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プロローグ

シャンパルへの道


うみがある


プロローグ


 あの日、ジャレットは南太平洋にいた。

 新月の夜空は、無数の星々によって神秘的に彩られ、涼しい海風が頬を優しくなでていく。スターンで小さくギアの音を響かせるウィンドベーンは、50フィートのスプレイⅡ号を目的地のタヒチまで導いてくれている。

 何もかもが順調な航海だった。

 バウでファーラーの調整をしていたパームが、ジャックラインとカラビナがすれる音をさせながらコックピットに戻ってきた。

「こないだのストームの時にファーラーラインの付け根が痛んだみたいだ」

「ワッチの二人がストームジブに取り換える時期を間違えたんだよ。リムはまだ初心者みたいなもんだからしょうがないな」

「でも、クリスティーヌがバディーなんだから理由にならんだろう」

「パーム、相手はレディーだよ。それに、俺たちにだって責任がある。違うか?」

釈然としない表情でパームはコックピットの片隅に腰かけた。目の前には、GPSのコンソールがあり、パームは何気なくGPSのディスプレイに目を落とした。衛星の数は11個。進路維持のままスプレイⅡ号はタヒチを目指している。

 ジャレットは、何気なく上空を見上げた。相変わらず星空が美しい。

 しかし、次の瞬間、その夜空に異変が起こった。

 星空の一角が赤く光り、その光が徐々に大きくなって、スプレイⅡ号の上空を通過し、進行方向の水平線へと消えていった。

「おい、パーム、今の見たか?」

パームは面倒くさそうにジャレットの顔を見つめた。まだ、ワッチの二人のことで考え事でもしているようだった。

「火球が真上を通ったんだぜ。けっこう大きかったな。ありゃあ、もしかしたら隕石だったかもしれんな」

 怪訝な表情のパームは、夜空に顔を向けた。すると、さっきジャレットが見た火球と似たような光景が展開されるのだった。

 思わず腕を上げて夜空を指さすパームに呼応して、ジャレットも夜空を見上げた。

「おいおい、なんだ今日という日は。赤道近くで火球を見るなんて今までにない経験なのに、それが2回もかよ」

「いや、3回だ。ジャレット、次が来た」

 火球は、同じコースをたどってスプレイⅡ号の進行方向へと飛来していった。しかし、異変はまだまだ続いた。4回目の火球が飛んだ時、さすがのパームもドッグハウスに飛んで降りて、デジカメを手に再びコックピットに戻ってきた。パームがどたばたとドッグハウスの通路を駆け回る音は、休息中だった二人のクルーにも異様に思えたに違いない。パームが上空にデジカメを向けようとしたとき、二人のクルーもコックピットに顔を出してきた。

「パーム、うるさいじゃない。どうしたのよ」

デジカメを構えていたパームが叫び声をあげた。

「おい、見てみろよクリスティーヌ。赤道付近でこれで5回目の火球飛来だ。こんなことあるか?」

クリスティーヌとリムも夜空を見上げて、火球の通り過ぎていく様子を呆けたように見つめていた。

「6回目だよ。おまえがドッグハウスで運動会をやってる間に、もう一個飛んで行ったよ」

「そりゃあすげえって、おいおい!次が来た!いったい何個飛ぶんだ」

4人のクルーは、それからも次々に飛来してくる火球に目を奪われ続けた。この現象は、時間にして40分以上も続き、その異変が思わぬ展開を始めようとは誰も気付かなかった。


 翌朝、順調に航海を続けるスプレイⅡ号のドッグハウスでは、当番のクリスティーヌが朝食の準備中だった。午前8時からは、いつものように賑やかな朝食が始まるはずだった。

 その頃、ワッチ中だったジャレットは、青ざめた顔でGPSのディスプレイに目を落としていた。バディーのパームは、バウに移動してファーラーラインの調節に忙しかった。ジャレットは、喉から血が出るような大声でパームに呼びかけた。

「おーい!来てみろ!」

その声に振り向いたパームは、ジャレットのただならぬ様子に異常を察するのだった。彼は、ファーラーラインをとりあえずドラムに固定して、急いでジャレットのところへ移動しようとした。しかし、ジャックラインに取り付けたセーフティーラインがリギンに引っかかってデッキの上で派手に転倒してしまったのだった。

