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作者: 村崎羯諦

 左手の腕時計を見る。時刻は8時45分。ダッシュで来た道を戻っても絶対に間に合わない。ま、会社に遅れてもいいか。好きでもない仕事のために必死になるなんて馬鹿馬鹿しいし。


 俺は諦めのため息をつき、再び歩きだす。薄鈍色のアスファルトの上、赤いクレヨンで大きく殴り書きされた矢印。指し示す方向を100~200m先に進むと、同じような矢印がまた描かれている。先ほどから俺はこの矢印が指し示す方向へと歩き続けていた。明確な理由なんてなかったし、そうすることが好きだというわけでもなかったけれど。


 矢印の存在に初めて気が付いたのは、急ぐあまり足をもつれさせ、固いコンクリートの地面へと盛大にダイブしてしまった時だった。擦り剝けた掌とすすけた安物のスーツに身を包んだ自分をどこか冷めた目で見た後、先ほどまでは見えていなかった赤い矢印が自分の視界に映った。きっと子供のいたずらだろう。ほほえましい光景に、先ほどまでの焦燥感はすっかりどこかへ行ってしまった。俺は好奇心に駆られ、その矢印の先に歩いて行く。すると、また矢印が地面に描かれており、その先へ目を凝らすと、数百メートル先に禹うっすらと同じような矢印が見えた。矢印は駅とは反対の方向だったし、急がないといけないことも事実だった。それでも、俺は矢印に従って歩き始めた。どこか投げやりになっていたし、なんだかそうしなければならないような気がしたからだった。


 しかし、子供のいたずらにしては、矢印はいつまでも絶えることがなかった。右に曲がったかと思いきや、左に曲がり、結局は無駄に一周しただけということもあった。住宅街の中を突っ切っていくこともあったし、大きい国道を渡ったこともあった。公園の散歩道、空き家の庭、河川にかかる大きな橋、歩道橋。矢印には何の法則性もなく、決まったルートを選んでいるというわけではなかった。初め、矢印はどこかへと俺を誘導しているのかと考えていたが、どうやらそういうわけでもなさそうだった。


 太陽は頂点に達し、日の入りに向けてのウォーミングアップを始めている。汗が気持ち悪いし、足の裏も痛い。正直、もうやめてもいいかと思う時も何度もあった。それでも、そうしたら何だか会社を休んだ意味がなくなるような気がしたため、俺は半ば意地になって歩き続けた。今まで、大事な場面で逃げ続けてきた自分が何をいまさら。頑張るにしても、仕事とか他に必死になるべきことがあるだろう。足が疲れて一休みしていると、頭の中でもう一人の自分がそう語り掛ける。俺は答えに窮した。けれど、足をしっかりと休めた後は、不思議と活力が湧いてきて、また同じように矢印が指す方向へ歩き出す。


 日が暮れてもなお、矢印は途絶える気配を見せない。しかし、家に帰るという選択肢はなかった。近くのビジネスホテルにチェックインした後、スーツや鞄を家に送り返して、歩きやすい服と靴を買う。もう昼過ぎ以降からは会社からの着信もなくなっていた。結局こんなものかと気持ちが覚める。ここまで来たら、とことんやってやる。翌日、俺は柄になく早起きをし、朝一から矢印の方向へ歩き出した。


 ただただ歩くだけの時間だったが、退屈をするということはなかった。というのも、変わったことをやっている人間は俺の他にもいて、途中で何人かの人間を追い抜き、または追い越されたりもしたからだ。時間が有り余っている大学生に、無職の中年男性、昼休み休憩中のOL。変なことをやっている同士、奇妙な連帯感が湧いてくることもあって、お互いにお互いの存在に気が付くと、軽く会釈をしてみたり、気軽に話しかけもした。退屈だからと並んで歩き、雑談に花を咲かせるということもあった。けれど、俺のように会社を休んでまで矢印を追いかけている人間とは出会わなかった。それが、なぜだか俺の自尊心を満足させた。


「妻が子供を連れて出ていっちゃいってな」


 そう言ったのは、昼間から仕事にもいかず酒を飲んでいた中年の男。重度のアル中で、酔っぱらうと暴力をふるってしまうんだと卑屈そうに笑った。口からはアルコールの臭いがしたし、前歯の先が欠けていた。彼とは数時間一緒に並んで歩いた。通りかかった公園で、太陽がさんさんと照り付ける中ベンチに座り、コンビニで買ってきた安いチューハイで乾杯した。酔っぱらった男から暴力を振るわれ、それがもとになって喧嘩別れをすることになった。


