消えた記憶と愛する人の嘘 12
足を一歩踏み出す。
廊下は思っていたよりも長く、先の方まで見渡すことができた。
ナースステーションがどこにあるのかははっきりとは分からないが、多分あそこだろう、と見当をつける。
遠くにカウンターのようなものが見え、白衣を着た人が出入りしているのが分かった。
間違いない、あそこだ。
俺は慎重に足を進めた。
ゆっくりと、確かめるように。
さっき病室の中を歩いたおかげか、最初よりも足は軽く感じた。
それでも、歩くたびにほんの少し体のバランスを崩しそうになる。
焦るな、ゆっくりでいい。
壁に手を添えながら、俺は一歩ずつ進んでいった。
病院の静けさの中、遠くからナースたちの穏やかな話し声や、どこかの病室から微かに聞こえるテレビの音が混ざり合う。
それが妙に現実味を帯びて感じられた。
俺は今、ここにいる。
何も思い出せないままだけど――確かに、生きている。
そんなことを考えながら、俺はナースステーションへと向かって歩き続けた。
ようやくナースステーションの前にたどり着いた。
思ったよりも距離はあったが、途中で立ち止まることなく歩けたことに、ほんの少し安堵する。
カウンターの奥では数人のナースが忙しそうに動いていた。
俺が立っていることに気づいた一人のナースが、自然な笑顔でこちらを向く。
「どうされましたか? 高木さん」
まるで何の違和感もないように、普通に名前を呼ばれた。
それが妙に不思議な感覚だった。
俺にとっては、“高木謙太郎”という名前すら、まだ馴染みのないものなのに――
彼女たちにとっては当たり前のように俺は”高木謙太郎”なのだ。
一瞬、言葉に詰まりそうになったが、動揺を悟られないように気を落ち着けて口を開く。
「あの……私の貴重品はどこにあるのか知りたくて」
できるだけ冷静に、穏やかに尋ねたつもりだったが、自分の声がどこかぎこちない気がした。
ナースは特に驚いた様子もなく、「ああ、それですね」と軽く頷くと、手元の書類を確認しながら続けた。
「少しお待ちくださいね。そちらの椅子に掛けて待っていてください」
彼女の声は明るく、特に深刻そうな雰囲気はない。
俺が思っている以上に、ここではすべてが日常の一部なのだろう。
促されるままに、近くの椅子に腰を下ろし、軽く息をつく。
ようやくここまで来た。
あとは、自分の持ち物を確認すれば、何か手がかりが見つかるかもしれない――
そんな期待を抱きながら、俺は静かにナースの言葉を待った。
ナースは優しく微笑みながら、俺に向かって小さく頷いた。
「高木さん、こちらでお預かりしているのは、このバッグだけですね」
そう言って、カウンターの奥から黒いビジネスバッグを取り出し、両手で丁寧に差し出してくる。
受け取ると、バッグの表面に触れた指先がわずかに引っかかった。
よく見ると、ところどころに深い擦り傷があり、端のほうはわずかに破れていた。
それが事故の激しさを物語っているように思え、思わず指でそっとなぞる。
「多分、中にお財布とか入っていると思いますよ」
ナースはそう言いながら、何かを思い出したように「あ、そういえば」と付け加えた。
「警察の方が言ってたらしいんですが……携帯電話、事故のときにめちゃくちゃに壊れてしまったみたいです。それで、彼女さんが処分したって聞きましたよ」
携帯を処分? 何もかも失っている状況で、それを確かめることすらできないのか――
一瞬、胸の奥がざわつくのを感じた。
「確か、あのとき……」
いつも来てくれるナースは少し考えるように視線を上げると、思い出したように続けた。
「彼女さん、コンビニの袋に携帯の残骸を入れて、『これ、どこに捨てればいいですか?』って私に聞いてきたんですよ。それで覚えてて」
そう言って、何気なく笑った。
彼女はただ親切で教えてくれたのだろう。
だが、俺の中には言いようのない引っかかりが残る。
どんなに壊れていても、自分が使っていたものならば、何か手がかりが残っていたかもしれないのに――