消えた記憶と愛する人の嘘 67 「半年前の事故」
東京・板橋にある大きな病院に到着した橘と栗原は、自動ドアをくぐると、まっすぐ受付に向かった。
受付には、落ち着いた雰囲気の女性が座っていた。橘が警察手帳を取り出し、静かに告げる。
「警視庁の者です。半年前に事故で亡くなられた田中さんについて、お話を伺いたいのですが、どちらの部署に行けばよろしいでしょうか?」
受付の女性は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにプロの対応に戻る。
「かしこまりました。まず、人事部に確認を取りますので、少々お待ちください。」
そう言うと、彼女は手元の電話を取り、内線で何やら確認を始めた。
橘は腕を組みながら、受付の様子を静かに見守る。篤志は病院内を見渡しながら、小さく呟く。
「橘さん、なんで急に田中さんて人のことを?」
橘は目を細め、無言のまま壁にかかった病院の案内図に目をやった。
何かを考えている。
篤志はその横顔を見ながら、橘の勘が働いたのだと直感した。
「今、確認しましたところ、総務部で対応可能です。伊藤がご案内いたしますので、五階へお上がりください。」
受付の女性は落ち着いた口調でそう伝え、エレベーターの方向を指さした。
「ありがとうございます。」
橘は軽く頭を下げ、篤志をうながしながらエレベーターへ向かった。
エレベーターのボタンを押し、二人は無言のまま乗り込む。ゆっくりとドアが閉まり、数字が少しずつ変わっていく。
沈黙に耐えかねたのか、篤志がぽつりと尋ねた。
「橘さん、田中さんって、どういう関係の人なんですか?」
橘は腕を組んだまま、じっと前を見つめている。
「後で話す。とりあえず、俺の横で静かにしてろ。」
そう言って、篤志の質問をやんわりと遮った。
篤志は不服そうな表情を浮かべつつも、「はいはい」と肩を落として黙ることにした。
エレベーターが五階に到着すると、短い電子音とともに扉が開いた。
橘は左右を見回し、一瞬で目当ての場所を見つける。
「あそこだな。」
目線の先には「総務部」と書かれたプレートが掲げられたガラス扉がある。扉は半開きになっており、中の様子がうかがえた。
デスクが並び、多くの職員が忙しそうにパソコンを叩いたり、書類を抱えて歩き回ったりしている。電話のベルが断続的に鳴り、事務的な会話が飛び交う。
橘は軽くノックをした。
「失礼します。」
その声に反応したのか、奥にいた一人の男性が顔を上げ、こちらに歩み寄ってきた。
「伊藤さん、ですか?」
「はい、そうです。お待ちしておりました。」
伊藤と名乗る男性は、落ち着いた表情で頷きながら二人を迎え入れた。
「こちらへどうぞ」と言い、二人を応接室へと案内した。
応接室はシンプルな空間で、長方形のテーブルと数脚の椅子が並び、壁際には観葉植物が置かれている。大きな窓からは、都会のビル群が広がる景色が見えた。
伊藤が席を勧めると、橘と篤志はそれぞれ椅子に腰を下ろした。
「それで、本日はどのようなご用件でしょうか?」
伊藤が改めて尋ねると、橘はスーツの内ポケットから手帳を取り出し、篤志もそれにみならって手帳を見せた。
「少し確認したいことがありまして。」
橘はそう前置きすると、田中隆信の写真をテーブルの上に置いた。
「この方に見覚えはありますか?」
伊藤は写真を手に取り、じっと見つめる。そして、ゆっくりと頷いた。
「ええ、間違いありません。田中隆信さんですね。」
「ありがとうございます。」
橘は一度頷き、続けて質問を投げかけた。
「田中さんはどんな方でしたか?」
伊藤は少し考えるように視線を落とし、やがて穏やかな口調で答えた。
「真面目な方でしたよ。仕事には誠実で、遅刻や怠慢とは無縁の人でしたね。」
「そうですか。」
橘は短く返しながらメモを取る。
「では、何か悪い噂などはありませんでしたか?」
その瞬間、伊藤の表情がわずかに硬直し、ほんの一瞬だけ肩がこわばったように見えた。
(……今の反応、気になるな。)
橘は鋭く観察していたが、今回は深入りせず、あえてスルーすることにした。
「田中さんのご家族についてお聞きしてもよろしいですか?」
「ご家族ですか……ええ、確か奥様と小学生くらいのお子さんがいたはずです。ただ、プライベートな話はあまりされない方でしたので、詳しくは……。」
「職場で特に親しかった方などは?」
「うーん……社内で特別仲が良い方は、あまりいなかったと思います。」
田中隆信は、会社内ではあまり深い付き合いを持たず、業務に集中するタイプの人物だったようだ。
橘は一通りの情報を整理し、手帳を閉じると、伊藤に向き直った。
「今日はこれで失礼します。また何かお聞きすることがあるかもしれませんが、その際はご協力いただけますか?」
「もちろん、分かる範囲でお手伝いします。」
伊藤が頷き、橘と篤志は席を立った。
「では、失礼します。」
二人は軽く頭を下げ、応接室を後にした。総務部のフロアを歩きながら、橘は先ほどの伊藤の微細な反応が気になっていた。
(やっぱり、何かあるな……。)
そう胸の内で呟きながら、橘と篤志は病院を後にした。




