自称哲学的ゾンビ
「お母さん。哲学的ゾンビって知ってる?」
「なにそれ」
「見た感じは普通の人と全く同じように振舞うんだけど、本当は感情とか感覚とか意識とかが無い人の事だよ」
「そう」
「お母さんは哲学的ゾンビじゃないよね?」
「そんな訳ないでしょ。また変な事ばかり言って」
やっぱりお母さんも哲学的ゾンビじゃなかった。
私はホッとすると同時に、少しがっかりしてもいた。
「余計な事ばっかり考えてないで勉強しなさい」
「はいはい」
考えるなと言われても、勝手に考えてしまう。
倫理の授業で哲学的ゾンビの話を聞いてから、私は哲学的ゾンビの事ばかり考えるようになってしまった。
特に考えるのは、哲学的ゾンビが本当に存在するのかどうかだった。私は気になって仕方なかった。
意識とか感覚とか感情が本当はないのに、普通の人と同じように振舞う人って、いったいどういう人なんだろう。もし哲学的ゾンビがいたとしたら、その人と話してみたい。出来たら友達になってみたい。
でも、哲学的ゾンビはどうしても見つからなかった。
友達にも手あたり次第に哲学的ゾンビじゃないか聞いてみたけど、みんな異口同音に否定するばかり。みんな哲学的ソンビじゃないみたいだった。
「つまんないの……」
「いいから食べて学校行きなさい。遅れるわよ」
「はーい」
朝食のシリアルヨーグルトを食べ終えて、私は憂鬱な気分で学校に向かった。
一人でトボトボ坂を上っていると、楽しそうにはしゃぎ歩く男子生徒の集団に追い抜かれる。この人たちの中に哲学的ゾンビはいないのかな、と考えている自分に気付く。
哲学的ゾンビを本気で探すなら、もっと色んな人に哲学的ゾンビかどうか聞いたほうがいいんだろうか。でも、あんまり聞き過ぎたら変な子って思われるかも。
……まあ、多分もう変な子って思われてるけど、あんまり変な子って思われ過ぎたら嫌だし。
もう、程々にしておかないと。
そうやって自制しようと心がけてはいたけど、教室に入ってクラスメイトに出くわすと、ついついまた聞いてしまう。ギリギリ友達と言えなくもない浜口さん。話しかけやすそうな谷くん。隣の席の田島さん。
「違います」「な訳ないじゃん」「違うよー」
聞いてみたけどみんな違った。
やっぱり哲学的ゾンビがいたとしても、そんな簡単に見つかる訳ないか……。
◇
気落ちした私は授業も上の空でフワフワと哲学的ゾンビの事を考えていた。そうやって気付いたら昼休みのチャイムが鳴っていた。食欲が無かったので、机に突っ伏して哲学的ゾンビの事を考えていると、
「俺、今朝小野寺さんに話しかけられちゃってさ」
「ふーん」
男子生徒二人の声が聴こえて来る。今朝私が話した谷君と……あと確か大久保君だ。二人とも私が教室にいる事には気付いていないようだ。私は息をひそめて、耳に全神経を集中させる。
「なんて聞かれたんだ?」
「俺の事、哲学的ゾンビじゃないかって」
「へえー」
「なんかあの人、哲学的ゾンビを探してるみたいだぜ。そんなのいる訳ないのになあ」
「いや、いるよ」
「は?」
「僕が哲学的ゾンビだし」
大久保君は確かにそう言った。間違いない。私の心臓が、大きく脈打つのが分かった。ついに見つけた。大久保君が哲学的ゾンビだったんだ。
「嘘つけ」
「本当だって」
「じゃあくらえー! デュクシ!」
「いたたたた! 痛いって!」
「ホラ! 痛みあるじゃねえか」
「いや、実際に痛みはないけど反応はするんだって」
「なんだよそれー!」
「――ちょっと! いいかな?」
私は立ち上がって声を張っていた。二人が驚いたように私を見る。
「大久保君が哲学的ゾンビっていうの、本当?」
「本当だけど」
「じゃあ今日の放課後、体育館の裏に来て」
「う……うん」
◇
放課後になってすぐ、私は走った。上履きのまま雑草の茂みをつっきり、体育館裏に向かう。大きな木の傍に立つ。
今か今かと待ちながら、胸の音が張り裂けそうな程高鳴っていた。
きっと走ったせいだけじゃない。
私は、大久保君に恋をしてしまっているのかもしれない。
……別に、見た目はそんなに好みではない。むしろ何となく暗い雰囲気が怖くて苦手だ。それでも大久保君が哲学的ゾンビだと思ったら、それだけで私は大久保君の事で頭がいっぱいになった。話して見たかった。見つめ合ってみたかった。付き合って、恋人になっても楽しいかもしれない。哲学的ゾンビの恋人って、どんな感じなんだろう。ちょっと憧れちゃうな。とか思っていると、
「ごめん。待った?」
「大久保君……」
「なに?」
「大久保君は、哲学的ゾンビなんだよね?」
「そうだよ」
それから、沈黙が続いた。
大久保君は俯いたり、チラチラとこちらに目線を上げたりしていた。
私も俯いたまま何も言えなくなっていた。
……正直私は肩透かしを食らってしまっていた。がっかりしていた。
何となく、大久保君の表情がニヤニヤといやらしい感じだったし、視線も私の胸をチラチラと見ているような気がして嫌だった。同時に不信にも感じていた。大久保君が本当に哲学的ゾンビだったら、こんな嫌らしい目線ができるんだろうか? 出来るのかもしれないけど、直感的には出来ないような気がしてきた。騙されている気がして来た。
私は一人で待っている間、頭の中で大久保君を美化し過ぎてしまったのかもしれないけど……でも正直ガッカリだった。
「大久保君は、本当に哲学的ゾンビなの?」
「そうだよ」
「何か証拠はあるの?」
「……ないけど。それいったら、小野寺さんだって哲学的ゾンビじゃないっていう証拠はないだろ?」
