その言葉が折ったモノ
久しぶりの更新です( ´∀`)
ぽつり、ぽつりとフロントガラスに雨粒が当たり始め、あっという間にざっと降り始めた。雲が低く立ち込めた暗い空、堪えきれずに落とし始めた雨が堰を切ったように路面を濡らしている。
マンションの駐車場に車を停め、助手席に置いてある鞄と傘を手にして、水滴のついた窓から外をみる。駐車場からエントランスまで少し距離があり、坂本真理はドアを開けてその傘を開くことをためらった。
傘を差さずに走れば、頭や肩が濡れ、足元は雨水が跳ね上がるだろう。夜勤明けで重く、汗ばんだ体をすぐにでも洗い流すつもりなので、濡れてしまうことはかまわない。それよりも濡れた傘を玄関脇に置いておくことのほうが嫌だった。
真理は鞄を肩にかけ、そろりと車から降りる。髪や肩にかかる雨が、想像以上に心地よく感じた。真理はそっと瞳を閉じて、その場に立ち尽くす。
ファミリー向けのマンションの昼間の駐車場には、誰もいない。ただ、雨音だけが響いていた。
――そんなの無理に決まってるでしょう?
耳によみがえるその声に、真理は大きく息を吐く。水滴が零れ落ちる前髪をゆっくりとかきあげ、エントランスに足を向ける。
部屋のドアを開けて、「ただいま」と呟くけれど、もちろん返事は無い。雨降りのせいで暗い廊下にぽっと照明を点す。
濡れた服を脱いで、そのままシャワーを浴びると、すっきりとしたけれど、心の重さは少しも軽くならなかった。
タオルでガシガシと水気を拭いながら、冷蔵庫からビールを取り出しプルタブを引く。壁にかけた時計はまだ正午を過ぎたところだけれど、真理は躊躇無くのどに流し込む。
ソファに座ると、体は沈みこむように重く、手足の力が入らない。
深夜勤務中に患者さんが亡くなることなど、初めてでもなければ久しぶりでもない。決して珍しいことではないのだ。
白石太郎さん、78歳の男性。胃がんの手術後、肝転移が見つかる。化学療法による治療は思うような効果は得られず、体力の消耗は激しかった。
腹水の貯留し、食事摂取ができなくなり、入院となり、点滴加療、腹水穿刺によって症状は改善されたけれど、それは根治治療ではない。
今後の方向性について、医師、看護師、妻と相談するけれど、なかなか方向性は決まらなかった。
自宅に戻る、もしくは緩和ケアのできる病院に転院する。その二つしかないのだ。
この市民病院は急性期病院であり、緊急、重症な状態にある患者に専門的な医療を提供する病院なのだ。よって、緩和ケアはもちろんのこと、慢性期、また病状の安定している患者に対して長期の入院医療を必要とする場合には、転院、もしくは退院となる。
この病院で最後まで診てほしい、そう望む患者、家族は多い。けれど、国の方針である以上、市民病院において、融通は利かない。
「どうしたらいいか……」高齢の妻は戸惑いを隠せない。
いつも、誰かの言うようにしてきたのだ。
市で行われる健康診断を受ける、精密検査をするように言われ、個人病院を受診、そして市民病院を紹介受診。あれよあれよと、入院、手術となり、退院後も、化学療法と言われる。
そして、選べと言われるのだ。どこで最後を迎えるのかを。
「もうできることはない、緩和医療に移行しましょう」
言われるままに付き従ってきた医師に、突き放されたと感じることは当然なのかもしれない。
方向性が決まらないまま、時間は刻、一刻と過ぎていく。少しずつ削られていく白石さんの頬の肉は、少しずつ彼の時間が削られていくようにも見えた。
白石さんの妻は、長年連れ添った夫に献身だ。毎日、朝から昼過ぎまで、もしくは昼前から夕方まで、夫のもとにやってくる。ほとんど進まない食事を手伝い、白石さんの好物を持参される。
傍らに寄り添い、にこやかに穏やかに話しかけるけれども、白石さんはぐったりとベッドに横たわり、あまり言葉を発することが無い。認知症が悪化したことも大きな理由だ。それでも妻は彼の元にやってくるのだ。
「おじいさん、今日は雨だね」
何をするでもない、ただ、彼のそばで過ごす。きっと、今までも同じような言葉を交わしてきたのだろう。小さく声をかけるその姿は二人の過ごしてきた時間が醸し出すしっとりした空気をまとう。
彼らに残された時間は決して長くないことを、私たちは知っていたけれど、その言葉は誰にも届いていなかった。
「白石さん、どうするか相談されました?自宅に帰られますか?」
「……おじいさん、動けないし、点滴もしてるし、こんな状態で帰っても面倒みれませんよ」
「大丈夫ですよ、看護師が伺いますし、医師も往診しますから、奥さんがすることはなにもありませんよ」
「無理、無理だって。こんなおじいさんじゃ、せめて歩けないと。ご飯も食べられないし」
「……白石さん、もう歩いたり、ご飯を食べるようになるのは難しいですよ。だからこそ、最後の時間をどう過ごすか、ご家族さんとも相談してください」
年老いた妻は、残された時間が短いことを知らされてはいたけれど、全く理解できていなかったのだ。
