タヒチの日々
東の空は、薄紫色に染まり始め、見渡す限りの水平線は南国の色彩を取り戻そうとしている。風がヤシの木の葉を揺らし、ゴーストクラブは砂に掘った巣穴から出て波打ち際に戯れている。
クリスティーヌの作る朝餉の匂いが香しくスプレイⅡ号のベースキャンプに漂い出す。ジャレットは、寝室のハンモックに寝転がって、ヤシの葉で葺いた天井を眺めていた。もうじきクリスティーヌがクルーを起こして回る時間だということだけはうっすらと意識していた。
俺たちは、幸運だったんだ。このタヒチでも隕石の落下によって大勢の人が亡くなり、街が破壊された。世界規模の災厄は、どれほどの被害を出したのだろう。とりあえずの入港地だったパペーテの惨状を見た俺たちは、その光景に衝撃を受け戦慄を覚えた。隕石落下によって倒壊した建物には、まだ脱出できずにいる被災者たちが残されていた。そこは、動ける市民のすべてが救助活動をしている真っ最中の戦場そのものだった。その現実を突きつけられて、のんきにクルージングしていた俺たちは身の置き所もないほどの罪悪感を感じさせられた。
あの怪現象から36時間後に連絡の取れた北木島の安部さんは、地球監視システムの全てが喪失した原因が「地球に異常接近した小惑星とラザロ彗星の暴発が原因で発生した隕石群との衝突」、という答えを教えてくれた。しかし、電離層の異常が再開したというトラブルがあって安部さんと通信途絶になったものの、俺たちの心配ばかりして自分の近況を教えてくれなかったのは、なぜだろう。
目を閉じると、安部さんの笑顔が浮かぶ。
直線距離にして、5400海里の場所に、何が起こっていたんだろう。
ジャレットは、タヒチに入港してすぐさま始まった自分たちの救助活動、幸運にも生き残っていた港湾施設を活用しての街の再生活動とボランティアスタッフとの連携、そして、今後の世界の動静をつかむための情報収集活動に思いをはせた。
とにかく、南太平洋上にある島々を結ぶ情報網を構築しなければならない。そのためには、スプレイⅡ号を活用したいところだが、パームによれば、何らかの原因によって地磁気に異常があるためコンパスが使用不能でナビゲーションができない、ということらしい。その辺りについては、リムが解析中だと言っていた。
ふいに、お玉でフライパンを叩くいつもの儀式が始まった。
カンカンカン!
「お知らせします。スプレイⅡ号のクルーのみなさんに、すばらしい朝が来ました」
カンカンカン!
「繰り返し、お知らせします。朝です。朝です!」
寝室のハンモックからむっくりと上半身を起こしたパームは、涎を垂らしている。リムは、毛布をかぶりなおして、耳をふさいでいるようだった。ジャレットは、お玉とフライパンが作り出すクリスティーヌの儀式に、今まさに生きていると実感していた。
これがスプレイⅡ号だ。
ジャレットは、タヒチに着いてから蓄え始めた顎鬚についた涎を拭うパームに目をやった。彼は、ロボットが右向け右をするようなぎこちない動きで腰を回転させ、クリスティーヌに向きなおって虚ろな眼を開けた。
「先生、宿題、忘れてきました」
お玉とフライパンを打ち鳴らそうとしていたクリスティーヌは、あっけにとられてパームに目を向けた。そして、一歩、二歩とパームに近づくと、彼の頭にお玉を打ちつけた。
「痛いじゃないか、クリスティーヌ!それに、毎朝毎朝、どうしてこんな早くに起こすんだ」
どんぐり眼をひん剥いたパームがレッドカードをもらったフットボール選手のように抗議している。
クリスティーヌは、気性の激しい審判のようにパームに詰め寄り、ひん剥いた目に顔を急接近させて詰め寄る。
「あなたね、何か月わたしの流儀を説明したら分かってくれるの。毎朝毎朝って言いたいのは、わたしのほうよ!」
クリスティーヌは、腰に手を当てていた手をパームの肩に乗せ、ゆさゆさとゆする。まるで、台風の日にヤシの木が激しく揺れているようにパームはされるがままになっていた。続いて彼女はリムのハンモックに近づいていく。