 その衝撃音は、ドッグハウスの中にいた二人のクルーにも感じられた。たちまちクリスティーヌとリムがコックピットに顔を見せてきた。

 焦って起き上がろうともがくパームを見て、クリスティーヌは手を叩いて笑い声をあげた。

「何やってるのパーム。昨日の火球騒ぎで運動会して筋肉痛にでもなったの」

 リムは、今まで焦ってあわてた様子のパームを見たことがなかったので目を白黒させている。やっと起き上がったパームは、そんなリムを見て苦笑いを浮かべた。

「そんなに笑うなクリスティーヌ。一応、レディーなんだろ」

「そうよ。お淑やかなクリスティーヌがピエロを見て笑うのは珍しい光景よ」

「分かった分かったって、でも、それどころじゃないんだろジャレット」

 ジャレットは、目を見開いたままGPSのディスプレーに目を落としている。そして、青ざめた表情のまま口に手を当てて、全員にGPSのディスプレーを指さしている。

「これがどういう意味か分かるか?」

 3人は、言われるままにGPSに注目した。

「パーム、昨日のワッチの時、衛星は何個確認できたか?」

「確か、11個だったと思うが、……」

 パームも目を見開いてGPSのディスプレイに釘付けとなった。

「アンテナの故障、じゃないよなジャレット」

「ああ、めったなことじゃ故障しない」

「位置情報が表示されてるはずなのに……」

「リムは、電子工学やってたんだろ。急いでチェックしてみてくれ。クリスティーヌはそのまま朝食の準備。パームはどこかに六分儀があったはずなんで、そいつを探してきてくれ。俺は、ハムで情報をあたってみる。とにかく急ごう」

 全員、忙しくそれぞれの持場に散って行った。

 ジャレットは、チャートルームに急ぐと、慌ただしくハムの回線を開いた。

「CQ、CQ、CQ」

「DE」

「JY3HUM」

「K」

 21MHz帯と28MHz帯で、何度も繰り返しコールし続ける。しかし、どのバンドにも反応がない。

 電離層が昨日の天体現象で異常になっているのか。それとも、コールに応えてくれる局が見つからないだけなのか。

 ジャレットは、何度も休止と再開を繰り返して反応を探りながら奇妙な感覚に陥っていく。焦燥感に駆られ、電波の発信状況に注意していてもときおり集中力が途切れてしまう。

 朝食の準備を終えたクリスティーヌがチャートルームのドアをノックしてきた。

「ジャレット、食事ができたからミーティングルームに来て」

 耳に当てたレシーバーを力なく無線機にかけ、彼はひどく疲れた表情を見せてチャートルームを出た。ミーティングルームには、すでに全員そろっている。パームは、やっと探し当てた六分儀を手に、怪訝そうな表情をしていた。リムは、うつむいて顔を上げようとしない。クリスティーヌだけは朝食のスープを各人の皿によそいながら平常心を保っているように見えた。

 しかし、テーブルの上に並んだパンとチーズには、だれも手を付けようとしなかった。

「みんな食事だけは摂らなくちゃ。わたし特製のコーンスープ、わざわざレトルトにしてもらった特注品なんだから、食べなきゃ罰が当たるよ」

 一番深刻な顔をしていたジャレットが口を開いた。

「クリスティーヌ、分かってるよ。とにかく、食べよう。それからだ」

 外洋の波音が聞こえてくる。沈黙の朝食に、誰もが不安な表情を隠せなかった。

 外洋に出て一番危険なことは、自船の位置情報が分からなくなることだ。水、食料、燃料が確保されていても、それは、当面の入港予定地までの計算された保有量に過ぎない。余分な備蓄はあるにしても、計算外のトラブルがあった場合にはサバイバルになる確率が飛躍的に高まることが予想される。ましてや、外部との通信が途絶した場合、最悪のケースとしての遭難が現実味を帯びてくる。

 急にリムが立ち上がった。口を手で押さえている。クリスティーヌは、立ち上がったリムをリードしてコックピットへの階段をゆっくりと登って行った。

 リムが海に苦しそうに吐しゃ物を吐いている。ミーティングルームの二人は、深刻な顔をしながらも、食事を続けた。ジャレットは、外洋に出てまだ二度目のクルージングの時に経験した恐怖を思い出していた。


