始まりの排尿介助
とても時間がかかりました。
だけど、安藤ちゃんは二年生ですσ^_^;
消灯を迎えた病棟の一室。
四人部屋のきっちりとカーテンで仕切られたベッドの脇に立ち、二年生ナース、安藤優美は背中や脇に嫌な汗を滲ませていた。
ーーあぁ、神様!
なんてことのないありふれた遅番。外科の遅番は13時から22時まで。今日は手術日ではないため術後の患者さんはいない。そのため担当の患者さんはいないが、雑務を一手に引き受ける。オムツ交換、体位変換、食事介助にナースコール対応、やることがなくなることはない。
時刻は今、22時前。あともう少しで定時だというのにもかかわらず、記録がひとつもできていない。
バソコンの前に座る時間が全くなかった。
気がつけば消灯。
いつの間にか勤務者が日勤から準夜勤に変わっていた。鳴り止まないナースコールの対応に追われ、立ち止まることなく駆け抜けるように時間が過ぎていくのはいつものことだ。
『すみません、ト、トイレを……。』
そんなナースコールがあった。
この頃巷で流行っているらしい自転車に乗って通勤中に、自動車と接触事故。救急車にて搬送、肝損傷と診断を受け、保存的治療目的にて日勤中に緊急入院となった男性。
「だから、消灯前に声かけたのに。ちょっと、安藤ちゃん、お願い」
美しい先輩ナースの一言でプラスチック製の尿器(いわゆる尿瓶)を片手に部屋へ向かう。
照明は手元のライトと、ベッドサイドの床頭台のライト。
羞恥心を伴う処置は素早く的確に行わなくてはならない。
「失礼します」
優美は大部屋のカーテンで仕切られたベッドサイドに立つ。
肝損傷の保存的治療、それはベッド上安静。ベッドから降りることはならないのである。少し安静度が解除されれば、ベッド端座位が許可され、ベッドサイドでの立位と、行動範囲は広がっていく。それまでは食事はもちろん、排泄行為さえもベッドの上で行う。
彼は坂本さんによる尿道留置カテーテル挿入処置を拒否し、排尿時毎の尿器による採尿を選んだのだった。
美しい看護師に一度、痛みと羞恥を伴う処置をするか、それともどんな看護師が来るかわからないが何度も、痛みは伴わない処置されるか、の選択だ。20代の成人男性ならば当然だ。
カラカラと台車を引き寄せ、手元のライトをたよりに準備をする。
優美はぱっと点いた床頭台の灯りをしっかりと見てしまい、目が眩んだ。
残像が見えるけれど、布団をめくり、ズボン下ろしますねーとパジャマを下げ、腰を上げて下さいねーとメディマット(吸水性ポリマーの入った使い捨てシート)を敷く。
そっと、ソレを尿器にあてがう。
おそらく、とてもとても我慢していたのだろう。
その勢いは70代や80代とは違う、ほとばしる尿がどんどん尿器にたまっていく。
ーー成人の膀胱の許容量は500mlだよね……。
尿の勢いは止まらない。
どんどんたまっていく、尿器は立てれば、確か1000ml弱は入るだろう。
しかし、今、尿器は寝かせているのだ。
そして、しゅっと伸びた筒状の口にはソレが充てがわれている。
このまま、尿の勢いが止まらなければ、ソレは尿に浸かり、口から尿が溢れ出てしまう…。
ーーうぅ、どうしよう…、大丈夫、500だから!大丈夫、大丈夫
じっとソレを見つめ、止まりますように、浸かりませんように、溢れませんように。優美はぎゅっと手を握りしめ、静かに祈った。
ーー止まって~!
