フィアンセは自由人
久しぶりの更新となってしまいました。
楽しんでいただけますように( ´∀`)
いつものことですが、お食事中の方はご注意ください。
「俺と結婚しないか?」
安藤優美は動かしていた手を止めて、その言葉を発したその人の顔をまじまじとみつめる。
人生で一度は言われてみたい言葉だ。優美自身もその言葉を貰うときの自分を想像したこともある。夜景の美しく煌くレストランだったり、花束と共に小さなでも高級な指輪と一緒に恭しく渡されながらだったり、いつだってそれは驚きと共に、喜びに溢れていた。
そんな想像の中の、美しい台詞がどうしてこんな状況で自分に向けて発せられるのか、優美には全く解らない。頭の上で適当にまとめた髪は、まだ午前中だというのに、早くも乱れている。支給の白衣はしっとりと汗を含んで、乙女にあるまじき臭気を撒き散らしている。そんな状況において、受け入れがたいその言葉にうまく返事をすることができなかった。
「……はえ?」
「は?あかんのか?」
「はぁ、ちょっと無理ですね」
「なんやぁ?俺はええ男やぞ?なぁ、あんたもそう思うやろ?」
「関さん、左向いてください。背中を拭きますね」
目の前で優美と一緒に、関良蔵さんの清拭の介助をしていた、坂本真理は頬を緩めることなく、黙々と淡々と体を拭き清めていく。
「なんやぁ、つれないの。んじゃ坂本ちゃん、俺と結婚するか?」
「関さん、あなたと結婚するメリットは何ですか?私が三十以上も年の離れた関さんと結婚して何か良いことあるんですか?具体的にお願いします」
「あ、あるに決まっとるやないかぁ、俺はなぁ、金ももっとるしなぁ。あんたに苦労はさせへんぞ。それに結婚はそんな、いいことあるからするんと違うんやぞ?」
「へぇ、そうなんですか。まだ、未婚ですから、よくわかりませんね。とにかく財産目録を提出してくださいね、それを見て検討させていただきます。はい、パジャマを着ますよ、袖を通してくださいね」
真理の視線が突き刺さり、優美は慌てて関さんの寝衣を着せていく。
よれよれを通り越して、へろへろの寝衣は強く引っ張ると簡単に破れてしまいそうだ。優美は慎重に関さんの細い肩を通す。
「いてっ、痛いやないか、お前らむちゃくちゃするなぁ、ほんとに。俺は病人なんやぞ。ちょっとくらいやさしくしたってバチあたらんぞぉ」
「お腹に傷があるのですから、多少は痛いですよ。指先をちょっと切ったら痛いでしょう?十センチ以上も切ってますからね、痛みが全くないってことはありません。でも、痛いからって動かないと、違う病気になってしまいますよ。昨日も全然動けなかったので、今日は頑張って、できれば歩きましょう。少なくともベッドサイドに立ちましょうね」
真理は関さんにニコリと微笑み、続けて優美に視線を向けて、ニコっと微笑む。
それは、『きっちり、離床すすめなさい』ということだ。
優美の背筋はぴしゃっと伸びる。
「はい、頑張ります!」
「安藤ちゃんが頑張るんじゃなくて、関さんが頑張ってくださいね」
「おぉ、おまえらは鬼やのぅ」
微笑を浮かべたまま、真理は関さんの寝衣を整え、ベッドの寝具を整え、ベッド周りのコード類や床灯台の上を整える。枕元にナースコールを置いて、スリッパをそろえる。その滑らかな動きの横で、わたわたと優実は作業ワゴン片付ける。
「失礼しますね」
連れ立ってワゴンを押しながら、部屋を後にする。
関さんはまた来いやーと節の目立つ手を振っている。
関良蔵さんは67歳の男性。独身で独居。小柄で細身、顔はくっきりとしわが刻まれているのは、よく日に焼けたからだろうか。もう、仕事をやめて何年も経つのにその頬は黒い。黄ばんだ歯は何本も抜け落ちていて、毛髪は耳元と襟足にふわふわとまとわりついているだけで、とても70歳前には見えない。
10代で地元を離れて就職、20代で結婚、二児をもうけるも、40代で妻と離婚。その後、妻、二児ともに音信不通。各地を転々とし、地元には帰っていない。両親はすでに他界。兄弟とも音信不通。身寄りはなく、60歳まで非正規雇用で慎ましく暮らしてきたものの、仕事が無くなり生活に困るようになった。たくわえなどあるはずもなく、年金など払っているわけもなく、行政の介入を余儀なくされた。現在は生活保護を受けて生活をしている。
