296 【疑惑】
俺は人事部の一角で、補助的な仕事としてパソコンにひたすら数字を入力していた。
いわゆる初心者向けの作業。特別な技術も判断力も必要ない単純な作業だけれど、妙に神経を使う。
それでも、やれることがあるということが、今の自分にとっては救いだった。
「こんなこと、俺やってたんだな……」
目の前の画面を見ながら、思わず小さくつぶやいた。
まったく記憶にない。自分がここで、こうして働いていたことすら、まるで他人の過去のように感じる。
そのことが、なんとも情けなくて、ちょっと苦笑いした。
けれど、ただ数字を入力しているだけじゃない。
表面上は単純作業に見えるこの時間も、俺にとっては貴重だった。
今はまだ本格的な調査には踏み込めないけれど、入力の合間に、少しずつ、さりげなく気になるデータや書類に目を通していく。
あの不自然な帳簿の書き換え——それに関わった人物を見つけるために、俺は静かに糸口を探していた。
「先輩、もう昼だから飯行きましょうよ」
不意に声をかけてきたのは、やはり武井だった。
この部署で最初に親切にしてくれた、明るくて調子のいい男だ。
「わかった。ちょっと待ってくれ」
そう返して、画面の保存ボタンを押す。
「大丈夫ですよ、慌てないで」
武井はにこやかにそう言って、すでに立ち上がっていた。
俺も電源を落とし、ゆっくりと席を立つ。
机の引き出しから財布を取り出し、軽く背伸びをしてから背中を伸ばした。
「さて、何食うかね」
俺たちは、昼休みの人の波へと足を向けた。
「先輩、久しぶりに社食でも行きますか?」
昼休みの廊下で武井が軽く声をかけてきた。
その誘いに、俺はふっと笑いながら頷いた。
「いいかもな。社食もどんなとこか見てみたいしな」
実を言えば、社食のシステムなんかもまったく覚えていない。
この会社にいた頃の記憶は、まだ戻っていない。
けれど、社食なら価格も手頃だし、なにより栄養バランスも考えられている。
一人暮らしで、朝はトーストにトマトという生活をしている今の俺には、ありがたい選択だった。
階段を下り、武井と並んで社員食堂のフロアに足を踏み入れると、すでに多くの社員たちが列を作っていた。
白く光る天井の照明、トレイを持つ手、スーツ姿で静かに順番を待つ人々の姿が、どこか懐かしくも新鮮に映る。
俺はその列に自然に並びながら、記憶の中にぼんやりとした既視感のようなものを探していた。
「ここから先、トレイ取って、好きなメニュー選ぶんですよ。サラダとか小鉢は自由です。で、メインはあっちのカウンターで注文です」
武井が手際よく説明してくれる。
俺はうなずきながら、まるで新入社員のような気分でトレイを手に取った。
前に進みながら、サラダを一皿、小鉢に入ったひじきの煮物をもう一つ。
「今日は日替わり定食が生姜焼きっすよ。けっこう人気あります」
「じゃあ、それにしようかな」
武井の言葉に従って、俺は日替わり定食を選んだ。
配膳された皿からは、香ばしい生姜焼きの匂いが立ち上ってくる。
白米と味噌汁もついていて、ボリュームも悪くない。
レジで会計を済ませ、2人はトレイを持って窓際の席へ並んで席についた。窓際の席は少し柔らかな光が差し込んでいて、社員食堂のざわめきの中にも穏やかな空気が流れていた。
「いただきます」と自然に言葉が出る。
そして俺はさっそく、日替わり定食のメイン、生姜焼きを一口、口に運んだ。
「……うまいな、これ」
その言葉は思わず口からこぼれた。甘辛いタレがほどよく染み込み、肉も柔らかい。昔からこの味だったのか、それとも記憶のない今だからこそ、素直にそう感じたのか、自分でもよくわからなかったが——とにかく、うまかった。
武井は、そんな俺の言葉にすぐに笑った。
「でしょ? ここの生姜焼き、地味に人気あるんですよ。俺もこれ、週一で食べてます」
そう言いながら、彼も豪快にご飯を頬張る。食べるのが早くて、どこか学生のような無邪気さもあった。
「たまには社食もいいもんだな」