そう、それは、殺気だった。
リムは、かぶりなおした毛布を払いのけ、寝室の床に飛び降りた。
「すみません。すみません……」
「あら、今日は、言い訳をしないのね。いつも、明け方までなにやらの解析してたとか、なんとか」
「言いません。言いません……」
リムは、半そでとパンツ姿のまま寝室を飛び出していった。ジャレットは、ゆっくりとハンモックから降りると、パームの肩をたたいた。
「コーチに逆らったらだめじゃないかパーム。俺は、先に行くよ。おはよう、クリスティーヌ」
早朝の澄んだ空気と朝食の匂いが寝室の出口から香ってくる。ジャレットは、クリスティーヌに笑顔を向けて、外に出た。
朝食を終えたジャレットは、少しづつ瓦礫の片付けられたパペーテの街を抜けて、復興委員会が詰めている港湾ビルへ向かった。ここ数日議論されている内容は、当面の食糧問題だった。もともとタヒチの自給率は、ほんの9%にしか過ぎない。あの災厄のせいでこの島に閉じ込められた観光客も、すでに窮乏生活を強いられていた。燃料の問題に加えて、コンパスの異常もあって外からの支援物資を期待することもかなわない。
唯一の希望は、島に閉じ込められた観光客の中にジャレットたちと同じようにヨットで来島した人たちがいる、ということだけだった。使用可能なヨットは、180艘あった。この運用方法もナビゲーションの問題を解決しなければどうにもならない。ましてや、タヒチが保有する貨物船は、燃料問題もあり使用不能に陥っている。
港湾ビルが見えてきた。港湾施設のあちらこちらには、被災者たちが仮設住宅を建てて住んでいた。そのエリアの外には、給水所と食料配給所があり、住民たちは朝早くから列を作って配給の順番待ちをしていた。
その列の中から白いテンガロンハットをかぶり派手なアロハシャツを着た中年紳士が飛び出してきた。
「へい、ジャレット!今日も会議に行くのか?」
「行くさ!諦めるのは主義じゃないんでね」
「さすが、ジョシュア・スローカムの船に乗るタフガイは意地がある」
ジャレットは、立ち止まって、その中年紳士の胸ぐらをつかんだ。
「おい、シュナイダー!いい加減にしろ!おまえもよそ者で、この島の厄介になってる身だろう。どうして協力しようとしない!」
シュナイダーと呼ばれた中年紳士は、胸ぐらをつかんだジャレットの手を払いのけた。
「まあまあ、そう頭に血が上ってたら、いい考えも浮かばないだろう。これから会議に行くんだろ。じゃあ、冷静になれよ」
シュナイダーは冷笑を浮かべてジャレットを値踏みするように見つめる。
「いい考えはあるのかいジャレット?準備はしてきたのかい?その様子だと手詰まりのようだね。とりあえず当面10か月くらいの食料はあるんだろ。だったら簡単じゃないか。耕作地を作るしかないだろ。おまえのところのマドモアゼルは、この島の役人の親戚なんだろ?もちろん、そんなことはとっくに提案したとでも言いたいんだろ。でもどうだ、それをやってる奴はいるかい?だから、ぼくは協力しない。それだけだ」
ジャレットは、殴りかかりたい衝動を必死に押さえつけて、拳を握りしめた。
こいつは、ただ冷笑しているだけの個人主義者だ。俺だって逃げ出したい時もある。でも、逃げ出してどうなる。
「じゃあ、おまえはどうなんだ。そうやって、こそっと街の人に紛れ込んで配給所に並んで、言ってることはご立派だけど、俺から見れば、絵にかいたような卑怯者にしか見えないよ」
シュナイダーは、自嘲気味に薄笑いを浮かべて後ろ姿を見せた。そして、両手の手のひらを上に向け肘から上を水平にして歩き出した。
「若者はいいねぇー。その意気で頑張ってくれたまえ。期待してるよ」
ジャレットは、口の中にねばりついた唾液を地面に吐き捨てた。配給の列の中に戻っていったシュナイダーは、何事もなかったかのように順番を待っている。二人のやり取りを一部始終見ていた住民も、呆れたような表情を刹那に見せただけでシュナイダーを咎めようとはしなかった。
