拝啓 ロッキー・バルボア様
まだ夜明け前、朝の3時。
目覚ましのアラーム音が鳴り響く。
うっすらとした意識の中、アラーム音が遠くから迫り来る列車のように近づいてくるのがわかる。
それがだんだん近づいて大きくなり、耳障りな音が今ではハッキリと自分に向けられているのがわかる。
彼は浅い眠りの沼地からゆっくりと這い出すように目を覚ます。
ゆっくりと寝ぼけ眼で辺りを見る。
視界に入るのはありきたりの家財道具や家電がただ置いているだけの味気の無い部屋
それに天井のクロスの微かなシミ
生活に彩りを添えるような物は見当たらない。
できることなら好きなデザインの家具を置いたりポスターを貼ったり、居心地の良い空間にしたいところだが彼にはゆとりがなかった。
結局あるのはやかましいアラームの音と、微かに冷蔵庫のジリジリといった音
そして重い鉛の波のように押し寄せる毎日
「あぁ、クソッ!もう時間か…… あんまり寝た気がしない……」
気分が優れない
頭も昨夜のアルコールのせいかスッキリしない。朝食は摂らず顔を洗う。
毎度のことだが鏡に映る顔は腑抜けた幽霊のよう
午前3時の腑抜けた幽霊
また一日が始まる。
彼は青果市場で働いている。
朝4時の出勤時間に間に合うよう身支度を済ませて外に出る。
アパートの外には彼のバイクが停めてある。
3年前に安く買った汚い中古バイクだ。
セルはなくキックスターターしか付いてないバイクに跨がりカチャ、カチャと何度か足を軽く踏み下ろす。
踏む感触が上の方で重くなった。
そこから一気に足を踏み下ろす。
するとエンジンが小気味良い音を響かせて目を覚ます。
今では苦もなく一発始動だが当初はキック始動に面倒を感じていた。
しかしそれにも慣れ、今となってはこの一連の動作に愛着すら感じるようになっていた。
言ってみれば彼とバイクにとっての目覚めの儀式である。
彼に友人はおらず、このバイクだけが唯一の友人と言っても過言では無い。
彼はそんな男だ。
そしてそんな唯一の友人であるバイクに跨がりいつもの道を行く。
外はまだ薄暗く静かだが綺麗な夜明け前といった感じではない。
出勤前の彼にとってはこの薄暗い空が、これから彼の思考や自由を吸いとるある種のブラックホールのように感じられ憂鬱で仕方なかった。
ただ気温は秋の手前の早朝なので最高に過ごし易く、バイクを走らせながら肌に当たる風の心地よさ、それだけが彼の気持ちを少し明るくさせた。
市場に着くと沢山でもまばらでもない程の人がテキパキと働いていた。
彼の父親位の男がネコと呼ばれる台車に品物を乗せてゆっくりと引いていれば、別のところでは冷蔵庫から品物を忙しなく出している。
狭く雑然とした市場内を縫うように軽トラックやフォークリフトが行き交う。
威勢の良い声や笑い声が飛び交う。仕事や趣味の話を馴染みの客や仲間内でしている者、黙々と働く者
人や物がごちゃ混ぜになり交錯している市場には特有の雰囲気が感じられる。
彼も自分の持ち場についた。
いつも通りの仕事をこなす。品物を運んだり、配達に出たり商品の袋詰めをしたり
彼は口数も少なく黙々と作業をしている。
「また試合あるの?」
作業中に買い付けに来てる常連から彼はそう聞かれた。
「えぇ、またその内に決まると思います」
彼は答える。
「あぁそう、次は一発決めて勝てよ」
「そうですね。頑張ります」
他愛の無い会話を済ませてまた作業に戻った。
彼は市場で働く傍らボクシングをしている。いや、ボクシングをする傍ら市場で働いているというべきだろうか。
一応プロではあるが戦績は芳しくなく、プロというのは名ばかりという感じだった。
2ヶ月程前の試合でもko負けを喫していた。
二十歳から子供の頃から憧れを抱いていたプロボクサーになり7年になる。今までボクシングに合わせてアルバイトを転々としてきた。
始めた頃の情熱や純粋な向上心は枯れつつあり、今や夢や目標を追っているという名目を隠れ蓑に惰性で過ごす日々を送っている。
2年程前に夕方は間違いなく練習に行けて、前職より時給がいいからという理由で市場で働きだした。
市場と言っても、活気に満ち溢れた姿はそこにはなく年々買い付けに来る客も減り、一時のピークを過ぎてしまえば後は寂しい限りだった。
各商店の建物もボロ小屋のようなものが軒を連ねて構成されていて、そのみすぼらしさが市場の寂しさに拍車をかけていた。