 日本の笠岡諸島から出航してニュージーランドへの航海をするため、北木島の港で潮風に吹かれていたジャレットには、荷役作業をしているパームの姿がその瞳に映っていた。パームは、水、食料品、燃料の積み込み、その他の備品も積載リストを確認しながらてきぱきと30フィートのYUKIKAZEⅡ号に積み込んでいく。

 ニュージーランドで造られたYUKIKAZEⅡ号は、ジャレットが初めて持った自艇だった。名前は、日本のヨット仲間に教えられて、縁起のいい船名を付けてもらっていた。名付け親の安部は、岡山のヨット連盟の役員で、ジャレットがホームステイしようと計画していたとき、自ら進んでホームステイ先になってくれた気のいい人物だった。ジャレットがヨット工房を作って自立したときも、その親切と支援する心は変わらなかった。

 あるとき、ヨット工房に立ち寄った安部は、不思議なことをジャレットに提案した。

「なあ、ジャレットは、外洋の経験がなかったね」

「ええ、本格的な外洋の経験はないです。故郷のウェリントンで湾内をクルージングするくらいでした」

「確か、そこでハンドメイドのヨットを造っていたんだよな。俺も、ニュージーランドには行ったことがないから一度は行ってみたいよ」

「ぜひ、来てください。歓待しますよ」

「そこで提案なんだが、実は俺のハム仲間にウェリントンに住んでいる奴がいて、そいつからメールが来たんだ。何て言ってきたと思う?」

「さあ、なんでしょう」

「そいつは、スチュアート・クリスといって、旅行代理店のボスをやっているんだが、俺と同い年の50代で何を考えたのか外洋ヨットを購入したんだと。ところが、せっかくの自艇が届くという目前になって、自動車事故で下半身不随という事故にあったんだ。まあ、仕事でさんざん儲けたそうだからお金に余裕はあるんだが、身体障碍者になってしまったらヨットもくそもないだろ。そこで、誰かにヨットを売りたい、と持ちかけてきたんだ」

 安部は、手に顎を載せて思案するようにジャレットの顔を見た。

「格安だそうだ。ジャレット、その船、買わないか?」

 ジャレットは、ふいの提案にどぎまぎして、思わず腕組みをした。

 安部さん、何を考えているんだろう。ヨット工房もやっと開店したばかりで、これからいろいろとやらなくちゃならないことがあるのに。それも、ニュージーランド。父さんや母さんにも反対されて、無理やり日本に来て、しかもここで永住する腹を決めたところだし、この時期の里帰りもどうかと思うし……。

「どうしたジャレット、さすがに考えるわなー。でも、俺も手助けするし、思い切ってニュージーランドへ行ってみないか?船は、30フィートで、たったの30万円だそうだ。持ち金がないなら、旅費、追加の装備代も含めて俺が貸してもいい。ただし、条件がある。ニュージーランドからここまでのクルージング計画を急いで立てることと、俺もクルーとして参加するということでどうだろう。計画が仕上がったら、他のヨット仲間とも検討会を開いて、実現可能な堅実なプランにする」

 安部は、張りのある声で自信をにじませ、ジャレットを説得した。

 それから数日後、ジャレットは、ニュージーランドへ行く決心を固め、安部とともに自艇で初めて外洋航海し、およそ二か月かけて日本に帰り着いたのだった。

 その船が、YUKIKAZEⅡ号だった。

 それからのジャレットは、しばらくヨット工房を軌道に乗せるため忙しい日々を送っていた。ヨットの建造だけでなく、擬装品一式を揃えられるネットショップも立ち上げ、従業員を四人まで抱えるような事業展開になっていた。

 そんな頃、故郷のウェリントンから珍客が訪れた。パーム・レミントン、古巣のヨット工房で一緒に働いていた仕事仲間でもあり、ハイスクールで一緒に学んだクラスメートでもある。安部とウェリントンで追加装備を取り付けていたときにも、彼は積極的に手伝ってくれた。そんな彼は、日本でヨット工房を開いたジャレットの様子を見に行きたくて、職場に長期休暇を出し、バカンスのつもりで日本にやってきたのだった。