無関心、個人主義、エゴイスト。世界は自分を中心に回っている。
会議の待っている港湾ビルの前には、数人の人影が見えた。
堂々巡りの会議に参加する俺はどうなんだ?シュナイダーと変わらないんじゃないのか?それとも、何がどう違うんだ?でも、諦めるわけにはいかない。
ジャレットは、口を真一文字に引き締めて、港湾ビルの前に屯するグループに近寄っていった。
グループの一人が目ざとくジャレットの姿を見つけて声をかけてきた。
「やあ、ジャレット。ずいぶんご機嫌斜めのようだね。今日は鍬を持ってきたかい?見たところ、持ってきてないようだね。それじゃあ、会議に出る資格はないんじゃないのかな」
開襟シャツに黒ズボンをはいたフランス人の若い男だった。
「これはこれは、ソルボンヌ大の貴公子様。今朝からご機嫌麗しいようで」
にやけ顔のフランス人は、にべもなくジャレットの言葉を一蹴した。
「トレビアンな挨拶は、ニュージーランド風かい?これから大切な会議をするのに、ニヒルな挨拶は無粋だよ。それとも、何かいいニュースを持ってきたから余裕でもあるのかな?期待しているよ」
ジャレットは、思わずフランス人の胸ぐらをつかみそうな衝動に駆られた。
そのやり取りを近くで見ていた短髪で長身のポリネシア人が間に割って入ってきた。
「マルシュ、不毛な軋轢を生むだけの言動は控えてくれ。ジャレットも冷静になってくれ。おまえたちのようなオブザーバーが役割を果たしてくれないと会議がますます混乱するだけじゃないか」
マルシュは、長身のポリネシア人を睨みあげた。
「おいコトー、地元風を吹かすな。俺たちだって、好きで反目し合ってるわけじゃないぜ。その石頭は、まさかヤシの実じゃないだろな」
「そんなこと考えてないよ、マルシュ。この島は、二人の知恵を必要としている。反目するのは勝手だけど、頼むからお互いの立場だけは尊重して欲しい」
港湾ビルのそばで屯していた数人の人影は、南国の日差しにじりじりと肌を焼いて沈黙の空間を醸し出した。そこにいたのは、タヒチのリーダー格たちで、議員、行政マン、教育者、企業家、農家、漁師、観光客の代表たちだった。
ジャレットが会議をしているパペーテから陸路でおよそ9キロ離れたマリーナ・ティアナの沖合では、パームがスプレイⅡ号のデッキに寝転がって所在無く太平洋の波音を聞いていた。アンカーリング地点から少し沖合にはサンゴ礁の浅瀬があり、それが消波ブロックの役割を果たしている。
エンジン整備もやったし、装備品の確認も済んだ。船底掃除をしたいところだが、修理可能なヨットが上架しているので当分の間アンカーリングするしかない。
入港予定のマリーナ・ティアナが見えたときには感激したが、内海に入った途端、異様な光景に出くわしたのには正直震えが止まらなかった。いつもなら100艘近いヨットがアンカーリングして賑わう海面に、マストの先端だけ出して沈んでいるたくさんのヨットが見えた。陸からは、タイヤを焦がしたような匂いが漂ってきて、毛穴から異常事態を知らせる脂汗が流れ出てきた。
この海面で生き残ったというイングランド人のロバートから聞いた話では、あの災厄があった日、この海面に大きな火球が落下してきて、その衝撃波と突発波のような大波により8割がたのヨットが大破沈没したそうだ。幸い火球はその一発しか落下してこなかったので、生き残ったヨットのクルーはすぐに各自のテンダーを出して沈没船の救助活動に入ったのだと言っていた。隕石落下の至近にいた船は、衝撃波でバラバラになり生存者はいなかったそうだ。それでも、沈没船の大半から生存者を救助できたというのは幸運だったと思う。
ロバートのヨットは、スプレイⅡ号の間近でアンカーリングしていた。
「おーい、パーム。暇そうだな!」