「いやいや、先輩がそう言ってくれると嬉しいっす。なんか、ちゃんと戻ってきてくれたって感じがして」
「……そうかもな。やっと、少しずつだけど、自分の場所に戻ってきた気がするよ」
そんな言葉が自然と口から出た。いつの間にか、武井との会話にも緊張感はなくなっていた。
彼はただの後輩というよりも、今はこの会社での“繋がり”を実感させてくれる存在だった。
「先輩、次はうどんの日も来ましょうよ。あれもなかなかですよ」
「うどんか……いいな。それも食ってみたい」
2人は箸を動かしながら、他愛のない話を続けた。昨日までの不安や孤独感が、ひととき、和らいでいくのを感じた。
社食のテーブルの上に並んだ定食と笑い声——そんな何気ない昼食の時間が、思いのほか心を軽くしてくれた。
そんな時だった。
ふと、誰かの視線を感じた。
背筋をなぞるような、じわりとした視線。明確な敵意ではない。でも何か引っかかる。俺はゆっくりと箸を置き、水をひと口含みながら、何気ないふりで周囲を見渡した。
すると、向こうのテーブルに座っていた一人の男性と目が合った。すぐに視線は逸らされたが、その一瞬で「偶然」ではないと直感した。
「なぁ、あの人って誰だっけ?」
あくまで軽い口調で、俺は武井に問いかける。まるで、社内の顔を少しずつ思い出していく流れの一部であるかのように。
武井はちらっと視線を向け、すぐに答えた。
「ん? ああ、あれは山口さんですよ。総務部の人。たまにこっちのフロアに来ますけど……知り合いだったんですか?」
「いや、たぶん知らないと思う。顔にも見覚えないし。ただ、さっきからなんか見られてる気がしてさ」
「へぇ、気のせいじゃないですか? でも先輩、なんか最近目立ってますからね。噂にもなってますしね」
そう言って、武井は冗談交じりに笑った。俺の言葉に深く詮索する様子もなく、あくまで軽く流す。
俺もそれ以上は口にせず、「そうかもな」と笑い返した。
——だが、心の中では、どこか引っかかっていた。
北海道の件があってから、自分でも気づかぬうちに周囲への警戒が強くなっていたのかもしれない。
人の視線に敏感になっているのは確かだ。
山口という男がたまたま視線を送っていただけかもしれない。
だが、今の俺には「偶然」を簡単には受け入れられない。
注意深く、慎重に、行動しなければ。
俺はもう一度だけ、さりげなく彼の方を見た。
山口は今や何事もなかったかのように食事を続けている。まるで最初から何もなかったかのように。
だが、こういう違和感を見逃すと、あとで必ず後悔することを俺は知っている。
笑顔を浮かべているふりをしながら、俺は心の中で静かに、その顔と名前を記憶に刻んだ。
俺たちは社食での昼食を終え、人事部のフロアへと戻ってきた。
午後の日差しが窓から差し込んで、なんとなく心地よい空気が漂っていた。
デスクに着こうとしたその時、数人の同僚が俺のまわりに集まってきた。
「先輩、お帰りなさいって感じですね!」
「てか記憶喪失ってどんな感覚なんですか? ほんとに何もかも忘れちゃうの?」
「お休みの間は何してたんですか? どっか旅とか行ったんです?」
「で、どうなんです? 心に決めてた人とかは、覚えてたんですか?」
次々と飛んでくる質問に、俺は少し驚きながらも笑って答えた。
「うーん、記憶喪失っていうより……夢の中にいた感じかな。起きたら全部がぼんやりしててさ」
「休みっていうか、療養だったから……どこか行ったってわけじゃないけど、まぁいろいろ考えさせられたかな」
「心に決めてた人? それは……不思議と、忘れてなかったんだよな」
みんなは「へぇ〜」「ロマンチックっすね〜」なんて軽口を叩きながら、それぞれのデスクに戻っていった。
俺は、どこか懐かしいような気持ちでその様子を眺めていた。
この空気感――からかい半分、気遣い半分。まるで戻る場所がちゃんとあったことを証明してくれるような、そんな居心地の良さがそこにあった。
まったく、にぎやかな連中だな……。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。むしろ、少しずつ自分の居場所が戻ってきたようで、心の奥に静かに安堵が広がっていった。