「うん」
「おあいこだよ」
確かに、私に感情や感覚があるという証拠を他人に示すことは出来ない。ただ私から見たら、私はどう考えても感情や感覚があるというだけの話だ。
その点は妙に納得してしまったけど、私の中の疑心は大きくなるばかりだった。
「大久保君は、いつから哲学的ゾンビなの?」
「5歳くらいの事までしか憶えてないけど、多分生まれた時から」
「小学生の頃からずっと意識も感情もないの?」
「うん」
また胸を見られた。今のは絶対見た。気付いていないとでも思ってるんだろうか。
私はイライラしてきた。ずっと哲学的ゾンビを探していた筈なのに、今となっては大久保君が哲学的ゾンビであって欲しくなかった。どうしても大久保君の嘘を見抜いてやりたくなっていた。
「大久保君は意識が無いって言うけど」
「うん」
「意識がないなら、なんで意識があるみたいな演技するの?」
「別に演技してるわけじゃないよ。僕がやっている事は、自然とそうなっている、としか言いようがないね」
なかなかボロを出してくれそうにない。
私は切り口を変える事にした。
「でも、おかしくない? 意識がないのに、大久保君はなんで意識が無いって事に気付けたの? 意識が無いなら、意識っていうものが何か分からないんじゃない?」
「まあ、確かによくわからないね」
「大久保君にとって何か分からない意識や感情が大久保君だけ無くても、無いって事に気付けないよね?」
「……ずっと気付かなかったのは確かだよ。僕はずっと、自分に意識や感情があると勘違いしていた。意識とか感情の、言葉の意味を間違えていたからね。というのも、僕は意識というのはもっと表面的で機械的な物だと思っていたんだ。でも小6の時、道徳の時間に変な話が出て来てね。いくらロボットを人間そっくりに作っても意識や感情は宿らない、みたいな話だった。その話が、ぼくには全く意味不明だったんだ。ロボットが精巧に出来ていたら、意識や感情が宿るに決まっているじゃないか。僕にはそうとしか思えなかった。僕にとっての意識はバラバラの情報を集めて統合する機械的な物で、感情も無機的なパラメータの一種に過ぎなかったからね。みんなそうだと思っていた。でも話を聞いていくうちにどうも違うって気付いたんだ。どうやら僕以外の人が持つ意識や感情は、物質的でないフワフワしたものらしいね。僕にもそのくらいの見当はつくよ。僕には理解できないけど」
「大久保君は、精巧に出来たロボットみたいな存在ってこと?」
「うん。そう考えて貰っていいと思う。そんなに頭がいい訳でもないし、本能もあるし、肉体に関しては人間そのものだけどね」
「……わからないな。意識とか感情とかないのに何のために生きてるの?」
「そんなこと言われても、小野寺さんだって困るだろ? ただ生きているから生きているだけなんだと思うよ。最も、『生きている』という言葉の意味が僕と小野寺さんでは違っていると思うけど」
「……『思う』? 『思う』って何? さっきからずっと気になってたんだけど、大久保君は何回も『思う』って言ってるよね? 哲学的ゾンビだったら、『思う』事はできないんじゃないの?」
「そりゃ、小野寺さんのように『思う』事は出来ないよ。僕の『思う』は、コンピューターが『思う』と名付けた領域に情報を仮置きしておくような意味でしかない。普通の人の意識が僕の意識と違う様に、普通の人の『思う』と僕の『思う』は全く違う意味なんだ。他に言いようがないから、便宜上『思う』という言葉を使わせて貰ってるだけさ」
私はつい納得しそうになったけど、それでも頭を振り払った。
「……やっぱり違うよ。大久保君は哲学的ゾンビじゃない」
「何で?」
「哲学的ゾンビは、哲学的ゾンビじゃない人と全く同じように振舞うんだよ? 大久保君は自分が人と違うって事に気付いて私に説明までしてるんだから、哲学的ゾンビじゃない人と同じように振舞っているとは言えないよ」
「……まあ、厳密にはそうだね。でも僕だって感情が無いのに笑ったり怒ったりする素振りを見せる事はあるし、殆ど普通の人と同じように振舞っているよ。ただ哲学的ゾンビかどうか聞かれたら、『そうだ』って答えるだけさ。妙に隠し立てするより、そっちの方が自然じゃないか?」
「でも……都合が良過ぎるよ。哲学的ゾンビを探してたら同じクラスにたまたま見つかるなんて」
「哲学的ゾンビなんて、そんなに珍しいのかな。……ところで小野寺さんは、単細胞生物には意識があると思うかい?」
「ないと思う」
「クラゲには?」
「ないと思う。脳みそないし」
「アリには?」
「ちょっとはあるんじゃないかな。脳みそあるし」
「なるほど。小野寺さんは脳みそが意識を生み出すと思ってるんだね」
「……わからないけど、多分そうだと思う」
「意識が物質である脳に由来するなら、脳の中に意識を作り出す仕組みがあると考えるのが妥当だろう。その仕組みに何らかの異常があれば……僕の様な哲学的ゾンビが生まれて来るって考えられないかい?」
「…………」
「哲学的ゾンビなんてそんなに珍しくないと思うよ。普通の人でも眠っていて意識がない時に寝返りをうったりするし、心臓だって意識せずに勝手に動き続けてるじゃないか。哲学的ゾンビってのは、そういう無意識が全ての思考や動作に拡大しているだけなのさ。そんなに珍しくないはずだよ。哲学的ゾンビなんているわけない、ってみんなが思い込んでるから誰も探そうとしないってだけでね」
やっぱり、大久保君は哲学的ゾンビなんだろうか?