ロバートの活気のある野太い声がパームに聞こえた。彼は、上半身を起こして、ロバートの60フィートカタマランに目をやった。
ロバートは、筋肉質の上半身を裸にしていて手を振ってパームに呼びかける。
「スキッバーのジャレットは、またいつもの不毛な会議に参加中みたいだな。よかったらこっちへ来てお茶でもしないか?」
「不毛かどうかは分からんが、どうせ暇なんでそっちへ行くよ」
パームは、スプレイⅡ号のテンダーを漕いでロバートのサーキース号へ向かい、その幅広のプレーニングのスタンションにテンダーを係留して乗り込んでいった。異様に広いコックピットの上部はオーシャンブルーのオーニングが覆い、その広い日影の下にはサーキース号の6人のクルーが寛いでいた。
痩せぎすでひょろ長いラテン系の男がパームに話しかけてきた。
「どうしょうもなく暇みたいだな。こっちも備蓄していた酒類が全部なくなってからというもの、暇で暇でしょうがない」
「マック、うちも似たり寄ったりで、することがない」
パームはお手上げのポーズをしてロバートを見た。
「そりゃ、見てれば分かるよ。災厄から2週間までは、救助活動やら瓦礫の撤去作業に追われ、それが落ち着いたら故障個所の修理点検に追われ、2か月たったら酒も切れてぼちぼち街の復旧作業に駆り出される毎日。なんかこう、パーとしたイベントでもないとやってられんな」
そのやり取りを聞いていたスキンヘッドで腕に派手なタトゥーをしたチャイナ系の男がたどたどしい喋り方で話に割り込んできた。
「だから言ってるね。沈没船から、酒類、引き上げるよろし。海のお掃除、大事ね」
「ドンク、おまえ喋るな。それがどういうことか分かってるのか?全部の船の持ち主が持ち物まで諦めるわきゃないだろう。それ、泥棒じゃねえか」
それを聞いたドンクは、もごもごと口ごもってしまった。
ドンクを黙らせた男は、スカイブルーのアロハを着た背の高いイングランド人で、サーキース号の所有者ブライアンだった。彼は、ロバートと交代でスキッバーをしている。ブライアンは、真顔でパームに問いかける。
「なあ、パーム。おまえんとこのクリスティーヌは、パペーテで議長をしてるジョルジャーノンの姪っ子だったろ。前から聞こうと思っていたんだが、俺たちは超緊縮財政にもかかわらず食糧難に直面している。そこで、クリスティーヌに口をきいてもらって耕作地を借りられないか」
パームは、ブライアンの申し出に、どう答えていいのか分からなかった。クリスティーヌからは、ジャレットの会議の結果次第でどう行動するのか決定するので、不用意な発言は慎むようにと念押しされていた。
やれやれ、どこもかしこもどん詰まりだな。
パームは、押し黙るしかなかった。
「おいおい、だんまりか。おまえと俺らは友だちだろ。なんとか言ってくれよ」
ブライアンは、急き立てるようにパームからの答えを待っている。その時、ロバートがぽつりと言葉をもらした。
「ブライアン、パームを責めてもしかたないでしょ」
その一言は、熱しかけていたその場の空気を鎮静化させ、焦燥感に駆られるだけの重い沈黙を広げた。その空気を察したのか、二人の女性クルーがキャビンへ入って行った。
ブライアンは、口をゆがめ両手を広げて、やれやれというポーズをとった。
「友だちの俺たちにだんまりなんだから、それなりの理由があるんだろう。今更深刻になってもしょうがない。まあ、お茶でも飲んで気楽にやろう。今、ティアとナタリーが準備してくれてるはずだから」
束の間の沈黙が破られると、サーキース号の面々は最近の街の様子を噂し始めた。
「マリーンのホンダが言ってたけど、今度は消耗品がやばいらしい」
「情報通だね、マック。実は、俺もその話を聞いたよ。洗剤や髭剃り、深刻なのは、ティッシュやトイレットペーパーらしい」
「それだけじゃないぜ。燃料の備蓄も危ないんで、州が直接管理するようになるらしい」
「それ知ってるね。ロバート、情報、遅いよ」