優美の祈りは通じた。
あと、ほんの数ミリで、ソレが尿に浸かるというところで、ぴたっと止まった。
成人男子の膀胱の許容量は軽く500を超えるということを優美は知った。
優美の安堵の息が、ベッドに横たわる成人男子のものと重なった。
たぷんっとギリギリの尿をソレに浸してしまわないよう、またこぼさないよう十分に注意して、そっとベッドから下ろし、メディマットを取り除く。そのときに抜かりなくチョンと雫を拭き取るのは下着を汚さないためにも重要、そして素早くパジャマのズボンをあげる。
「お疲れ様でした。他は何かありますか?」
ナースコールは遠慮してしまう患者さんも多い。そのため訪室の際には必ず声をかける。
「いえ……、な、ないです」
「また、何かあったら呼んでくださいね」
優美はそっとカーテンを閉めて部屋を後にする。
外科病棟は看護師をABCで3チームに分けて、患者さんを担当している。
つまり、Aチームの看護師はいつもAチームの患者さんを担当する。同じようにBチームの看護師はいつもBチームの患者さんを担当する。
遅番や早番のときは基本、担当患者を持たずにフリーで雑務をこなす。
早番や遅番で関わるくらいで、他のチームの患者さんはよくわからないのが現状である。
排尿介助をした成人男子は優美のチームの患者さんではなかったため、その後は関わることがなかった。
病状は順調に回復したらしく、いつの間にか退院をしたようで、優美はすっかり忘れていた。
駅前の居酒屋で出会う、その時まで。
「マジで?!」
軽い茶髪のその男は長い前髪がうっとおしいのか、顔を振って、髪を払う。
優美はその前髪に気をとられ、あまり話を聞いていなかった。
同じく外科勤務の同期の看護師、紗英にたまたま出会った更衣室。連続勤務の深夜明け、その時の優美は正しい判断ができていなかったのだろう。
「今日、飲みに行かない?ちょっと、本当に聞いてほしいことがあるんだって!また、怪しいんだって!ホント!」
紗英の勢いに飲まれたことも一因であろう。その今日が6時間後であることに気がついていなかったのだ。
「いいよー」
軽く返事をしたことに疑問を感じたのは、狭いワンルームアパートの戸を閉じた瞬間。
シャワーを浴びて、ベッドに潜り込み、携帯のアラームが鳴り響いたとき、心底、後悔した。
転がり落ちるようにして、ベッドから出て、身支度をする。
適当に落ちている服を身につけ、半分記憶が曖昧な中、化粧をする。眉毛が見事に非対称であるが、今から会うのは気安い同期だ。普段の半分、本気の3分の一ほどの時間で化粧は終了。
カバンを掴み、待ち合わせ場所に向かう。
駅前の居酒屋は、たいして美味しくもなければ、安いわけでもないにも関わらず、何故かいつも混んでいる。
「ないよね?やっぱりないよね?名前を間違えるとか、ありえないよね?しかも、飼ってる犬って!」
「いや……、犬じゃないかもしれないよ…」
紗英の恋の破綻の予感と仕事の愚痴に花を咲かせて、酔いも回っていた。
そんな頃にふいに隣のテーブルにいたグループから話しかけられたのだ。
「キミらって、もしかしてナース?」
茶髪の前髪の長い男と黒髪短髪の男が気安く話しかけてきた。
友人の外見は、こういった店で声をかけ安いのだろう。ほっそりとした頰に切れ長の目、さらさらの栗色の髪、スラリと長い足、そして、カラカラ笑っていい飲みっぷりなのだ。
凡庸な容姿のぷにっとした頰の優美は、いわゆる、引き立て役。
「え?なんで?」
「今、話してたの、聞こえてきて。もしかして、市民病院?」
紗英は慣れているので、初対面の人でも簡単に話すことができるが、優美にはとても真似できることではない。
カシスオレンジの氷をゆすって、話を聞いているふりをしていた。
「オレのツレがさ、この前まで入院してたんだって。その時の話がマジでうけたー」
思い出すだけで笑うことができるほど、楽しいことがあるなんて、羨ましいと優美は飛んできた唾液に気づかないようにして、おしぼりでテーブルをそっと拭いた。
「ベッドの上でシッコ、尿瓶で採ったとき、ナースにチ○コ、ガン見されたってよっ!」
よっぽどインパクトのあるものをお持ちだったのだろう。
下ネタ真っしぐら、猫もビックリだ。
皿の上で忘れ去られた衣の厚い冷めた唐揚げを箸で摘み、肩を揺らして笑う二人と、困ったように笑う友人に合わせて適当に笑った。
「えー、何階に入院してたの?」
「何階?何階だったかなぁ。あっ、でも外科って」
ぼとっ!!
