消えた記憶と愛する人の嘘 5
部屋に残されたのは、俺と彼女の二人だけ。
なんとなく、気まずい。
しんと静まり返る空間の中で、彼女がそっと口を開いた。
「謙……私のこと、覚えてない?」
不安と期待が入り混じったような瞳が、まっすぐこちらを見つめている。
だが――
「ごめん、全くわからなくて……
自分の名前とか、全部忘れてるみたいなんだ。
でも、日本語は話せるみたい(笑)」
苦し紛れの冗談だった。何か気の利いたことを言おうとしたが、頭が回らない。
すると、彼女は少し驚いたように目を見開き、次の瞬間、ふっと微笑んだ。
「全く、謙は……記憶喪失になっても軽いんだから。心配して損した!」
冗談めかして言うが、その表情の奥には、どこか安堵がにじんでいた。
俺は申し訳なくなって、改めて頭を下げる。
「……ごめん。本当に、何も思い出せない。」
すると彼女は優しく微笑み、少しだけ前に身を乗り出した。
「じゃあ、私の名前を教えるね。」
そう言って、まっすぐこちらを見つめる。
「朝比奈舞子。」
名前を口にした彼女の瞳が、期待を込めてこちらを覗き込んでくる。
「……なんか、ピピ~ンてきた?」
俺は申し訳なさそうに首を振る。
「……ごめん、何にも……。」
すると彼女――舞子は、困ったように眉を下げたあと、すぐに笑って言った。
「大丈夫、仕方ないよ、謙!」
励ますような声だった。
「私がついてるから。二人でゆっくり進んでいこう。だから、今は無理しないでね。」
その言葉に、俺はほっと息をつく。
「……ありがとうございます。あの、私はあなたのこと、何て呼べばいいですか?」
彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、それから笑顔を浮かべた。
「いつも通りでいいよ。まい、って呼んで。」
少し茶目っ気のある口調で続ける。
「謙に『舞子』なんて呼ばれたら、なんか調子狂っちゃうし。」
「……そうですか。」
俺はわからないまま、ぎこちなく頷いた。そして、ぎこちないまま、笑ってごまかした。
彼女――まいは、変わらず優しく微笑んでいた。