「ドンクのくせに、知った風な口をたたきやがって」
「それ、心外ね。この島、チャイナ系いるから、情報入る」
「それより何か気にならないか?」
「なんだよブライアン」
「じゃあ、問いかけてきたマックに質問。最近、海の色が変わったとか思わないか?」
「相変わらずのコーラルブルーに見えるけどな」
「確かにそう見えるけど、ここのところ少しずつ色合いに陰りが見えてきたように思うんだ。気のせいかもしれないけど、あの災厄と関係あるように思えて仕方ないんだ」
サーキース号の面々は、あらためて海の色を注意深く観察した。クルーの中でもで一番クルージング経験の長いロバートが口を開いた。
「実は、俺も気になっていたんだ。目に見えてはっきりとは言い難いけど、以前のタヒチのコーラルブルーとは違うような気がするな」
全員の脳裏に、あの災厄の日に見た無数の火球が思い浮かんだ。幸運にも被害を免れたサーキース号のクルーは、海面に落ちた隕石の衝撃波で作られた大波によって沈没していくヨットに乗っていた人たちを人命救助することになったが、陸のあちらこちらに火の手の上がる地獄のような光景もその目に焼き付けていた。
クルージング経験の長いパームも内心そのことに気づいていたが、口には出さなかった。もし、それを口にしてしまうと、この災厄が途方もなく際限のないものになってしまうような気がしたからだった。
パームがサーキース号の船上でお茶会をしていたころ、リムはタヒチの気象観測所にいた。ジャレットからあの災厄以来の気象データを洗い出すように依頼されていたこともあったが、それ以外にスプレイⅡ号の遭難が解除されてから六分儀の調子がしばしばおかしくなることの方も気がかりだった。結果的には、1日目のクルージングに影響はなかったものの、2日目の夜になってコース上にオロヘナ山が見えるはずの位置になく、実際のコースとの差が開きすぎていたからだ。
あの夜、パームと一緒にワッチしていて、オロヘナ山の火の手を見ていなかったとしたらぼくたちは確実に遭難していただろう。パームはしきりに首をかしげていたが、あの現象はたぶんあの日の災厄に関係があるに違いない。
気象観測所のデータを検証してレポートをまとめていたリムは、六分儀の異常についてこれから早急に検証しなければならないと考えていた。
ふいにリムは、背後から肩をたたかれた。
「熱心だな、リム」
振り向いたリムは、気象観測所の所長バートンの気さくな笑顔を認めた。
「あの、気が付かなくて」
「いいんだいいんだ。やりたいようにやってくれ。それより、六分儀がどうしたとか、気になることを言ってたね」
「ええ、毎晩、コンパスと六分儀を使って観測しているところです。結果はまだ出ていませんが、近々、ここ一月の観測データをまとめることができそうです」
「そうかそうか。たいへんそうだな。しかし、リムを見ていたら無理をしているようだし、そっちのほうが気がかりだよ。少し休憩して、お茶でも飲まないか?」
バートンは心配そうな眼差しをしてリムを自分の執務室へと手招きした。
リムは言われるがままバートンの後ろについていく。気象観測所は古い建物で、その内部にハイテクの観測機器が配置され、数人の職員によって管理されている。新旧のギャップのある屋内の様子は、観測所というテーマで統一された空間というだけでなく斬新な世界観が集積されているように思えてくる。
リムは、ここの空気が好きになっていた。もともと、マサチューセッツ工科大学で電子工学を学び、空間の電子の運動をテーマに研究していたリムは、研究者としての道を進むはずだった。しかし、研究に没頭するあまり精神に異常をきたしてリタイアしてからというもの、自分を否定的に見る癖がついて、そのリハビリのために父親の友人のからスプレイⅡ号のクルーになることをすすめられた経緯があった。