 パームには、実は別の企みがあった。

 それは、ジャレットを説得して、彼の愛艇に乗り込み、彼を里帰りさせようと計画していたのだった。


 優美に翼を広げたような鳴門海峡大橋の下でその大きさに感嘆の声を上げるパームを横目に、ジャレットは日本一潮流の速い鳴門海峡を慎重に通過していく。淡路島の沿岸には、たくさんの風力発電装置があり、その壮大さにも目を奪われる。沼島沖にYUKIKAZEⅡ号が到達するころには、そろそろ紀伊水道の洗礼が待ち構えていた。

 YUKIKAZEⅡ号は、スターボードタックでアビームの潮風を受けて快走する。波長の長い太平洋の波がときおり大型船舶の引き波と合成し、YUKIKAZEⅡ号のドジャーにスプレーを浴びせかけていく。紀伊水道の外れには、遠く潮岬が見えて、いよいよ本格的な外洋クルージングが始まる。パームは、自動操舵をオートパイロットからウィンドベーンに切り替えて、そそくさとドッグハウスの中へ身を隠していった。

 ドッグハウスから顔を出したパームは、右手にシャンパン、左手にグラスを持って満面の笑顔をジャレットに向けた。

「日本に来たときには、たぶんこのクルージングの計画なんて無視されると思っていたよ。でも、おまえは協力してくれると約束してくれた。まさか、と思ったね。正直、嬉しくて嬉しくてしかたがないよ」

「いいんだ。向こうでは協力してくれたし、事業の方も軌道に乗った。それに、安部さんが俺の留守の間、会社を取り仕切ってくれると約束してくれたしな」

「とりあえず、景気づけに乾杯だ!」

「乾杯!俺の船と友に感謝する」

 二人のクルージングは、グァムに到達したときに二度目のストームに襲われたが、順調そのものだった。凪の日には双眼鏡で流木を探してシイラ釣りを楽しんだり、イルカの群れに遭遇して追走するイルカのジャンプに感嘆したりと、快適にクルージングは進行した。

 そして、ミクロネシアのチューク環礁を通過して二日たったころ、運命の事件に遭遇したのだった。

 その日の午後からのワッチはパームの番だった。GPSで付近一帯の環礁の情報は分かっていたので、パームは環礁に近い水域にたっするとオートパイロットから手動に切り替えて操船していた。風は真後ろから来るダウンウィンドウで、あまりの微風にいらいらしたパームは、ジェネカーをセットして艇速を早めようとその準備に取り掛かった。辺りには環礁らしきものはなく、オートパイロットをセットし、ジャックラインにセーフティーラインを取り付けて作業にかかった。

 ジェネカーのセットが終わり、シートに手をかけて再び操船を開始したパームは、進行方向の海域に真っ黒なスコールの雲を視認した。ただ、まだ距離があると思ったパームは、うかつにも今受けている風の正体に気づかなかった。

 低気圧では、上昇気流が発生し、気圧の低い場所に向かって風が吹いていく。それも、大洋の場合にはそのスケールが桁外れで、急速に風速が上昇していく。

 ジャレットは、ギャレーでお湯を沸かしながら何気なく気圧計に目をやった。そこには、信じられない現象が展開されていたのだった。今朝、気圧計の指針をそのときの値に合わせていたのだが、指針よりもかなりの値で気圧が低下していることが見て取れた。ジャレットは、慌ててコックピットに出てみると、なんとパームはジェネカーを展開させてYUKIKAZEⅡ号を操船しているではないか。

「おい!パーム、早くジェネカーを下せ!すぐそこまですごい低気圧が来ているぞ!」

 しかし、パームは、猛烈な風を受けてプレーニングするYUKIKAZEⅡ号をコントロールできずに困惑しきっていた。しかも、ますます低気圧は速度を速めて接近してくる。ジャレットはとっさにセーフティーラインを身に着け、ジェネカーシートのロックを解除し、バウへ移動していった。波高はすでに三メートルを優に超えている。海面にバウが突っ込むたびに想像を絶するスプレーがジャレットを襲ってきた。

 やっとバウの先端にたどり着いたとき、人の声とは思えないようなパームの悲鳴を聞いた。その瞬間、ジャレットは、何が起こったのか理解できなかった。スターンで操船しているパームの方へ顔を向けた途端、ジャレットは信じられない光景を目にした。

