第3話 偽装婚姻とその末路
ざわっ、と。
動揺や緊張が広がっていくのを肌で感じるのは初めてだった。
学園では息を潜めて生きてきた。
目立っていいことなんてない。
貴族が通う学び舎なら尚更だ。
嫉妬は人を攻撃的にさせる。
だから、静かに、密やかに。
それこそ空気のように卒業まで穏やかに過ごせればよかったのに……。
「旦那様? どうしたんだい? 顔が引き攣っているよ?」
俺の腕を抱きしめて、旦那様と呼ぶ高貴なる学園ただ一輪の公爵令嬢。
「なんであんな冴えない奴が」
聞こえてくる恨みつらみに同意しかなかった。
なんで俺みたいな貧乏貴族が、公爵令嬢であるユーリアナに婚約者のような扱いを受けているのか。
その説明には少しばかり時間を巻き戻す必要があった。
◆◆◆
「こんや……え? 偽装、婚約???」
「そうだ」
否定してほしかったのだけど、ユーリは見間違いなんてさせてくれないくらいしっかりと首肯した。
婚約だけでも頭が真っ白なのに、そこに偽装までくっつくと理解の範疇を超える。
「ふふっ、惚けるなんて罪な男だね」
どちらかと言えば呆けるというのが正しい。
「と、とりあえず考える時間が欲しい」
「急なことだからね。考えるのは大事なことだ」
「だよね」
「考えさせないがなー!」
「どうして!?」
さっきから慌ててばかりだ。
パニックと言っていい。
それなのに、俺を冷静にさせる時間もなく、ユーリは捲し立ててくる。
「冷静になられたら、断られそうだからね」
「打算!」
そして狡猾!
「ただこれはお互いに利益のある提案なんだ」
「詐欺にしか聞こえない」
相手の頭がパンクするほど情報を与えて、理解しきれない内に承諾の言葉を引き出す。
やはり詐欺では?
「詐欺ではないさ。金貨1枚も払わせないからね」
「より詐欺っぽくなった」
「……それはともかく」
さらりと俺のツッコミは流された。
「私も君も、学園の結婚しろという風潮に悩んでいる」
「悩んでるっていうか、嫌だなーと思うくらいで」
「私も同じ気持ちだ」
共感というのは、詐欺の手口の初歩ではなかったか。
「あの……近い」
「そんなことはどうでもいい」
整いすぎる顔はもはや凶器だ。
テーブルに乗り出す、というかもはや乗ってずいずいと顔が近づいてくる。
俺の視界にはもうユーリの顔しか映っていない。
「婚約すれば、もう求婚されることもなくなる」
「俺は求婚されてないから」
それに、たかだか子爵家の俺が防波堤になれるとは思えない。
「学生の社交場にも出る必要はなくなる」
「月1の強制イベントがなくなるのは助かるけど」
「それに君は静かな場所を求めていただろう?」
「そうだけど」
「ここは私専用の庭園で、まず誰も近づいてこない」
「……そうだったの?」
知らなかった。
というか、学園の敷地内に個人の庭園があるって、やっぱりおかしい。
ちらちらと見えてはいけないユーリの身分が見え隠れしていて、足がこの場から逃げたがっている。
椅子に座っている以上、正面から迫られたら逃げられないけど。
「婚約するのなら、ここを自由に使っても構わないよ?」
「それは魅力的な提案ですけど」
頭の中でリスクとリターンを天秤に乗せる。
左右に揺れるどころか、リスク側にずがんっと傾く。
絶対に断らなくてはいけない。
頭ではなく、本能が身の危険を訴えている。
「で、でも、偽装なんてすぐバレるでしょう?」
「大丈夫」
「いや、根拠も論拠もないよねそれ」
「大丈夫大丈夫。ほら、大丈夫だろ?」
「押し切られないからな?」
「それとも……」
ふっと、ユーリが瞼を伏せる。
「たとえ嘘だとしても、私とは婚約したくない……のか?」
天秤は、呆気なく壊れた。
◆◆◆
「やっぱり詐欺だよな」
「なんのことだい?」
薔薇の迷宮――その中央にある庭園で、ユーリは悪びれもしない。
お茶の用意をしてくれるのはありがたいが、それでなら許そうという気持ちにはならなかった。
差し出された紅茶を飲み、じとっと機嫌のよいユーリを見る。
「公爵令嬢、なんて聞いてなかったんだけど?」
「訊かれていないからね」
「……詐欺ぃ」
わかってる。
これは負け犬の遠吠えだ。
そして、勝った犬はユーリだ。
小鳥のさえずりのように俺の遠吠えを聞きながら、勝利の紅茶に酔いしれている。
「安心していいよ。君に迷惑をかけるつもりはないから(なるべく)」
「……今、最後にふわっとした言葉が付かなかった?」
「空耳だろう」
そうかな?
そうだといいなぁと思うと、そんな気がしてきた。
「これからどうなるんだか」
「こら、はしたないぞ」
へばーっとテーブルに突っ伏したら叱られた。
「偽装婚約初日くらい許してくれよ。精神が死にかけてるんだから」
「ダメだ。私の旦那様なのだから、ちゃんとしなさい」
「旦那様って」
そういえば、私たちは婚約しましたよーと喧伝するために、腕を組んで校舎内を練り歩いていた時もそんな呼び方をしていた。
それも一種の駆け引きかと思っていたが、2人しかいない時まで呼ぶ必要はない。
「偽装だろ? 別にそう呼ばなくたって」
「嘘じゃなくなるかもしれないだろ?」
え、と顔を上げると、ユーリの微笑みが出迎えた。
「たとえ、偽装であっても、好ましくない相手と婚約なんて結ばないよ? 君は違うのかな?」
「それは、そうだけど」
「ならやっぱり旦那様だ」
ユーリが姿勢を正す。
その姿は、深窓の令嬢と形容したくなるほど、気品と美しさがあった。身構えていたのに、上品な微笑みに目を奪われ見惚れてしまう。
「どうか末永くよろしくお願いするよ、私の旦那様」
……惚れた弱みなんて言うつもりはないけど。
まぁいいかなって許したくなる魅力が、ユーリの笑顔にはあった。
――学内で強面貴族たちに絡まれるまでは。
「で、どういうことだ?」
「…………どういうことなんでしょうね?」
ユーリさーん!
さっそく迷惑かかってるんだけどー!?
俺の平穏が音を立てて消えていく。
◆第1章_fin◆
__To be continued.