箸から無惨に落ちて、コロコロとテーブルの上を唐揚げが転がり、顔を上げると紗英の瞳とぶつかった。
「え?マジで?!もしかして、もしかすると外科のナースなわけ?」
身に覚えのある優美は、今すぐにここから立ち去りたかった。
神様は、尿器から尿を溢れさせることはなかったが、とんだ悪質なイタズラを用意していた。
しかし、これは悪夢の始まりだったのだ。
「ダハハハハハー」
文字通り笑い転げる二人を呆然と眺めていた。
「え?優美、まさか身に覚えがあったりするの?」
「……いや?大丈夫。何て名前なのかな?私、覚えてるかな?紗英は?覚えてる?」
「ダハハハハハー!ありえねぇっ!」
腹を抱えて笑うとは、まさに彼らのことだろう。そして、酔っ払いとは人の話を聞かないものなのだろう。会話が成り立たない。
個人情報保護法を胸に、優美はシラを切ることにした。
「毎日、何人も患者さんが入院して退院するし、担当じゃないと覚えてないからね」
優美はすっかり水っぽくなったカシスオレンジをゴクリと飲む。
「そうだね、チームが違うと、全然わからないし、勤務が不規則だから、会わない患者さんは、ほんとに会わないよね」
本当に全く覚えのない紗英の加勢に心の中で拍手する。
「困った患者さんはよく覚えてるから、記憶にない患者さんは、経過も良くて、トラブルのない、優秀な患者さんだよね」
紗英はもう何杯目か数えてはいない生ビールのジョッキを傾ける。
「ほ、ほんとにそうだね」
頭がクラクラするのは、きっと血中アルコール濃度が上がっているからだろう。
ケラケラ笑う目の前の男がいろいろ話しているけれど、長い前髪を顎を振って払う様子ばかりが気になってしまい、内容は全く入ってこなかった。
短髪の男と軽くボディタッチを交わしながら、談笑する紗英をいつものことながら、眩しく眺めていた。
ーーおい、おい、また騙されちゃうよぅ
薄くなったカシスオレンジを口に含み、茶髪の男が携帯をいじくり回していることを、ぼんやりと見ていた。
ニヤニヤしていた男がパッと顔を上げて、暖簾をくぐり、こちらに向かって歩いてくる男性に大きく声をかけた。
「おーい、こっちっ!」
「何だってんだよ、急に呼び出しやがって……」
ーー帰る。帰ります。帰ってもいいですよね。
カシスオレンジのグラスを落として割らなかったことは、褒めていいと思う。
「……」
「…………」
優美とその男性は見つめ合ったまま、お互いに言葉を発することができなかった。
「ダハハハハハ!!!」
バカみたいな笑い声がうるさかった。
「何、わざわざ呼んだわけ?何それ…。優美、覚えてる?」
「……いや、うん。まぁ、……私、帰ろうかなぁ」
優美は鞄を抱きしめ、腰を浮かした。
「…あ、おい、マジかよ……。ありえねぇ」
彼は呆然と立ちつくしている。
酔っ払いの二人組はゲラゲラと笑うばかりで会話は成り立たない。
「お前だけ、ナースとお近づきになりやがって、ズルいだろ?!美味しく出汁になりやがれ」
「おい、マジかよ……」
腹を抱える二人を前に、彼はまさに頭を抱える。
「何か、俺、まさかこんなところで看護師さん達に会うなんて、思ってないから、入院中のこと、ネタにしたんすよ。……ちょっと盛り気味に」
ーー何をどんな風に盛った?!
「入院中はお世話になりました」
少し顔を赤らめ、うつむいて、スミマセンと言い、紗英はそっかと呆気なく、頷き微笑んだ。
ーーいやいや、わたしは帰りますよ!
「…ねぇ、外科に居たんだよね?私は全然、覚えてないわ。名前、教えてよ」
紗英は気さくに話しかけて、自分の追加オーダーを目の前の男の分と一緒にしている。
優美は抱いた鞄を離すタイミングも、席を離れるタイミングもすっかり失い、そろりとイスに座った。
「小松です、小松達也」
「えー、全然覚えてないなぁ、達也くん、誰を覚えてる?」
「えっと、担当は坂本さんで……、後は伊藤さんくらいかな。顔は覚えてても名前までは。ネームプレートってよく見えないし」
「マジかよ?連絡先は聞いても教えてくれないって言ってたけど、名前もわかんないのかよ?」
「えー?ホント?わかんないもんかな。誰かに連絡先きいたの?」
誰に聞いたのだろうか、優美には見当もつかない。あの仕事中の冷気をまとった坂本さんの連絡先を聞くなんて罰ゲーム以外の何物でもない。伊藤さんはかなりの年上だ、年上が好みの熟女好きってヤツなのだろうか。
「……要らないこと言うなって」
バツの悪そうな顔をして小松は茶髪の男の肩を押した。
「んだよー。いっぱい看護師さんと知り合いになったくせに、一人も紹介しないなんてありえねぇだろ!」
「そこかよ。」
「そこだよ!」