「会社行かなくて大丈夫なんですか? 首にならないんですか?」


 馬鹿にするようにそう茶化してきたのは、人生のモラトリアムを満喫するエリート大学生だった。彼はつい先日決まったばかりの内定先を延々と崇め奉り、中小企業で馬車馬のように働かされている自分を暗に馬鹿にし続けた。恋愛の話になり、今現在彼女がいないことを告げると、ちょうど今夜合コンがあるから来ませんかと、恐ろしいほどの無邪気さで言った。数が足りないわけでもないし悪いよと遠まわしに断ると、そういうノリが悪いところが駄目なんじゃないですかと本気か冗談かわからない失礼なことを言ってのけた。彼は一、二時間一緒に歩いた後、合コンに遅れるからとタクシーを呼び、離脱していった。


「あれ、須田君!?」


 出会った人間の中で一番長く行動をともにしたのは、偶然出会った中学の同級生、沼田君だった。沼田君とは中学の時、漫画の貸し借りを数回やっただけだったし、初めは誰だか全く思い出せなかったくらいの仲だった。というか、沼田君が近くに住んでいたことさえ知らなかった。お互いに探り合うような会話から始めたものの、次第に打ち解けていき、不思議なもので最後の方は昔よりもずっと仲良くなっていた。


 彼とは数日間、ともに歩き続けた。同じホテルに泊まり、同じタイミングで休んだ。会社以外に迷惑をかけている自分が言うのは何だが、家族が心配しないのかと沼田君に尋ねると、彼は大丈夫と少しだけ顔を伏せて答えた。詳しく聞くと、彼は大学を中退し、その後ずっと仕送りをもらいながら引きこもっているらしかった。最近やっと、外に出られるようになり、散歩中に偶然この矢印を見つけたらしい。ただ、なぜ中退してしまったのかということは絶対に教えてくれなかった。


 長い時間一緒にいる分、沼田君にはすごく親近感を持ったし、このまま彼と矢印の終わりまで歩き続けるのだろうとぼんやりと考えていたこともあった。しかし、ビジネスホテルで別々の部屋に泊まった後、沼田君は何の連絡もなく消息を絶った。俺がホテルを出た時にはすでにチェックアウトを済ましていて、買い物に行っているのかとホテルの前で待っても沼田君は現れなかった。数時間待って、俺はようやく踏ん切りをつけ、旅を再開した。寂しくないわけではなかったが、前と同じ一人ぼっちに戻っただけだと考えると幾分心は安らいだ。


 歩き続けながら、色んな人と出会ったし、いろんなことを考えた。同じ人と繰り返し出会うことも多かったし、思考も同じところをぐるぐると回っているだけということのほうが多かった。隣の県に入ったかと思いきや、結局自分の家の近くまで戻ってきたと言うこともあった。何の意味も目的もなく、俺はただただ歩き続けた。誰にも、会社にも知られることもなく、俺は俺のためだけに歩き続けた。いつになったら矢印が途絶えるのだろうという考えはなくなり、きっと矢印は永遠と続いて行くのだろうと考え始めていたし、それでもいいとさえ思っていた。しかし、終わりは本当に唐突に、そしてあっけなく訪れた。


 俺は矢印の先をじっと見てみたが、赤く描かれた矢印は見えない。実際、数百メートル歩き、見落としがないかと地面を必死になって観察した。もしかしたらと思い、数個前の矢印に戻って、別の曲がり角の先を確認してみたりもした。しかし、矢印は見当たらなかった。何の予兆もなく、理由もなく、矢印はそこで終わってしまっていた。


 俺は辺りを見渡す。ここは国道から近い、ありふれた住宅街だった。別に特段変わった場所でもなかったし、一週間近く歩き続けた人へのご褒美が用意されているというわけでもなさそうだった。俺はふと右を向くと、少し先に風情溢れる商店街があるのが見えた。俺はその場で少しだけ意味もなく立ちすくんだ後、ようやく決心がつき、その商店街へと向かった。


 文房具店は入り口から入ってすぐ左にあった。俺はそこで赤いクレヨンを買った。それから俺は矢印のもとへと戻り、再び矢印が指す方向へと歩き出す。数百メートル先で俺は立ち止まった。俺はしゃがみこみ、クレヨンで矢印を描く。なるべく大きく、今まで嫌というほど見てきた矢印に似せて。


 矢印を書き終えると、俺はそのまますくっと立ち上がる。地面に描かれた矢印を見て、俺はどこか満足げな気持ちに浸った。そして俺はクレヨンをポケットの中に仕舞い、矢印が指す方向ではなく、帰るべき自分の家へ向かって歩き始めた。

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