関さんは大腸がんだ。腫瘍は直腸のすぐ近くであったため、排便時に出血。突然のことで大家さんと地域の民生委員さんを巻き込んでの大騒動。二人の強い勧めで、近医を受診。大腸がんの疑いがあるとの診断を受け、市民病院を紹介受診。精査の結果、大腸がん(直腸がん)と診断受けて、手術目的にて入院となった。
民生委員さんの園田さんに付き添われて入院。園田さんはぽっちゃりと丸い肩と柔らかそうな頬が印象的な50代の女性だ。もちろんその心根もふんわりと柔らかい。
「関さん、ちゃんと治しておいでよ、看護婦さんの言うことちゃんと聞くんだよ。わがまま言ったりしちゃだめだからね」
10も年下の女性に子供のように窘められ、おう、わかっとると元気良く答える。そんな二人は、親子の様でも、姉弟のようでもあった。
民生委員はボランティアであり、善意である。園田さんはとてもよくしてくれている。事務手続きを一緒にしたり、必要なものを買ってきてくれたりする。
園田さんは関さんの手術の説明にも同席した。基本的に手術の説明には家族しか同席はできない。関さんの強い希望と主治医の許可があり、ほかに同席できる人がいなかったためであるが、園田さんにその義務はない。
手術の当日、家族は病棟、もしくは院内での待機を依頼される。手術中の緊急時の対応を目的としており、とっさの判断を要求される。
ほとんどの場合、無事に予定通りの手術を終えるのだけれども、もしもの場合に備えることを欠かすことはできない。
園田さんはその手術中の待機もかってでてくれた。
「だれもいないと、関さんかわいそうだし」と小首をかしげた。
園田さんは夫もあり、三児の母でもある、子供たちがみな独立し、時間があるからとのことであるが、近所には多少の介護の必要な高齢の義母もいる。
何をするわけでなく、何かあるわけでもない病棟で、彼女は6時間待機をした。
彼女の善意はいったいどこから溢れてくるのだろうか。ナースステーションのカウンターからその背中をいくらみつめても、優美にはわからなかった。
清拭の介助を終えた優美はナースステーションで手を洗いながら、早くもボサボサの髪を少々ささくれ立った気持ちでみつめていた。
「関さん、頑張って、離床してね」
パソコンの前で、点滴の処方を確認する真理から、声がかかる。ペーパータオルで手のひらの水滴をふき取りながら、声のほうに振り向く。
「はい、頑張ります」
「痛い、痛いって言って、動かないんだろうけど。やることはやらないと、経過悪くなるよ?ちゃんと、わかってる?」
「…はい」
「じゃ、今日はバルン抜いて、トイレ歩行ね」
「えぇっ!!ハードル高すぎですよ!」
「もう、術後何日目?クリニカルパスではバルン抜去は何日目?わかってる?早期離床は基本でしょ。寝てれば直るなんてことはないんだから。しっかり声かけて、しっかり動いてもらわなきゃね。きちんと説明して、きちんと理解してもらってよ?婚約者なんだし?」
「ほんとに、勘弁してくださいよ。坂本さん……」
「ハハハッ、真に受けて、きょとんとしてるんだもん。でも、よかったじゃない、一生に一回は言われてみたいなぁとか、思ってたんでしょ?」
「白衣で清拭中に言われても嬉しくありませんよ……」
「何それ?じゃ、夜景の見えるレストランでとか、花束と一緒にとか、夢見ちゃってるわけね」
「……いいじゃないですかっ」
「うん、いいよ。いいよ。まったく問題なし。ただ、白馬に乗った王子さまが家に迎えに来るってことは無いからね。それだけは覚えておきなないよ?かなり危ないわよ」
「それは、わかってます!!」
「さ、そろそろレントゲンでしょ?レントゲン室に連絡してから行ってね。歩いて行っておいでよ?手でも繋いでさ」
「坂本さん、からかわないでくださいッ」
関さんの部屋には園田さんが来ていた。
「こんにちは、お疲れ様です」
にっこりと頬を緩めて挨拶をすると園田さんは小首をかしげて微笑む。
「看護師さん、お世話になってます。何かご迷惑をかけていませんか?わがまま言ってませんか?」
「大丈夫やッ!」
「何かあったらいつでも言ってくださいね」
洗濯物を抱え、にこやかに園田さんは病室を後にした。
「関さん、レントゲンの検査があるので一階まで行きますね。歩いて行きますか?」