飾り気のないバートンの執務室には、接客用のソファーとテーブルが部屋の中央に配置されている。執務室の隣には、小さな湯沸し室があり、リムをソファーに座らせたバートンは湯沸し室からティーポットとカップを持ち出してきた。
「もう少しでお湯が沸くから、待っててくれよ」
バートンはお湯の入ったケトルを再び湯沸し室から持ち出してきた。ケトルをテーブルの上のマットにおいて、ティーポットに小さじ2杯のダージリンを入れる。そして、その中に静かにお湯を注ぎこむと、再びケトルをマットの上においてバートンは目を閉じた。
「ころあいは、心の中で数えるんだ。紅茶の葉っぱが開くころにゆっくりと目を開ける。そうすると、お茶の中にそのときの心が映るんだ。薫り高いとき、渋みが強いとき、華やいだ香りのするとき、くすんだ香りのするとき、それぞれに味わいがある。人生は、明るいときばかりじゃない。苦難に直面するときもある。それでも、人は生きていかなくちゃならない。なんだかリムを見ていると、そんなことを諭してみたくなるときがある。さて、そろそろだな。目を開けてお茶を楽しもう」
バートンは、2つのティーカップにケトルのお湯を注ぐ。そして、カップが温まったころあいを見て再びケトルの中にお湯を戻す。そして、用意したストナーを持って、ティーポットからストナーで紅茶を濾してティーカップに注ぎ込む。
紅茶がまるで生き物のように飾り気のない執務室を香りという色彩で彩っていく。
リムは、父親の友人、安部から言われた言葉を思い出した。
「生は死、死は生。人は、願って今に生まれてきたということを、海に出れば教えてもらえるだろう」
リムは、バートンが安部と同じ生き方をしていると感じるのだった。
リムがバートンの執務室で、ここ数か月間の気象データをまとめたレポートを検証していたころ、クリスティーヌは、叔父のジョルジャーノンが親しくしていた農家の畑で農作業の真っ最中だった。その農家では、働き手だった叔父の親友が一昨年亡くなり、休耕地の処分に困っているところだった。
最初にその畑を見たとき、クリスティーヌは思わずため息をついた。雑草が生い茂り、得体のしれない昆虫や爬虫類までが跋扈して、とても耕作地にできるような気がしなかったからだ。それでも、クリスティーヌは鍬を握って、果敢に畑の開墾を始めた。畑に一鍬入れるたびに、募ってくる思いがあった。
リムは、六分儀の秘密が解けるまでここを離れてはいけない、と言っていた。もしそれが、本当なら、わたしにはわたしにしかできない使命がある。
スプレイⅡ号のクルーを飢えさせるわけにはいかない。
クリスティーヌは、フランスのコート=ドール県で生まれた。両親は、ブルゴーニュのワイン生産者で、母方の弟は、家業を嫌ってゴーギャンの愛したタヒチの官吏として赴任していった。幼いころからブドウ畑を遊び場として、両親から食べ物の大切さを教えられて育ってきた。成長してボルドー第2大学のワイン学部では醸造についての学位を取り、故郷へ帰って若きワイン生産者としての活躍が始まった。しかし、両親が健在だったこともあり、一度自分のワインを楽しんでくれる人々との出会いを望むようになってくるのだった。
そんな頃にマルセイユの港で知り合ったのが、ジャレットとパームだった。
クリスティーヌは、輸出用の自社製ワインを完璧に管理してくれる倉庫を探していた。滞在中のホテルの地下セラーでは、どこまで管理をしてくれるのか不安だった。実験的に管理具合を確認しようと、何ケースものワインを持ち出してみたものの該当する倉庫はなかなか見つからなかった。
ともかくマルセイユの街を歩こう。
そのときは、そんなことしか考えなかった。
マルセイユの街が夕焼け空に染まってくる。食事もろくにとらずに歩き続けたクリスティーヌは、とあるバルの前で立ち止まった。香しい料理の匂いと出会いのが予感が彼女をその店に誘い込んだ。聞きなれたシャンソンが流れてくる。こ洒落たテーブルクロスも雰囲気に合っていた。ギャルソンを手招きして、料理を注文し、ワインリストに目を通したとき、彼女の眼は輝いた。