「みんな、忙しそうだし、話なんて全然できないんだって。茶化して連絡先きいてもニコニコ笑ってスルーされるし」
確かに、笑ってスルーする。
白衣の時は全くプライベートとは別だ。患者さんと結婚した看護師がいるらしいが、身近にはいない。
優美にとって患者は完全に対象外、しかし、目の前の小松はにこやかに微笑んで、とても好ましい。
どきりと胸が弾み、ふと見た袖の毛玉が目につく。着心地重視のセーター、低価格で気安く着まわせるパンツ、何となく履いたブーツ、眉毛は非対称、やる気のない化粧。
後悔しても仕方のないことだとわかってはいるが、顔を上げることはできない。
薄くぬるくなったカシスオレンジを優美はゴクリと飲み干した。
ーーまぁ、わたしは無いよね。だってね、アレね。嫌だよね。うん、うん、ないない。でも、覚えてないかも…?!まぁ、どっちにしてもないわ。
顔を上げられないと思ったことが、恥ずかしくなった優美はメニューを手に取り、パラパラとめくる。
急ぎ足で行き交う店員さんの手にしているスパゲッティが目にとまる。
目に鮮やかなトマトの赤、彩のパセリの緑、ホワリと登る湯気。
ゴクリと喉がなる。
となりの紗英は生ビールを手に小松と談笑しており、黒髪短髪の男性はただ紗英を見つめている。茶髪の男性はすでにおやすみ中だ。
優美は、誰の意識も向いていないことにホッと胸をなでおろし、店員を呼び止め、トマトスパゲッティを注文する。
あとは、紗英と小松の話しを聞いているフリをしているだけでいい。
優美はトマトスパゲッティをモグモグ頬張る。トマトの程よい酸味、アルデンテの茹で加減も良く、意外にも美味しかった。
スパゲッティに気を取られ、紗英がトイレに立ち、小松が優美をじっと見ていることに気づかなかった。
「……安藤さん、ですよね?」
「はえ?!」
突然、声をかけられて優美は顔を上げる。口からスパゲッティがはみ出したままだ。
慌てて吸い込んでしまったスパゲッティは食道に行かず、優美はひどくむせた。
「…ゲボっ!ゲボっゲボっ!」
「だ、大丈夫?!」
小松から渡された水を飲み、おしぼりで口元を拭う。
「すみません、大丈夫です」
「ごめん、急に声かけちゃって」
「…大丈夫です」
「……安藤さんは覚えてないかもしれないけど、俺、安藤さんのこと覚えてる」
「……」
ここで、正直に自分も覚えていると言うべきなのかどうか、優美にはわからず、曖昧に微笑む。
「……入院してすぐ、あの、あの……管を入れるのが嫌で。絶対むちゃ痛そうだし、マジで無理だと思った。そしたら、尿瓶でしろって言われて…。あれ、キミだよね?」
「……そ、そうだったかな?」
優美は頰が引きつり、上手く笑えない。
「うん、その後の看護師さんたちはみんな、尿瓶を渡されて……、自分で取ったし」
ーーマジかっ!!!
優美は顔を引きつらせたまま、凍りついた。
「横を向いて……ね。取ったらここに置いてねって、置き場だけ用意して。すぐ、トイレに行ってもいいって言われたから、よかったけど、大変な仕事だよね。ほんとに」
小松はそっとグラスを傾け、凍りついた優美に微笑んだ。
優美はぐっとフォークを握りしめてから、手を離すとフォークは落ちて、カラリと皿は音を立てた。
ーー帰る!もう、帰るよ!
まだトマトスパゲッティは残っているが、口に運ぶ気力も食欲も残ってはいない。
「同い年くらいの女の子だったから、マジで恥ずかしかったし、よく覚えてる」
小松ははにかみ、顔を赤らめる。
ーー帰るー!!
「ねぇ、連絡先教えてよ」
ーーは?
優美は小松の言葉の意味がわからなかった。
酔いが回っているはずはない。自転車に乗ると飲酒運転になるとさっき話していた。
やはり、小松の手にあるのはジンジャーエールだ。
「ダメかな?」
「いや、別に…嫌ってことはないです、はい」
「じゃ」
ポケットから出てきたツルリとしたスマホを見て、優美も慌ててカバンを漁った。
トイレから戻った紗英と何事もなかったように小松は話し始める。
程なくしてお開きになる。紗英はすっかり酔いが回り、足元もおぼつかない。
何とかタクシーに押し込み、部屋まで送り届ける。ほっと一息ついたのは、アパートに戻って、シャワー浴びてからだった。
見もしないテレビをつけたまま、何となく、スマホを手に取り、優美はぼんやりとしていた。
チロン
ーーわっ!
小松からのラインにスマホを落としてしまいそうになった。
それからも、取り留めのないことながら、ちょくちょく連絡をくれる小松を優美が憎からず思うようになるのに、そう時間はかからなかった。
ーーもしかして、もしかするともしかして??
恋の予感にドキドキと胸をならす優美を打ち砕いた小松からのライン。
坂本さんって彼氏いるのかな?
ーーですよね〜