「あほぁっ!そんなもんできるわけないやろ!この鬼っ!俺は病気なんやぞ?」
「では、車椅子で行きますか?」
「押して行ってもらわな行かれへん、そんなんもわからんのかぁ」
カチャリと車椅子を押し広げると、関さんは仰々しくそこに腰掛けた。
優美はきっと叱られるんだろうなぁと、先輩看護師の顔が浮かび、ため息をこぼした。
「ほら、ちゃんと離床しないから」
詰め所のパソコンで関さんのレントゲン写真を確認したらしい真理の冷たい視線を背中に感じて、優美は肩をすくめる。
「…すいません」
優美はレントゲン室ですでに確認済みである。
「動いてないね。パンパカパン」レントゲン技師さんににっこりとイレウス(腸閉塞)宣告されていた。すぐに知れてしまうこととわかってはいたけれど、恐ろしくて優美は真理にその事実を伝えることができなかった。
「主治医は?知ってる?」
「はい、たぶん知ってます」
「…たぶん?」
冷気をたっぷりと含んだ声に優美はさらに肩をすくめ、これ以上は小さくなれないとわかってはいても、豆粒くらい小さくなりたかった。
「回診医に連絡して。主治医は手術中でしょ」
「ハイ……」
「安藤ちゃん、今更だけどね。隠してもすぐにわかるの。自分の身を守るようなごまかしをするのは止めなさいね、起きてしまったことは変えられない。だったら、それをいかにすばやくリカバリーするかを考えて。大事なフィアンセなんだし?」
「……ハイ。……フィアンセじゃありません」
「さ、落ち込むのも反省するのも、後にして。先にやるべきことを済ませて」
関さんはチューブを挿入された。
もちろん食事は中止、飲水も中止だ。
鼻からビローンと管を垂らした関さんは文句ばかりだった。
休憩室のテーブルにとろけるように突っ伏していた優美は、もう何度目かになるため息をこぼした。
「あぁ、今日はもう散々、もうやだ、帰る」
同期の鈴木紗英しか、休憩室にいないため、心置きなく落ち込んでいる。
「相変わらず、坂本さんは厳しいね。動いてって言っても、動かないもんはどうしようもないじゃん?ほれみたことかって患者さんに言いたくなるもん」
「……もうちょっと、きちんと説明すればよかったかなって思うんだよね」
「あんたは真面目だね。こういうところで自分を責めちゃうとこ。それはやっぱり彼氏だから?あぁ、違うわ、フィアンセだからか」
早くも食べ終わったお弁当のふたをパタパタ振って、紗英は笑う。
「もう、ほんとに勘弁して。ちょっとプロポーズに夢見てた自分にもちょっとショック」
「なにそれ?」
「なんか、勝手に思い込んでたんだよね。プロポーズのシチュエーション?なんか、すごくメルヘンな自分にうんざり?」
「ははは、優美さんが夢見がちなことなんて、みーんな知ってるし。今更よ。……でも、いいじゃん。私なんて、関さんに俺の愛人にならないか?って言われたよ?なんで愛人なのよ!まだ、本妻のほうがいいよ。絶対っ!!何?私のどこが愛人なわけ?なんか今までサラッと流してたけど、腹立ってきたわ」
紗英はたっぷりフルーツの入ったゼリーを勢い良く開けて、大きくすくって口に運ぶ。
「あぁ、ほんともうやだ。しかも、坂本さんに馬に乗った王子様は家に迎えに着たりしないって言われてね…」
「……いや、坂本さんこそ…」
「……だよね。なんか、予想を裏切らないっていうか、やっぱりこの仕事をしてると彼氏なんてそうそうできないんだよね。あんなにきれいな坂本さんも彼氏いないっておかしいもん。出会いなんてないし、壁ドンなんて現実にあるわけないよね。彼氏ができなきゃ、プロポーズなんて夢のまた夢、妄想するしかない…」
「……」
決して言葉数が少なくない紗英がうつむいている。
「えッ!ほんとに?うそ…。彼氏出来ましたっていうの?」
「ハハハー、そのまさかです」
「何?何ナノよー。誰?いつから?」
「この前、友達の結婚式の二次会があってね。そこで知り合った人なんだけど」
「ええ?それって、先週末の?」
「そうそう」
「……早い」
優美はこの戦友と呼べる友人のフットワークの軽さというべきか、尻の軽いというべきか、恋多きタイプであることを失念していた。
看護師として多忙を極め、精神的にも身体的にも余裕のなかった一年。紗英は一年経って、その余裕を見出し、出会いを求め、また新しい恋をはじめることに成功したようだ。