私は信じかけていた。……信じかけていたけど、またチラッと胸を見られた。やっぱり信じたくなかった。
「大久保君は、自分の事を哲学的ゾンビだって思い込んでるだけじゃないの? 大久保君が哲学的ゾンビだと思い込んでる普通の人であるという可能性はどうやっても消えないよね? 大久保君の機械的意識の中で、その事を証明できる? できないよね?」
「そんな事いったら、小野寺さんだって……」
「私は自分が哲学的ゾンビじゃない事を、私の中で証明できる。だって、私には意識があるから。『我思う、故に我在り』だから。でも大久保君は違うよね?」
「…………」
「本当は意識があるのに、気付いてないだけなんじゃないの? 違うって言うなら、大久保君に意識が無いって事を大久保君自身に証明できる?」
「……悪魔の証明じゃないか。ないことは証明できないよ」
「とにかく、大久保君は哲学的ゾンビじゃないよ」
「何か根拠があるの?」
「根拠なんてないよ。ただ、私が信じたくないってだけ」
「信じてよ!」
「……無理」
「だったら、僕だって小野寺さんの意識を信じないよ」
「勝手にすれば」
「…………」
「今日は来てくれてありがとね。でも、もう変な嘘はつかないで」
大久保君は不平そうに顔をひしゃげさせて「嘘じゃない」とか「ずるいよ」とかブツブツ不平を垂らしながら帰って行った。
◇
いつもの坂を下り家に向かう道すがら、私はずっと大久保君の事を考えていた。体育館裏で話した時はムキになって否定しちゃったけど、時間が経って冷静になったら大久保君が哲学的ゾンビでもおかしくないような気がして来た。
――結局、他人が哲学的ゾンビかどうかは分からない。もしかしたら、大久保君は本当に哲学的ゾンビなのかもしれない。少なくともその可能性はある。……いやでも、私の見る世界の中では確かめようがないんだから、可能性っていうのも変かも知れない。絶対に確かめようがないんだし。大久保君が哲学的ゾンビかも知れないって、仮定する事は出来るけど。結局は私がどう考えるか、どう信じるかって事でしかないのかも。
それにしても……もし大久保君が哲学的ゾンビだったとしたら、悪いことを言ってしまったかも。信じてあげた方が良かったかな。でも嘘だったら嫌だしなあ。そもそも、大久保君が哲学的ゾンビだとして、なんで大久保君は私に自分が哲学的ゾンビだって信じて欲しかったんだろう。
取り留めも無い考えが浮かんでは消えていく。そのうち私は、やっぱり大久保君は哲学的ゾンビではないような気がして来た。哲学的ゾンビの人がそんなにありふれているなら、そういう人がテレビに出たりしてないとおかしいからだ。そんな人の話、聞いた事もない。普通に考えて、脳がちゃんと機能してたら自動的に意識とか感覚が出て来るのが自然だと思う。
うん。そうだよ。哲学的ゾンビなんている訳ない。大久保君は私を騙してからかおうとしてたんだ。
そう考えたら、大久保君への苛立ちが沸々と湧き上がって来る。……私の胸ばっかり見やがって。嘘つきやがって。
イライラしたので、頭の中で大久保君をボコボコに殴ってアッパーカットで空に打ち上げてやった。「エヒイイイイイイ!!」と大久保君は情けない叫びと共に空に飛んで行って星になった。少し清々した。
でも、もし大久保君が哲学的ゾンビだったら……ちょっとやりすぎちゃったかも……。
軽く反省しつつも苦笑していると、いつの間にか家の門をくぐっていた。
庭には赤いツツジが花をつけていて、私はとてもきれいだと思った。