2 隣国の公爵様
(……ありえない。いくら酔っ払いに絡まれていたとはいえ、私が気配に気づかなかったなんて……!)
エレインは知らず知らずのうちに息を飲んでいた。
この男はエレインに気づかれないように気配を消し、こちらの様子を窺っていた。
そして今、自らの存在をエレインに気づかせようとわざと手を叩いてみせたのだ。
そこに何の意図があるのかわからない。わからないからこそ、底冷えするような恐ろしさを感じてしまうのだ。
「……何者ですか」
怖気づいたのを隠すように、エレインはしっかりとした声で問いかける。
見た目だけなら舞踏会に出席している貴族のようにも見えるが、こんなところにいるのは明らかにおかしい。
無視されることも予想していたが、意外にもその男はあっさりと答えてくれた。
「ユーゼル・ガリアッドだ。隣国ブリガンディアにて、ガリアッド公爵位を賜っている……と言った方がわかりやすいかな?」
「なっ……」
男の口にした言葉に、エレインは絶句した。
隣国ブリガンディアは、ここフィンドール王国とは比べるべくもない大国だ。
そこで公爵位を賜っている者と来れば……王太子エドウィンとも同格――いや、どちらかといえば格上の相手となる。
……目の前の男が言っていることが、本当だと仮定すればの話だが。
「……それはそれは、お見苦しい場面を御見せして申し訳ございません、公爵閣下。こんなところにいらっしゃるよりも、広間での舞踏会に参加する方がよほど有意義だと思いますが」
「いや……それよりも、こちらの方がよほど興味を惹かれる」
目の前の男――ユーゼルの目がエレインを捕らえ、にやりと笑った。
次の瞬間、彼は凄まじいスピードで駆け出した。
こちらへ――エレインのいる方へ向かって。
「なっ……!」
全身の肌がびりびりと警戒を促す。
久しく――「エレイン」として生まれ落ちてからは、経験することのなかった感覚。
これは……戦場で強敵と相対した時の感覚だ。
体がなまっていたからか、油断してしまっていたのか、まったく反応できなかった。
こんなの、予想外にもほどがある……!
(まさか、私を殺すつもり……!?)
あっという間に目の前に――それこそ目と鼻の先に、ユーゼルが現れる。
彼に少しでもその気があれば、簡単にエレインの命を刈り取れる距離だ。
「っ……!」
自らの死を予期して、エレインは息を飲む。
ユーゼルはエレインへと手を伸ばし、そして――。
「!?」
足元に跪いたかと思うと、恭しくエレインの手を取り甲へと口づけたのだ。
「……え?」
「君が華麗に先ほどの男を撃退する姿に心を奪われた。どうか、我が妻となってくれないだろうか」
「…………はぁ!?」
予想もしなかった突然の求婚に、エレインの頭は真っ白になってしまう。
ちょっと待て。今、この男はなんと言った!?
妻となってほしい? まさか、今のは求婚だったのか!?
前世は女騎士として戦いに生き、今世は幼い頃から好きでもない王太子の婚約者として苦労続きだった。
つまりエレイン・フェレルという人間は、恋愛面においては経験も耐性もほぼゼロだったのである。
(つつつ、妻となってほしいってどういうこと!? 心を奪われたって、私のこと好きになったってこと!? そんな馬鹿な!!)
真っ赤になるエレインを見つめ、ユーゼルはにやりと笑う。
「その反応を見る限り、満更でもなさそうだな」
「っ……馬鹿にしないでください!」
かっとなって、エレインはユーゼルの手を振り払う。
そのまま後退し、頬を赤く染めたままユーゼルを睨みつけた。
(この人、油断ならないわ……)
今世では初めて出会った、得体の知れない相手だ。
きっとエレインに求婚を申し込んだのも、本気でそう思っているわけではなく、何らかの意図があるか、ただの戯れなのだろう。
そう思うと、からかわれたことに怒りが湧いてくる。
「……申し訳ありませんが、わたくし、自分より弱い殿方には興味ありませんの」
彼はエレインが先ほどの男を撃退する場面を目撃しているはずだ。
同じ目に遭いたくないならば、下手な手には出ないだろう。
そんな思いを込めて挑戦的な笑みを浮かべると、ユーゼルは驚いたように目を丸くする。
しかしそのまま引くかと思いきや、彼はとんでもないことを言いだした。
「そうか、ならば好きなだけ試すといい」
「へ?」
「ここで戦ろう。俺が勝ったら求婚を受けてもらう」
ユーゼルは腰に佩いていた二本の剣のうち、一本をエレインの方へと投げてよこした。
「なっ!?」
「君の美しい肌に傷をつけるのは気が進まない。剣の打ち合いで構わないか?」
反射的に剣を受け取ってから、エレインは絶句した。
(な、何言ってるのこの人……!)