いつものように、長くは続かないのだろうと思ったことがそのまま、顔に出てしまったらしく、紗英が顔をしかめる。
「大丈夫!本当にいい人なんだからっ!やさしいし、絶対浮気するようなタイプじゃないから」
満面の笑みでスマホに収められている画像を差し出す紗英をこれまでに何度か見たことがあることを優美は記憶している。
しかも、画像に映し出される男性は紗英のドストライク、ちょっとチャラそうなイケメン。長めの茶髪に光るピアス、すっきりとした顎のラインとくっきり二重の大きな目をしていた。
――思いっきり遊んでそうですけど?!
スマホを大事そうに眺める紗英に優美は何も言えなかった。
休憩から戻ると白いハザードボックスにビローンとチューブが捨てられていた。
――むむっ!嫌な予感
「関さん、チューブ自己抜去したから」
いつの間にか、背後にいた真理の姿に優美はヒッと声を上げて、小さく飛び上がった。
「……マジですか」
振り返ると、大きな目をどんよりと曇らせた真理が大きく息を吐く。
「マジです。……きちんとチューブの必要性とか、取り扱いの注意とか説明した?患者さんに説明して理解してもらわないと治療って成り立たないんだよ」
「…はい、スミマセン」
「まぁ、認知症があるわけでもない、不穏の症状が出てるわけでもない。先生からも説明されているだろうし、本人の理解力の問題よね。抑制帯を使うわけにもいかないしね。関さんのお腹、気をつけてみててね。ちょこっとは減圧されてるだろうけど、リオペになるよ?フィアンセなんだし」
「はい」
優美にその言葉を否定する気力はもう残されていなかった。
――何故?なんで抜けちゃったのよ?
優美は疑問を胸にパタパタと小走りに関さんの元へと急ぐ。
半分閉められたカーテンを覗き込むとベッドに横たわり足を組んで、鼻をほじる姿が眼に入った。
「おう!」
「おうじゃありませんよ。何で抜けちゃったんですか?引っ掛けないように気をつけてくださいって言ったじゃないですか。すごく大事なチューブだって」
「そうやったかぁ?」
「そうです!」
「なんか、邪魔やったし苦しかったから、引っ張って抜いたわぁ」
「はぁっ?!自分で抜いちゃったんですか?」
確かにさっき真理は『自己抜去』と言った。それは『事故抜去』ではないのだ。文字通り彼は自分の手でチューブを抜いたのだった。優美は膝から崩れ落ちてしまいそうだったが、なんとか堪えて、ナースステーションに戻る。事故報告書を書かねばならない、これは定時には決して帰ることができないことを意味する。大きくため息を吐いた。
関さんの腸は詰ったままだった。
そして、手術のときに縫って合わせた腸はうまくくっ付かなかった。
腸閉塞に縫合不全を起こしたのだった。
うまくいかないときはとことんうまくいかないものなのだろうか。
関さんは結局、人工肛門を造設しなければならなかった。
いったい、誰がストマパウチの管理交換をするというのだ。
しかし、手術をしなくては彼の命は危険にさらされる。
いったい、誰がその決断をするというのだ。
彼には身内はいない。
どんなに親身になって気にかけてくれても民生委員の園田さんは他人だ。
そして、フィアンセも他人だ。
患者さんのベッドサイドのテレビから、聞こえてくる『買い物に財布を忘れたお姉さん』の明るい声。毎週いつもこの時間になると温かな昭和の家庭を繰り広げる彼女が優美と年齢が同じであることに気づいたときの衝撃はすさまじかった。
時刻はもうすぐ、19時だ。
この時間は、山場といっても過言ではない。
患者さんを一人ひとり回り、バイタルサインの測定、ドレーンの排液の状況、食事の摂取の程度など、消灯を前にして、やるべきことは多い。優美は時計を気にしつつ、ワゴンを押して病棟を駆け回っていた。
ピピピピイピィー
ポケットのPHSが鳴り響く。
ナースコールが鳴ると勤務者それぞれが持つPHSに転送され、どの端末からでもコールを受信することができる。しかも小さな画面には部屋番号とベッド番号が記載される。
それぞれがその日担当する患者さんの部屋、ベッド番号は把握しているため、担当の者が通話ボタンを押すことができるのだ。
――関さん?