 メインマストがデッキから引きはがされるように、メインセールと一緒に吹き飛んでいく。千切れたリギンが生き物のようにスプレッダーから伸びて、もがき苦しむウミヘビのように空中をかきむしっている。

 その光景を目撃した瞬間、ジャレットは海に投げ出されていた。セーフティーラインがハーネスを締め上げ、海水が否応なくジャレットの口から鼻から侵入してくる。彼は、とっさにライフラインを力の限りにつかんで、いつもズボンのポケットに携行しているナイフを取り出し、セーフティーラインを切断した。

 YUKIKAZEⅡ号は、かろうじてラダーに取り付いて離さないパームのおかげでコントロールされていた。しかし、それも長くは続かなかった。突発波と呼ばれる大波がYUKIKAZEⅡ号を包み込んだ瞬間、艇は横倒しになってしまった。この場合、復元力のあるヨットは、徐々に傾きを修整して元の状態に戻るものだが、不運なことに、状況判断よくコックピットに飛び出したと思われたジャレットのミスで、ドックハウスのハッチが解放されたままの状態だったため、大量の海水がYUKIKAZEⅡ号の船内に侵入し、もはや復元力を期待することはかなわなかった。

 ジャレットは、波の弱まる瞬間をとらえて、セーフティーラインを頼りに横倒しになったままのデッキの上に乗り込むことに成功した。パームは、蒼白な顔をして、コックピットの本来なら側面になっている部分に足を載せ、それでもラダーを握り続けていた。

 状況は最悪だった。YUKIKAZEⅡ号は、ゆっくりと浸水を始めている。ジャレットは、決断しなけばならなかった。

 メインマストのあった場所の前方には、デッキの上にライフラフトが固縛されている。ジャレットは、慎重にデッキの上を移動して、ライフラフトのラインを確保し、固縛していたロープを切断した。海面にオレンジ色のライフラフトが忽然と現れたように姿を現した。コントロールラインを握りしめてジャレットはスターンに移動していく。パームは、その様子に気づいたようで、身に着けていたセーフティーラインを外し、沈みかけた船内へ侵入していく。残った水と食料の確保、緊急脱出用のバッグを取りに行ったのだった。

 ジャレットは、とりあえずライフラインにライフラフトを固定し、ドックハウスの中のパームに声をかけた。

「手に持てるだけでいい。早く出て来い!」

 パームは、疲れ切った表情でジャレットの指示に従いコックピットに這い出してきた。

「とにかく、脱出するしかない。先に荷物を持って乗ってくれ。俺は、イーバブを作動させてから乗るよ」

 スターン最後尾にあるイーバブに手を伸ばすと、数々のYUKIKAZEⅡ号との思い出が走馬灯のように蘇ってくる。しかし、ジャレットはますます激しさを増してくるストームのなかで、急がなければならなかった。

 ライフラフトのコントロールラインを切断するとき、YUKIKAZEⅡ号が初めてウェリントン湾でクルージングした時の光景が目に浮かんだ。澄み切った青空と穏やかな波、優しい潮風と友人たちが飾り付けてくれた色とりどりの旗がはためく様子、そして、慈父のように傍らに立って笑顔を向けてくれた安部の姿が地獄のようなストームの中に再現されている。

 ライフラフトのジッパーを閉めたオレンジ色の狭い空間には、ずぶ濡れのパームが首をうなだれて膝を抱えていた。ときおり、ライフラフトは信じられない高さから海面に落下し、そのたびに二人はキャノピーの内部に取り付けられた細いセーフティーラインを握りしめて衝撃に耐えた。

 ストームは、二日間海面を荒らして通り過ぎて行った。

 船内から確保できた水は、2ℓのペットボトルが4本。食料は、なぜか桃の缶詰が2つ。そして、非常脱出用のバッグに10日分の乾パンとレトルトのスープ類が10袋。二人は、ストームの中で、かろうじて水分だけを補給していた。それ以外のものは、とても口にできそうにはなかった。