ここに、わたしのワインがある。
その感動のさなか、この店には似つかわしくない雑音が聞こえてきた。
「おい、ジャレット。ここで、ほんとうに本物のワインを飲ませてくれるんだろうな。今回の回航は注文がひどすぎた。オーストラリアのシドニーから、サイクロンの発生するかもしれない夏季に紅海経由で回航なんて、どう考えても割に合わない。実際、サイクロンの余波にあったし、10メートルは海面に叩きつけられたし」
「あれは、感動だったな、バーム。試験でも、あんなに落ちたことってなかっただろ?だから、あの嵐の中での約束通り連れてきてやったじゃないか、ここに!」
よれよれの作業着をまとったジャレットという男は、指を鳴らしてギャルソンを呼んだ。たぶん、ここにたどり着く前までに、安酒を散々飲んでいたに違いないすえた目をしていた。
「ここにキャビアを山盛りにして、シャトークリスティーヌのフルボトルを頼む」
パームと呼ばれた男は、椅子に座って居眠りをし始めたのか体を嵐に捧げた船のようにゆすっている。その様子をにやにや笑って見ていたジャレットと呼ばれる男は、注文の品が来るのを待ち構えているようだった。
「お待たせしました。注文は以上ですか?」
ジャレットと呼ばれる男は、拳から中指を突き上げて嬉しそうにゆらしてみせた。
「おーい!パーム。嵐の代償がやってきたぞ。さあ、味わえ」
パームと呼ばれた男は、その一言で唇から垂れていた涎を右腕で拭って、ワイングラスを差し出した。その中にジャレットと呼ばれた男は、惜しげもなく注文のワインを注ぎ込んだ。
パームと呼ばれた男は、注ぎ込まれたワインの色を一瞥して、一口で飲み干そうとしていた。しかし、唇にワイングラスが当たった瞬間、酔っぱらいの眼が急に正気を取り戻すのだった。
「おい、ジャレット。この香!こいつは本物だ。少なくとも俺の中では世界最高だよ。ロマネコンテだけがワインと思っている奴は馬鹿じゃないかと思えてくる。丁寧で限りなく優しい。それでいて気高い。こんなワインが飲めるんなら、おまえに従うクルーとして本望だ。われらのスキッバーに乾杯だ!」
「おうともよ。幻のシャトークリスティーヌに乾杯!」
喧騒と雑音がクリスティーヌの心の中で感動に変わった。
生産者の楽しみは、消費者からの賛辞にある。
父と母は、広大なブドウ畑を管理しながら、いつも自分たちの作ったワインを飲むことに喜びを感じてくれる人々への感謝を忘れなかった。マルセイユの港町でわたしのワインを置いてくれたこの店に、そしてがさつな連中だと思っていたあの二人に心から感謝したい。
食事が終わってホテルへ帰り着いたクリスティーヌは、一日の疲れを洗い流すためにシャワーを浴びて心地よくベッドで横になった。翌朝は、もう一度倉庫を探す予定になっていた。幸せな睡魔が襲ってきて、彼女は夢の世界へいざなわれていった。
翌朝、彼女は海岸線のD568をレンタカーで倉庫街へ向かっていた。アポイントを取った倉庫のひとつがそこにあったからだ。しかし、案内板を見逃したのか、その先のマリーナに迷い込んでしまった。彼女は、路肩にレンタカーを駐車してその町の人に道を聞こうと思った。ドアを開けた瞬間、快い潮風が鼻腔をくすぐってくる。海の方にはたくさんのヨットのマストが見えていた。
彼女は海辺へ出てみたい衝動に駆られた。彼女は海へ向かって歩いていく。しばらく歩くと、そこはヨットを係留する港になっていた。
遊歩道になっている海岸通りを散歩している人々、係留されたヨットに乗って何かの手入れをしているらしいヨットマン、たまたま出会った知人と談笑している男たち、彼女の眼には、マルセイユの日常が映し出されていた。その日常の中に、見覚えのある男たちがいた。昨日のレストランの連中だった。