優美はすぐさま、通話ボタンを押す。
「はい、どうされましたか?」
「大変やっ!すぐ来てくれ~」
「はい」
優美はワゴンを押して、彼の元に急ぐ。
勤務開始は16時30分だ。まだ二時間も経っていないにも関わらず、体は重かった。それは勤務が続いているせいかもしれなかったし、もしくは少々焦りを感じたために無理やり友人主催の飲み会に参加したせいかもしれなかった。
関さんのベッドサイドの半分だけ閉められたカーテンに手をかけたときに優美は立ち止まり、がっくりとうなだれた。あのお馴染みの臭いが鼻をついたからだった。
――あぁ、便臭。
「…関さん」
「おう、なんやおかしいんや。どっからか漏れてしもたわ」
彼の腰の辺りはこげ茶の染みが広がっている。それはパジャマの上着だけでなく、ズボンまで染みており、それだけにとどまらず、白いシーツにまで大きく広がっていた。
それに触れてしまったらしく彼の両手は異臭を放っており、優美はどうしていいか分からず、しばらく、ぼんやりと立ち尽くしてしまった。
「あぁー、関さん、ストマ、漏れちゃったんだね。安藤ちゃんしっかりして、とりあえず手を洗いに行ってきて。そのまま処置室に行って、着替えとパウチの張り替えね。こっちは私がシーツ換えてきれいにしておくから」
にっこりと微笑を浮かべるのは、熟練看護師、伊藤登志子。自営業で収入の不安定な家庭を支えるべく日夜、業務にいそしんできた。勤続30年を超える大ベテラン。その微笑みは患者さんだけでなく、スタッフにも安心感をもたらすのだった。ぽってりと丸い手で肩を叩かれ、すがり付いてしまいそうだった。
――このクソ忙しい時間になんで漏れるんですか?!誰ですか関さんにストマ造ったの?!こんな調子で退院なんて出来るんですか?!
言葉にならない叫びを飲み込んで、優美は目の前のやるべきことに意識を集中する。
結局、関さんはストマパウチの管理をマスターすることはなかった。
しかし、彼は自宅に退院することとなったのだった。
「おう、じゃあまたな」
関さんはクシャっと笑い、節のめだつ手を上げる。
「またなじゃ、ありませんよ。もう、ここには来ちゃだめですよ。外来のついでに顔を出すくらいにしてくださいね。……フィアンセもいることですし」
「もう、いいですって、坂本さん…。関さんお大事に」
「本当にお世話になりました」
民生委員の園田さんも両手に荷物を持って、にこやかに頭を下げる。
静かに閉まるエレベーターのドアを見送って優美はほっと息を吐いた。
「寂しいの?」
「まさか、やめてくださいよ。ただ…」
「なに?」
「在宅ってすごいなぁって思ったんです。関さん結局ストマの管理ができないままでしたけど、なんでしたっけ…」
「訪問看護とデイサービスとで管理していくみたいね」
「そんなことができるんだなって思ったんです」
「ほんとね」
踵を返した真理の背中に優美はしみじみつぶやいた。
「こうして、笑って退院していくのってほんとにいいですね」
「外科の一番、いいところなんじゃない?」
そう言って、にっこり微笑む真理はまぶしいくらいにきれいだった。
こんなにきれいな真理でさえ彼氏がいないということが、平凡な容姿の優実を焦らせる。来週の飲み会も参加してみようと心に決めた優実だった。
これまた、ナースあるある
『無茶苦茶なんだけど憎めないおっちゃん』