6 君の夫となる男の名だ。よく覚えておくといい
「……お父様、お母様。少しの間だけ、公爵閣下と二人にしてくださいませんか?」
そう頼み込むと、二人はぱっと顔を輝かせた。
「おっと、そうだったな。気が利かなくてすまない」
「ふふ、よかったわねエレイン。公爵閣下に失礼のないようにね!」
(ごめんなさい、お母様。それはたぶん無理ね)
そう心の中で謝りながら、エレインは笑顔で部屋を出ていく二人を見送った。
ぱたんと扉が閉まった瞬間、すっと浮かべていた笑顔が抜け落ちる。
「目覚めてそうそう俺と二人になりたいとは、ずいぶんと熱烈だな」
「ふざけないで」
からかうようにそう声をかけてきたユーゼルを、エレインは鋭い視線で睨みつける。
彼は前世でエレインのすべてを奪った宿敵だ。
可能であれば今すぐその首を掻き切り復讐を遂げたいところだが、まずは彼の真意を確かめなければ。
「いったい、なんのつもりなの。……シグルド」
あえて前世の名で呼びかけると、ユーゼル――シグルドはすっと表情を消した。
やっと化けの皮が剥がれるのか……とエレインは身構えたが――。
「俺を試しているのか? 君に恋焦がれる男の前で、別の男の名を呼ぶのはやめた方がいい」
「は?」
ベッドの脇に屈みこんだユーゼルは自然な動きでエレインの顎先を掬い取り、顔を近づけてきたのだ。
「……君はいつも俺の心をかき乱す。眠り姫のような君も美しいが、やはりその澄んだ瞳が俺を映してくれるのに勝る喜びはない」
「……え、ちょっと」
「戦場では舞姫のように可憐な動きで俺を翻弄したかと思えば、小鳥のように気絶し俺の心をとらえて離さない……とんだファム・ファタールだ」
「いや、あの――」
「それとも……すべて君の作戦なのか? そんなことをしなくとも、俺の心は既に君にしか――」
「いいから話を聞け!」
素面で恥ずかしすぎるセリフをべらべらと並べ立てるユーゼルの頭に、羞恥心に耐え切れなくなったエレインは渾身のチョップをお見舞いした。
「本当に、なんのつもりなの!? 答えなさい、シグルド!!」
怒りと周知で頬を真っ赤に染めながら、エレインはあらためてそう問い詰めた。
だがユーゼルは、何故か気分を害したようにむっとした表情になる。
「……ユーゼル・ガリアッドだ」
「……え?」
「君の夫となる男の名だ。よく覚えておくといい」
「いや、だから……それはあなたの今の名前でしょう? そうじゃなくて、シグルドは――」
「誰だ、そいつは」
「え…………?」
ユーゼルの口から発せられた言葉に、エレインの心臓が嫌な音をたてる。
目の前の男――ユーゼルは、エレインの仇敵シグルドの生まれ変わりだ。
それは間違いない。エレインの魂がそう叫んでいる。
エレインが前世――「リーファ」の記憶を忘れていないように、ユーゼルも「シグルド」だった時の記憶を保持している者かと思っていたが、まさか――。
「なにも、覚えていないの……?」
呆然とそう呟くエレインの頬を、ユーゼルの指先が優しく滑る。
一瞬、それが肯定の返事だとエレインは期待しかけたが――。
「どこの誰の話をしているのかは知らないが、人違いだ。俺は生まれた時からユーゼル・ガリアッドだった。シグルドなどという名前に覚えはない」
……心臓に、剣を突きさされたような気がした。
目の前の男は、エレインとは違い前世の記憶を持っていない。
何も、覚えていないのだ。
(そんな、嘘……)
あの美しかった王国のことも、裏切りも、リーファのことも、何もかも……。
(忘れてしまったというの……? そんなことって、ある……?)
エレインは、忘れられないのに。今も、こんなに苦しんでいるというのに。
真っ青な顔で黙り込んだエレインの背を、ユーゼルがそっと撫でた。
「……何があったのかは知らないが、今の君は俺の婚約者だ。そういう約束だっただろう?」
――勝負に勝ったら求婚を受け入れる。
確かにエレインはそうユーゼルが持ちかけた勝負に乗り、そして負けた。
それは紛れもない事実だ。
「……わかりました」
投げやりな気分でそう答えると、ユーゼルがそっと耳元で囁いた。
「誰のことをそんなに気にしているのかは知らないが、すべて忘れろ。いや、俺が忘れさせてやる。君は俺の妻となるのだから」
単なる口説き文句だと、受け流すことはできなかった。
(忘れさせてやる、ですって……?)
前世の出来事とはいえ、シグルドがリーファにしたことを、大切な祖国を滅亡へと追いやり、全てを奪ったことを、忘れろなんて。
(よくも、そんなことが言えたものね……!)
胸の奥底から湧き上がってくるのは、マグマのような怒りだった。
許さない。絶対に許さない。
おめおめと己の罪を忘れ去り、リーファの生まれ変わりであるエレインに求婚してきたことを――。
(必ず、後悔させてやる……!)
そんな決意を込めて、エレインは強くユーゼルを睨みつける。
ユーゼルは怯むことも不快を露にすることもなく、愉快そうに口角を上げる。
「あぁ……いいな」
彼はエレインと視線を合わせ、嬉しくてたまらないとでもいうように笑った。
「君のその苛烈な瞳は、どんな宝石よりも美しい。どうか、これからも俺を愉しませてくれ」
「えぇ、仰せのままに」
お望み通り、すぐにその喉笛に喰らいついてやる。
そんな決意を込め、エレインは誰もが見惚れそうな笑みを浮かべてみせた。