消えた記憶と愛する人の嘘 82 「一年前の事故の真相」
橘は手帳を開き、慎重に言葉を選びながら切り出した。
「私たちは、一年前に起きた事故についてお伺いしたく、こちらに参りました。当時の状況を、できる限り詳しくお聞かせいただければと思うのですが……よろしいでしょうか?」
室内には、一瞬の沈黙が流れる。
対面する総務部部長の枝が、ゆっくりと眉を寄せ、興味深そうに橘を見つめた。
そして、少し考えるような素振りを見せた後、口を開いた。
「……ということは、あれは”ただの事故”ではなかった、ということですか?」
その問いには、慎重な探りが込められているようだった。
枝の声は冷静だったが、橘は彼の瞳にわずかな警戒心が浮かぶのを見逃さなかった。
「いえ、決して事件として断定しているわけではありません」
橘は穏やかに、しかしはっきりと答えた。
「現時点では、あくまで確認のためです。誤解を与えてしまったなら申し訳ありません。ただ、当時の状況について、何か気になる点があればお聞きしたくて——」
枝は軽く頷いたが、その表情にはまだ探るような色が残っていた。
「……なるほど。確認ということですね」
「ええ。そして、もう一点、当時の被害者についてですが……」
橘は手帳から、一枚の写真を取り出し、そっとテーブルの上に置いた。
それを見つめながら、言葉を続ける。
「この女性について、社内で何か噂話などはありませんでしたか? どんな些細なことでも構いません。覚えていることがあれば、お聞かせいただけると助かります」
枝は写真に視線を落とし、しばらくの間、じっと見つめていた。
横に座る山口も、表情を曇らせながら写真をのぞき込む。
「……そうですね」
枝は静かに息をつくと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「確か、この方は社内ではあまり人付き合いをしていなかったと聞いています。特に親しい同僚もいなかったようで、業務以外で誰かと話している姿を見かけた者は、ほとんどいないと聞いています。」
「ということは、職場内でも目立つ存在ではなかった?」
橘が確認すると、枝は小さく頷く。
「ええ。それに、定時になるとすぐに帰宅していたようです。当時の話では、残業をすることもほとんどなく、プライベートのことを同僚に話すこともなかったと……」
「なるほど……」
橘は手帳にメモを取りながら、考え込む。
「もし、ほかの同僚の方々にもお話を伺ったとしたら、やはり同じような答えが返ってくるでしょうか?」
栗原が質問を投げかけると、枝は少し考え込んだあと、静かに答えた。
「おそらく、そうなるでしょうね。特にプライベートな話をしていた人はいなかったと報告を受けています。」
橘は改めて写真を見つめる。
ここまでの話を聞く限り、この女性は社内でほとんど交流を持たず、影の薄い存在だったように思えた。
だが、それが”普通”のことだったのか。
それとも、“何かを隠すため”の行動だったのか——
橘の脳裏には、さらに多くの疑問が浮かび上がっていた。
疑問の先に広がるもの
「山口さんは、彼女のことをどう思っていましたか?」
橘がそう尋ねると、山口は少し考え込んだ後、ゆっくりと言葉を選びながら答えた。
「……黙々と仕事をしていて、正直なところ、印象に残っていないんですよね。あまり目立つタイプではなかったので」
橘はさらにいくつか質問を投げかけたが、返ってくる答えはどれも似たようなものだった。彼女は職場でも控えめで、周囲と積極的に関わることはなかったようだ。影が薄い、というよりも、意図的に目立たないようにしていたのではないか——そんな疑念が橘の中で膨らんでいく。
橘は話題を変え、事件から一歩引くようにして病院の総務課について尋ねた。
「そういえば、ここの総務課は随分としっかりした組織なんですね。各部署の業務を一括して管理しているんですか?」
それを聞いて、枝が不思議そうに眉をひそめた。
「何か気になりますか?」
「いや、病院の総務部って、一般的にはもう少し規模が小さい印象があったので。ここは設備も整っているし、人員もかなり多いですよね」
枝は軽く頷くと、説明を始めた。
「そうですね。豊島総合病院の総務課は、うちのグループ全体の管理を担う中枢みたいなものなんです。各グループのデータは毎晩ここに集約され、二重チェックを経て正式な記録として管理されます。少しでもミスがあれば、即座に修正される仕組みになっているんです」
「なるほど……それは徹底していますね」
橘は感心したように頷いた。
「医療の現場も、どんどんデジタル化が進んでいるんですね。そういった管理体制が整っているのなら、何か異常があった場合もすぐに分かるということですか?」
「基本的にはそうですが、それでも完全とは言えません。人の手が入る以上、予期せぬミスや、場合によっては…」
その後の言葉を語らず
まぁそんだところですかね
不自然にそこで言葉が止まった。
橘はその言葉を聞きながら、ふと考え込んだ。完璧な管理体制——だが、もしそれを“意図的に操作していた可能であるならば、それを利用しようとする者がいてもおかしくはない。
「……なるほど」
何気ない会話の中に、事件の核心へと繋がるヒントが隠れているかもしれない。橘はそう思いながら、改めてこの病院の仕組みを頭の中で整理し始めていた。