午後の始業のチャイムが鳴り、俺は気を引き締めて再び椅子に腰を下ろした。
仲間に囲まれているこの感覚――思っていたより、ずっといいものだな。
昼食を終え、佐藤が一階のエレベーターホールに向かうと、ちょうど扉が開いた。
タイミングよく乗り込むと、すぐ後ろから小走りで近づく足音が聞こえた。
「すみません、ご一緒させてください」
そう言いながら滑り込んできたのは、総務部の山口だった。スーツの襟を整えながら、自然な笑顔を浮かべている。
「山口さん、どうも」
佐藤も軽く会釈して応える。
「あぁ、佐藤さんこんにちは」
エレベーターが静かに上昇を始めると、山口が少しだけ体をこちらに向けて、何気ない調子で話しかけてきた。
「そういえば、高木くん……お戻りになったんですね? 昨日、人事部で見かけたって話を聞いたもので」
「あぁ、はい。まだ本格復帰じゃないんですけど、少しでも職場の空気に触れたいって本人から希望があって。しばらくは、リハビリみたいに簡単な作業を手伝ってもらう形です。ゴールデンウィーク明けから復帰を目指すと本人は言ってますが、まだ記憶は全く戻ってないみたいですがね」
「そうなんですね」
山口は相槌を打ち、どこか感心したように頷いた。
「いまどき珍しいですよね。そんな風に自分から動こうとする若い人。……もしかして、何かきっかけになるような出来事があったのですかねぇ」
言葉の端にほんのりと探るような色があったが、あくまで自然な雑談の延長にも聞こえる。
「そうかもしれません。焦らず、少しずつ元に戻ってくれればと思ってます」
「記憶って不思議ですよね。ふとした瞬間に戻ることもあるっていいますし。……身近な人とか、大切な存在が刺激になることもあるそうですよ」
山口は話すテンポを変えずに、軽く笑った。
「ええ、そうですね」
佐藤は相手の目を見て頷いたが、それ以上詳しくは答えなかった。
エレベーターが目的階に到着し、扉が開く。
「では、お先に。お忙しいところ、失礼しました」
山口は礼儀正しく一礼し、自然な足取りでエレベーターを降りていった。
扉が閉まるまでの一瞬、佐藤はほんのかすかに眉を寄せた。
(……ただの雑談か。でも、なんとなく…気にかかるな)
だが、その違和感は小さな波紋のように、すぐに心の奥へと沈んでいった。
エレベーターの扉が閉まり、山口の姿が見えなくなったその瞬間だった。
佐藤の心に、ふとした違和感が浮かんだ。
(……待てよ。どうして、山口さんが高木のことをそんなに知っている?)
総務部と人事部は、日常的に業務で関わることはほとんどない。
社員の動向を話題にすることはあっても、それはあくまで噂レベルの範囲だ。
それに、山口の口から出た「昨日、見かけたって聞いて」という言葉――そこに引っかかった。
(昨日……?)
確かに、高木は昨日、ほんの短い時間、デスクに座っていた。
だが、彼が来たのは昼過ぎだ。人事部の一角にひっそりと顔を見せ、軽く数人と言葉を交わしただけで、すぐに帰ったはずだ。
あの短い滞在で、ましてや総務部の人間と接触するような機会はなかった。
(今日ならまだ分かる。朝から来てたし、職場の人と話す時間もあった。でも昨日は…無理がある)
誰かから聞いたというには、あまりに具体的すぎる言い回し。
「見かけたって話を聞いた」と言っていたが、それは本当に“誰か”からの話だったのか。
それとも、実際に本人が何らかの手段で知ったことを、そう偽っていただけではないのか。
――いや、そこまで考えるのはさすがに穿ちすぎか。
佐藤はそう自分に言い聞かせようとしたが、脳裏には山口の穏やかな笑顔が、なぜかうっすらと残っていた。
あの時の何気ない一言。あの視線。どこか、ただの好奇心とは異なる“探り”を感じたのは、気のせいだったのだろうか。
(……総務部。山口。何かあるのか?)
そう思いながら…
佐藤は単なる人事の雑談で終わらせてはいけない気がしていた。