1 これでも前世は騎士ですから
「フェレル伯爵令嬢エレイン! 君の横暴にはもううんざりだ。私は真実の愛に出会ってしまった。よって、ここに婚約破棄を宣言する!!」
固唾を飲んで見守る観衆の下、まるで劇中のセリフのような勇ましい声が王宮の広間に響き渡る。
今まさに悪役に仕立てられ、王太子エドウィンに婚約破棄を宣言されたエレインは、内心で大きなため息をついてしまった。
……さて、どうするべきか。
おそらくこれはエドウィンの独断だろう。
その証拠に、彼の背後に控える家臣たちはあからさまに慌てた表情を浮かべている。
ここでエレインが泣き崩れながら許しを乞えば、「フェレル伯爵令嬢も反省しておりますので……」と王太子エドウィンの機嫌を損ねないように、誰かがこの場をとりなしてくれることだろう。
だが――。
(……なんで私が、そこまでしなければいけないのかしら)
エレインはエレインなりに、今まで婚約者として献身的にエドウィンを支えてきたつもりだった。
面倒くさがりで努力が嫌いな彼を傍で支えようと、王太子妃としてだけでなく王太子としても必要な知識を身に着けた。
彼が周囲から反感を買わないように、優しく公務への出席を促した。
……浮気だって許容した。
今彼の隣で勝ち誇った笑みを浮かべている男爵令嬢だって、愛人としてなら傍においても構わないと言っておいたのに……。
(何もかも、無得にされたわけね)
エレインの献身など、エドウィンには欠片も響いていなかったのだ。
どうせここでエレインが折れたとしても、また同じことが繰り返されるだけだろう。
そんなのは馬鹿らしい。
端的に言えば、エレインは怒っていた。ほとほと愛想が尽きてしまったのだ。
もうどうにでもなれ。婚約者ではなくなったのだから、エドウィンがどれだけ苦労しようが破滅しようがエレインの知ったことではない。
そう考えると久方ぶりの解放感が押し寄せて、エレインは知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。
まさかエドウィンも、婚約破棄を言い渡したばかりの相手がこの上なく嬉しそうな笑顔を見せてくれるとは思っていなかったのだろう。
ぎょっとした表情の元婚約者に、エレインは思わず周囲が息をのむほど美しくお辞儀をしてみせる。
「承知いたしました、エドウィン殿下。どうかお二人の未来が素晴らしいものでありますようお祈り申し上げます」
そんな心にもない言葉を述べ、エレインは金色の髪をなびかせ颯爽と踵を返す。
驚く人々の合間を縫って、すがすがしい気分で広間を後にした。
このまま婚約が破棄されるのか、「どうかお考え直しください」と家臣が頭を下げに来るのかはわからない。
だがしばらくの間は、わずらわしい責務から解放されてのびのびと過ごせそうだ。
あえてあまり使われることのない、薄暗い回廊を進みながら、さて明日から何をしようか……と、自由の時間に思いを馳せる。
(……この機会に、探してみようかしら)
幼い頃から、エレインには周囲の人間と決定的に違う点があった。
いわゆる「前世」の記憶を持っていたのだ。
かつてエレインは、「リーファ」という名の女騎士だった。
今はもう、地図にも載っていない小国で。
賢く優しい女王の下、人々を守るために剣を振るっていた。
あの時守りたかった国はもうない。仕えていた主や仲間たちも、生きてはいない。
だがそれでも……ふとした瞬間に思い出さずにはいられないのだ。
ほんの少しだけでも、「リーファ」が生きた時代の痕跡がどこかに残っていないだろうか……と。。
ずっと探しに行きたかった。だが伯爵令嬢であり王太子の婚約者であったエレインにそんな自由は与えられていない。
でも、今なら……。
「傷心旅行」とでも言い訳をして、長年の願いを叶えられないだろうか。
そんな考えが浮かんだ時だった。
「お待ちください、フェレル伯爵令嬢」
背後から自身の名を呼ぶ声が聞こえ、エレインは足を止める。
家臣たちはやはりエレインを連れ戻すことにしたのだろうか。
いつも長ったらしく中身のない会議をしている癖に、こういう時ばかり迅速なものだ。
そんな呆れを含みつつ、エレインは背後を振り返る。
そして、思わず顔をしかめてしまった。
そこにいたのは、にやにやといやらしい笑みを浮かべる、エレインも一応は面識もある貴族の男だ。
だが、彼はまかり間違っても国の上層部の意志を伝達するような重要な役目を負う人間ではない。
家名と財力だけで、名ばかりの役職についているぼんくら息子……それがエレインの彼に対する率直な評価だった。
(……となると、なぜ私に声をかけてきたのかしら)
もう少し、彼の出方を見よう。
そう決めた十秒後には、エレインは己の行動を後悔することになる。
「おぉ、なんとお可哀そうなフェレル伯爵令嬢……。こっそり涙を流したいのなら、喜んでこの胸を貸しましょう!」
彼はそんな世迷事をのたまいながら、ふらふらとした足取りで距離を詰めてきたのだ。
(うわ、酒臭……!)
