った最初のきっかけが、これ。
偽の婚約を提案したことに、打算があったのは事実。
権力も資産もなにもない子爵相手であれば、変な気を起こしてもどうにでもできるという考えがあった。
面倒な求婚からの防波堤としてみると頼りなさはあったけれど、婚約者がいるというだけでも牽制にはなる。
でも、それは後付けで。
おかしな彼をもう少し見てみたいという好奇心が1番の理由だった。
――だった。
そう、過去形だ。
好奇心ではなく、いつの間にかただ彼の傍にいたいと思うようになっていた。
どうしてそう思うのか、私自身わかっていない。
面白さや好奇心でないのなら、どうして彼の傍に居続けたいのか。
安易なタグ付けならできる。
でも、それは知識による識別で、私の心に適しているかはわからない。
誰かが綴った言葉ではなく、私は私自身によってこの感情を解き明かしたかった。
「兄さんのわからず屋!」
「ルルがバカな真似をしたからだろう!?」
怒声が響く部屋の扉を開けて、いがみ合う旦那様と義妹君を見ながら想う。
――私が旦那様に抱くこの気持ちは、なんなのだろうか。




