消えた記憶と愛する人の嘘 84 「疑念」
山口に案内され、橘と栗原は12階の人事部へと足を踏み入れた。
エレベーターの扉が開くと、すぐ目の前に広々としたフロアが広がっている。
デスクが整然と並び、社員たちはそれぞれ忙しそうに作業をしていた。
人事部という部署の性質上か、活気があるというよりは、どこか静かな空気が漂っている。
山口は軽く手を挙げ、「こちらで少々お待ちください」と二人に言い残し、奥の廊下へと歩いて行った。
橘と栗原は立ったまま待つ。
しばらくすると、山口が一人の男性を連れて戻ってきた。
スーツ姿のその男は、細身で端正な顔立ちをしているが、表情にはわずかに警戒の色が見えた。
「お待たせしました」
そう言いながら、男性は名刺を差し出した。
「人事部課長の佐藤です。お忙しいところわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
橘は名刺を受け取りながら、柔らかく微笑んだ。
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
「ここでは落ち着かないでしょうし、応接室へご案内します」
佐藤がそう言うと、橘と栗原は「よろしくお願いします」と頷き、彼の後に続く。
その時、山口が一歩下がり、「では、私はここで」と言って、その場を離れようとした。
だが、橘は何気ないふりをしながらも、自然と振り返る。
廊下を歩きながら、後ろをちらりと確認すると——
(……やはり)
山口はその場から動かず、じっとこちらの様子を伺っていた。
その視線には、単なる気遣い以上の”何か”が滲んでいる。
まるで、こちらの動きを監視するかのように——
橘は視線を前に戻しながら、小さく声を落とした。
「——篤志、応接室に入る前にトイレの場所を聞け。トイレに行くふりをして、山口の動きを探れ」
「……了解」
栗原はすぐに指示の意図を察し、わずかに頷いた。
「もし山口の近くにトイレがあるなら、さりげなく『どうしたんですか?』と声をかけろ。どんな反応をするか見ておきたい」
「了解、任せてください」
佐藤が「こちらへどうぞ」と応接室のドアを開けると、絶妙なタイミングで栗原が口を開いた。
「すみません、応接室に入る前にトイレをお借りしてもいいですか?」
「ええ、先ほどのエレベーターの隣にありますよ」
佐藤は特に怪しむことなく、すんなりと答えた。
橘はすぐさま、栗原の肩を軽く叩いて言う。
「おい、栗原、ちゃんとしろよ」
「す、すみません! すぐ戻ります」
栗原は慌てたふりをして、その場を離れる。
橘は佐藤に軽く会釈しながら、視線の端で栗原の後ろ姿を見送った。
——さて、山口はどう動く?
橘は、次の”反応”を待っていた。