エレインはすぐに事態を理解した。
おおかた酔っぱらった勢いで、王太子に捨てられたばかりの哀れな女にちょっかいをかけてあわよくばモノにしようというのだろう。
あまりに浅はかで低俗な行動だ。
「……結構です」
とりあえずは、きちんと言葉で断っておく。
ここで退いてくれるのなら、それ以上咎めないつもりだった。
だが――。
「なんと慎み深い……。だが、そう遠慮せずともよいのですよ」
なんと酔っ払い貴族は、図々しくエレインの腰を抱いてきたのだ。
至近距離で囁かれ、むせ返るような酒臭さに吐き気がする。
一瞬で鳥肌が立ち、エレインは心の中で盛大に舌打ちをした。
「結構ですと申し上げたはずですが」
「うぐっ!」
明確な拒絶の意志を込めて、相手の胸に肘打ちを叩きこむ。
これが、最後通告だ。
だが残念なことに、それでも相手は気づかなかった。
自分が誰を相手に、いかに愚かな行為をしているのかを。
「クソッ……下手にでれば調子に乗りやがって……!」
ふらふらとよろめきながら、酔っ払い貴族はエレインに殴りかかってきたのだ。
(緊急時で、防衛の意志があって、こちらに正当性もある……よし)
「……正当防衛ですから、恨まないでくださいませ」
そう呟き、エレインはいとも簡単にひらりと身をかわす。
そして、ふらつく男に足を引っかけバランスを崩させると、その腹めがけて一気に拳を叩きこんだ。
「ぐふっ……!?」
うめき声をあげて、貴族の男は背後の壁に激突し、ぐしゃりと床に崩れ落ちた。
爪先で軽く蹴りを入れてみたが、目立った反応はない。
どうやら気絶しているようだ。
「恨むなら、馬鹿な自分を恨むのね」
これでも前世は国を守る騎士だったのだ。
こんなくだらない酔っ払いなど、目を瞑ってでも対処できる自信がある。
「はぁ……帰ろ」
あの男の酒臭さが移ってしまったような気がして不快だ。
はやく風呂に入って身を清めたい。
正式に婚約破棄が発表されたらいろいろと騒がしくなるだろう。
その前に、さっさと傷心旅行に出発してしまうのもいいかもしれない。
そんなことを考え、足を踏み出そうとした時だった。
ぱちぱちぱち――と。
この場にはそぐわない、乾いた拍手の音が耳に届いた。
「誰!?」
エレインは即座に身構え、音の方向へと振り返る。
そして、驚きに目を見開いた。
天窓から差し込む月明かりを浴びるようにして、一人の男が立っていた。
夜の闇に溶けてしまいそうな漆黒の髪。
シャープな輪郭に、すっと通った鼻梁、涼しげな目元。
年のころは二十代ほどだろうか。エレインよりもずっと長身だ。
そして何より印象的なのは、興味深げにこちらに向けられた、美しく澄んだ翡翠の瞳だ。
まるで一枚の絵画のように、舞台劇のワンシーンのように、その男はそこに佇んでいた。
……いったい、いつから?
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