暗黒龍の小さな手
「大丈夫か!?」
その日は厚い雲が空を覆っていた。
まだ最強と呼ばれる前の話。
師匠の死によりサレイ達から離れた後。
俺は一人で旅していた。
モンスターと仲良くなる道を探す旅。
そんな旅の道中だった。
彼女と初めて出会ったのは。
「お前、暗黒龍か?」
返事は無い。
だが漆黒の巨躯を見ればわかる。
危険度S級モンスター、暗黒龍であると。
人類の天敵とも言える存在であると。
恐怖していた事を覚えている。
人間など一撃で葬ってしまう強さ。
傷一つ与えられないと言われた肉体。
それが目の前にいるのだ。
傷つき、警戒したような状況で。
この頃の俺は青二才だ。
最強になるのはこの出会いの少し後。
目の前に暗黒龍がいると言う状況を飲み込むだけで精一杯だった。
そんな俺から離れた場所に彼等はいた。
「言ったろ? この剣なら殺れるって」
「殺し切れなかったみたいだけど?」
「あれだけ出血してりゃ死ぬだろ」
岩陰でニヤつくブライ。
その手には既に全壊剣が握られている。
あの夜の殺人から、この兄妹はどれだけの日々を過ごしたのだろう。
その顔に過去の二人はいない。
「あの人はどうするの?」
「放っとけ、ただのバカだ」
「兄さんも無謀だったけどね」
「俺は試し切りだし」
妙な因縁もあったものだ。
これ程まで近くにいたとは。
俺は彼等に気づいていなかった。
こちらからも俺の顔は確認できない。
人里近くの山岳に声だけが響く。
半人前にすらなっていない俺の声。
そんな声も彼等の興味範囲にはない。
「用事は終わりだ、行くぞシズマ」
「……うん」
躊躇いつつもシズマは頷く。
その瞳は俺達を見つめていた。
視線の先には大小二つ並んだ影。
心に残る罪悪感を振り払うように、彼女はブライの背を追った。
「じっとしてろよ、何とかするからな!」
ここで途切れるはずの記憶。
シズマ視点の記憶なのだから当然だ。
しかし、過去の俺は叫んでいた。
記憶が繋がる。
その言葉の意味をやっと理解できた。
ここからは俺とラナの記憶。
文字通りシズマの記憶を経由した。
その経由地点がここという事か。
そのまま俺は過去を見つめる。
『我が恐ろしくないのか?』
そうだ、出会った頃のラナはこうだった。
恐らく龍皇の影響だろう。
しかしそれでも暗黒龍。
威圧感は龍皇とさほど変わらない。
そもそも人の言葉を話した事に驚いた。
だが、この時の俺は覚悟を決めていた。
恐怖よりも使命感に溢れていた。
『早く立ち去れ、食うぞ』
「……それはできない」
『何?』
僅かに低いラナの声。
今では作った声だと理解できる。
それでも俺は恐怖を隠すのに必死だった。
「お前を放っておけない」
『貴様、何を言っている?』
ラナが目を丸くする。
対してこの時の俺はどうかしていた。
そう思える程の使命に燃えている。
自分よりも格上の生命体。
だけど確実に衰弱している。
なぜ人里の近くにやってきたのか?
そんな事は考えていなかった。
「その傷でどうするつもりだ」
『こんな傷どうという事——くっ!』
「言わんこっちゃ無い」
俺の精神に余裕が生まれた。
暗黒龍にも見栄がある。
そう知った時、恐怖心は消えていた。
ラナの傷口へと歩み寄る。
赤い血肉が丸見えになっている。
流血も多い。
だが内臓には届いていない。
人間ならば回復魔術で何とかなる。
だが俺はこの頃も召喚術以外使えない。
頼れるのは鞄の中のアイテムだけだ。
『我は人間では無い』
「でも困ってるだろ?」
大荷物を解きながら会話を交わす。
よくこんな言葉を躊躇いなく言えるな。
それでもこの言葉は、俺の本心から漏れたものであった事を思い出す。
当時はそれ以外考えられなかった。
『……好きにしろ』
呆れなのか、照れ隠しか。
今でもわからない。
それでも彼女は顔を背けてそう言った。
その言葉に、俺は瞳を輝かす。
「 痛み止めと止血薬あるけど暗黒龍に効くかな……あと包帯もでっかいのが必要だな」
荷物を全部出して考える当時の俺。
これが俺達の交わした初めての会話だ。
この後、何とかラナの治療はできた。
そのまま暗黒龍の住む谷へ二人で送り届け、しばらくの間ラナの傷を手当てし続けた。
龍皇と初めて会ったのはその時だ。
今の俺があるのはこの時間のおかげだ。
モンスターへの恐怖はほぼ無い。
姿が違うだけで、人間と余り変わらない。
俺はそれを知ったのだ。
『……恥ずかしいですね』
「そうだな、ラナ」
ふいに隣から声が聞こえた。
少しだけ涙が溢れそうになる。
だがそれを抑え口を開く。
隣にいる見慣れた少女。
その姿はうっすらと透けている。
「お前を助けに来た」
『はい、待ってました』
「待たせて悪い」
辛い思いをさせてしまった。
過去の恐怖も思い出させてしまった。
だが、やっとここまで辿り着いた。
微笑むラナに謝罪する。
しかし彼女は表情を崩さない。
その代わりに、小さな手を差し伸べる。
暗黒龍とは思えない手。
か細くも頼もしい小さな手。
『行きましょう、あと一歩です』
「——ああ、行こう」
差し伸べられた手を、俺は掴んだ。