 ジャレットは、ようやくストームの通り過ぎた後、乾パンとレトルトスープの封を切った。彼は、目の前にある食料に、なぜか無関心だった。究極の疲労感と絶望感が日常の何気ない生活の一場面を空虚なものにしていたからだったに違いない。しかし、諦めてはいなかった。吐き気を催すような空腹感の中で、彼は乾パンを一口口のなかに放り込んでみた。かさかさした食感が舌の根にまとわりついて、まるでただの小麦粉を口にしているような錯覚に陥った。

 そして、その感触に辟易しながらもうつろな目で、パームを見た。

 パームは、死んだ魚のような目をしてうつむいたままだった。ジャレットは、独り言のようにつぶやいた。

「知ってるか?人は、遭難すると3日くらいしか生きていられないそうだ。ほら、目の前に食料も、水もある。しかし、生きてはいられない。なぜだと思う?それは、絶望に取り付かれるからだそうだ。絶望に取り付かれたやつは、生きる希望を失しなってしまう。俺には、まだまだやり残したことがたくさんある。こんなところで死んでたまるか」

 パームは、うつむいていた顔をあげて、かすかに笑った。そして、たどたどしく、しかし自分に言い聞かせるように喋った。

「おまえ、俺の好物知ってるか?桃の缶詰だよ。ストームの間中、なぜか桃の缶詰のことばかりを考えていたんだ。あれは日本に来てからファンになったんだ。ウェリントンに帰ったら、妹のシャロンと一緒に食べるつもりだよ。だから、俺もこんなところで死ぬつもりはない」

「だったら、目の前にある乾パンを食べろ。これから忙しくなるぞ。食料の確保に、水の確保。航行中の船舶を発見するためにワッチもしなくてはいけないだろ。昔、大西洋を76日間漂流して救助された猛者もいる」

 パームは、大声を上げて泣き出した。そして、一切れの乾パンを口に放り込んで、ライフラフトの不安定な床の上に手をついて、キャノピーの外に顔を出した。

 やっとのことで嚥下した乾パンは、パームの気力を取り戻したように見えた。彼は、大きく深呼吸して、いきなり海に吠えた。

「とんでもない目に合わせやがって、このくそストーム野郎!」

 ジャレットも一緒に立ち上がって海に吠えた。

「俺たちがこんなことで絶望したりすると、ひよっとして期待していたんじゃないのか?俺たちは、絶対に生き残る!」

 二人は、ゆっくりとライフラフトの床に座り込んだ。そして、お互いの目を見つめあって、伸び始めた無精ひげとげっそりやつれた顔に気づき、無性におかしさがこみ上げてきた。

 それから救助されるまでの10日間、太陽熱蒸留器を使って水を確保したり、緊急脱出用のバッグに入れておいた釣竿でシイラ釣りをして食料確保をしたりと、奇妙に精力的な海上生活が続いた。緯度経度を知るために、割箸で造ったヤコブの杖(原始的な六分儀)も役に立った。

 救助された場所は、チューク環礁からほど近いモートロック諸島近海で、救助してくれたのは、たまたまジャレットたちが遭難していた海域で漁に来ていた地元の漁師だった。ライフラフトを漁船の甲板に引き上げてニコニコしている漁師たちが二人には天使に見えた。


 ジャレットは、スプレイⅡ号のミーティングルームで、YUKIKAZEⅡ号で遭難した直後の恐怖を思い出していた。

 そうだ。あの恐怖だ。パームも思い出しているに違いない。でも、あの時とは違う。

 彼は、たんたんと食事を続けるパームの表情を覗った。その視線に気づいたパームは、クリスティーヌ特製のスープを飲み干して、テーブルの上に置いた六分儀を手に取った。

「まさか、こんなものを使う羽目になるとは思わなかったな」

「ああ、でも、船が沈んだわけじゃない」

「まあ、進路は俺に任せてくれ。割箸の六分儀より正確だし、タヒチには必ず付けてみせるよ」

「そうだな。後は情報だけだ。そっちの方は、俺が何とかする。と言っても、電離層が異常なのか、しばらくは様子見だろうけど、いろいろ足掻いてみるしかないな」

 ミーティングルームの二人が「あの恐怖」の体験から立ち直っていたころ、コックピットの二人は、やっと落ち着きを取り戻してミーティングルームに降りてきた。青白い顔をしたリムは、テーブルに着くと、話さなければならないと思っていた報告事項を全員の前でとつとつと話し始めた。