彼らは、ひときわ大きなヨットが接岸された一角で、そのヨットのオーナーらしき人物と打ち合わせをしているようだった。切れ切れに聞こえてきた話の内容では、サイクロンの余波に遭遇したときに回航中のヨットがダメージを受けたというもので、たぶん修理の打ち合わせではないかとクリスティーヌは想像した。しかし、相手のオーナーは相当激昂しているらしく彼らは困惑しているようだった。とうとう相手はわめき散らし始めた。
「ダメージ検査をしたほうがいいとは、どういう言い草だ!サイクロンに遭わないために、おまえらの言う通り気象ファックスやインマルサットも搭載してやっただろ!それがいくらしたと思ってるんだ!しかも、予定より2週間も遅れて到着して、これは明らかな契約違反じゃないか!大口の取引先の接待もこのヨットでするつもりだったのに、何もかもをめちゃくちゃにしてくれたもんだ!」
最初は静かに相手の言い分を聞いていたパームという男は、目を見開いて相手を睨みつけた。その殺気を感じたジャレットという男は、彼を制してもう一度最初から事情説明を始めたようだった。しかし、相手は、すでに聞く耳を持っていないように見えた。
「もういい。取引はおしまいだ。このヨットは、おまえたちに買ってもらう。もちろん、回航代金は払わない。請求書を回すから、お金の準備をしておくことだ。文句があるなら、弁護士を立てて俺の会社に来るといい」
彼らの相手は、踵を返して立ち去って行った。残された彼らは、その後ろ姿を呆然と見つめているだけだった。
クリスティーヌは、たいへんなところに居合わせてしまったと後悔した。しかし、自分にはどうすることもできないことは分かっていた。彼女は、仕事に戻ることにして、元来た道を引き返した。彼女の目指していた倉庫は、すぐに見つかった。
会社のロビーで受け付けを済ませて待っていると、担当者がすぐに顔を出してきた。
「シャトークリスティーヌの専務様でいらっしゃいますね。当社の社長がオフィスでお待ちです。エスコートしますので、後に続いてきてください」
担当者は、社屋の奥へと案内し、彼女をオフィスへ通した。
彼女は、その偶然に驚いた。さっきまで彼女が目にしていた光景の中の人物がそこにいたからだ。彼女は内心驚きつつ、商談についての打ち合わせを進めていった。倉庫の規模、航空機、船舶、陸路のどれをとっても申し分ない内容で話は進んだ。契約内容は満足する内容だったので、商談はすんなり成立した。
彼女は商談を済ませたことに安心したのか、ふと、あのヨットの二人のことが気になった。
「ところで、ついきっき、ここへ来る途中道に迷って海岸通りを歩いていたのですが、あの大きなヨットの前で商談されていたのは社長さんでしたよね」
社長は、怪訝な顔をして彼女の顔を覗き込んだ。
「実は、あの二人、大切なわたしの顧客なんです。もしよかったら、事情を聴かせていただけないでしょうか」
社長は、苦笑いを浮かべながら彼女に事情を説明した。
「そうでしたか……。ところで、あのヨットのお値段なんですけど、いくらぐらいするものなんでしょう」
社長は、具体的な金額を教えてくれた。その金額は、彼女の裁量でなんとかなりそうな金額だった。
「では、あのヨットは、わたしが買います。よろしいでしょうか。ただし、立ち聞きしていて申し訳ないのですが、風力だけで走るヨットに回航の期限を切ったり、わざわざサイクロンの発生しやすい時期に回航を依頼したのはうかつだったのではありませんか。わたしからのお願いは、彼らに回航代金を支払ってやってほしい、ということです。納得していただけますね」
社長は、新しい取引先の彼女からの申し出ということもあり、ヨットの売買と回航代金の支払いに同意した。
会社を出た彼女は、すぐに元来た道を引き返した。そこには、途方に暮れる二人の姿があった。彼女は、意気揚々と二人の前に姿を現した。
「わたしが、この船のオーナーよ。よろしく」
あっけにとられる二人に差し伸べた手は、未来へと続く架け橋だったのかもしれない。