「GPSの機能そのものには、異常がなかったんです。パネルを開いて故障しそうな回路にチェッカーを当てても、すべてが正常値でした。考えられる原因は、GPS衛星の全てが喪失した、という推論です。そこで、現状を把握するための手段を講じてみました。航跡を記録したメモリーから情報を抜き出してパソコンにインストールしてみたんです。そこから計算して現在の航路を割り出すと、目的地のタヒチまでは後100海里もないことが分かりました。もっと正確に調べるには、別の方法が必要です。それにしても、一度に数10個ものGPS衛星が破壊されるなんて信じられません」

 その報告を聞いたジャレットとパームは、突然椅子から立ち上がってリムの肩を嬉しそうにバンバンとたたき始めた。リムは、きょとんとして二人を見つめている。ジャレットは、リムの瞳を見つめて、喜びを爆発させるように喋り出した。

「リム、大手柄だ。GPSの不調の原因が分かっただけじゃない。位置情報までほぼ正確につかめたなんて、とんでもない奴だ。今ここで、スプレイⅡ号の遭難は回避されたんだよ。後のことは、六分儀が使えるパームに任せればいい。それと、今この現象についての情報は、俺が責任を持って解明して見せるから安心してくれ。とにかくタヒチだ。全員、気を抜くなよ」

 それからのスプレイⅡ号は、南太平洋を優雅に航行し、2日間ほどで目的地のタヒチに入港することができたのだった。しかし、悪夢は、その向こうに待ち受けていた。


 GPSの不調の原因は、スプレイⅡ号がタヒチに入港するまでに判明した。あの怪現象から36時間後、ジャレットは太平洋に浮かぶ島々のハム局を経由して、北木島でヨット工房を切り盛りしている安部との接触に成功していた。そこから得られた情報は、驚くべきものだった。

 ラザロ彗星の暴発と小惑星帯の複合活性化現象。

 GPS不調の原因は、地球に異常接近した小惑星とラザロ彗星の暴発が原因で発生した隕石群が衝突したことによって起こった異常現象で、国際宇宙ステーションを含む地球周回の全衛星が隕石衝突によって破壊されたため、という信じがたいものだった。ジャレットたちが目撃した怪現象は、同時刻、全世界で目撃され、各国が観測基地を置く南極では無数の隕石衝突が相次ぎ、すべての基地からの通信が途絶したという。

 さらにそれから数か月後、地球各地では通常では考えられない異常気象が報告され始めた。その最たるものは、地軸の異常傾斜だ。あの怪現象は、すべての常識を覆す恐るべき自然現象だった。ありえないはずの地軸の異常傾斜が、あの怪現象以来、頻繁に観測された。そのため、これまで使われていた古典的な六分儀の使用方法にまで影響が波及するという現象が起きてきた。

 地軸計と呼ばれる測量器具を装備しなければ、あらゆる航空機、船舶は正常なナビゲーションを行えなくなったのだ。


「点から線に移行するプロジェクトなんて、どう思う?」

 亜熱帯の心地よい風は、海のうねりより斬新な発想だけを求めているようだ。

「分かりきってるじゃない。交易の促進でしょ」

 メインセールのシートを握っているパームは、いつものようにぞんざいに答えてくる。

「それじゃ、現状のままでいいわけですか?」

「悪い癖、直した方がいい。ジャレットは、干渉しすぎだ」

 澄み渡る空は、冒険を求めていない。行く手には、交易に飢えている港があるだけだった。

「昔の温帯海域、興味あるんだけどね」

「冒険家だね。今は、吠える20度、唸る30度の世界じゃないか」

「でも、人が住んでる可能性だってあるんだろ」

 ジャレットは、飛び込めそうな空を仰ぎ見て、ほんの少し弛んだメインセールを見た。

「地軸計は、生命線だって知ってるだろう?」

 パームは、ため息をつくようにつぶやく。

「原則と現状打破の違いって分かりやすいね」

 無言を貫くジャレットは、メインセールのシートをほんの少しだけ絞ってみた。彼の答えたくないときの無意識のしぐさだった。

 冒険と発見と至上の喜び。それと引き換えに、悲惨と失望と無情の落胆。

 エッジにある渇望は、どちらを選ぼうをしているのだろう。


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