今後、状態がよくなることは期待できない。立ち上がってスタスタと歩くようになることも、箸を手にして、大好物の白菜の漬け物を口にすることはないのだ。
おそらくこのまま、草木が枯れていくように命の灯火は消えてしまうだろう。
それを為すすべなく、ぼんやりと過ごしてしまうことで家族に後悔はしてほしくない。
看護師として、選べるということを伝えなければならない。
緩和ケア専門病院、在宅医療という選択肢があることを伝えなければならない。
ベッドサイドで持ち込んだ新聞をゆったりと眺めている妻に、真理は話しかける。
「白石さん、ご家族さんと相談はされましたか?」
「あ、は、はあ」
新聞から目を離し、困ったように曖昧に答える妻に、真理は畳み掛ける。
「息子さんは何と言ってみえるのですか?お話されましたか?」
「あの子は仕事が忙しくてそれどころじゃなくて、別棟にいるから、なかなか顔を合わせることもないし」
ーー親の最後より優先されるべき仕事ね……。
「そうですか、ではお嫁さんは?何か言ってみえるのですか?」
「嫁さんも、仕事で忙しいし、子供もいるし……」
「そうですね。みなさんそれぞれの生活がありますよね。週末は?息子さんか、お嫁さんは病院に来ていただくことはできませんか?私からも主治医からもお話させていただきたいのです」
「……はい」
広げていた新聞に目を落とし、妻はため息をこぼした。
週末になって、妻と共に来院した長男の妻である、お嫁さんは文字通り言葉を失った。
「お……、おじいさん」
目を見開き、ベッドに横たわる姿を呆然と見つめていた。
「おばあさん、大丈夫だ、って。そう言うから私……」
問いかけるように向けられた瞳を真理はまっすぐに受け止めて、状況を説明する。
窓のない小さなカンファレンスルームで主治医からの説明をじっと聞いていた彼女は、リノリウムの床と手元に視線を落としていた。
何かを質問することもなく、身動ぎすることなく、耳を傾けていた。
突きつけられる選択肢。
いったい、彼らはどうするのだろう。
真理に決めることは出来ない。
選ぶのは彼らなのだから。
ゆっくりと顔を上げた、その頬は色を失い、瞳はぼんやりと空をさ迷っていた。
「……夫と、相談してきます」
「……白石さん、時間はあまり残されていません、なるべく早く……」
「……わかりました」
小さく頭を下げてカンファレンスルームを出ていく背中は50代の年相応に丸みを帯びていたけれど、その足取りはとても重かった。
「坂本さん、白石さんの家族さんって今日、きてましたよね?どうされるんですか?」
二年生ナース、安藤優美はしんと静まり返ったナースステーションで真理に話しかける。
時刻は、午前2時半を過ぎたところだ。
パソコンのモニターから目を離すことなく、マウスを扱う真理は夜勤前にすっかり落として、素っぴんの頬を少しひきつらせて呟く。
「……どうするもね。奥さんは家族に何も話してなかったみたいだし、今から方向性決めるって言っても、ちんたらしてたらね、……間に合わない」
「え……」
「転院か、在宅かの、二択よ。転院なんて、1ヶ月待ちが当たり前。そんな時間はきっとない。帰るなら、今。つまりは今、帰らないと、もうどうにもならなくなる」
「そんな」
「どうするのかを決めるのは、家族だからね。……安藤ちゃん、あんたは、どこで死にたい?最後に過ごす場所を選べるなら、病院で死にたい?長く過ごした家で死にたい?看護師に看取られたい?家族に看取られたい?どうしたい?」
「……え?」
「考えたことない?どんな風に死にたいか?」
パソコンのモニターから化粧をしていなくても、力のある瞳を優美に向ける。
「な……ないです。ないです!」
「そう?私はあるよ。よく考える。糖尿病は嫌だな、とか。腎不全も肺癌もヤだなとか。疼痛コントロールだけしっかりしてほしいなとか」
「思ったことないデス」
「ふーん。そんなもんかな」
静寂を破るように響くナースコール、優美は小さなライトを手にして、飛びはねるように、ナースステーションを出ていく。
ふうと息を吐いて、真理は家族の選択が早いことを願った。
「う、うう……」
ズビ、ズビッと鼻を啜りながら、目を真っ赤にして泣く優美を休憩室のソファーにどっかりと腰をおろして、真理は眺めていた。
「あ、あんまりです……」
ポロポロと涙が頬を伝う。
白石さんの退院を見送ったときには、すでに勤務時間を過ぎていた。
緑のナンバープレートの黒いワゴン車が病院の裏口から滑るように出ていくことを確認して、ゆっくりと頭を下げる。
ーーお疲れ様でした、白石さん。
心の中で呟き、車のエンジン音が消えてしまっても、しばらくの間は頭を上げることができなかった。
右隣で、優美が堪えきれずに嗚咽を漏らす。
空は厚い雲に覆われていて薄暗く、湿った風がやわやわと頬を撫でていく。
真理は大きく息を吸ってから、優美の腕をつかみ、院内へ足を運ぶ。
休憩室に戻っても、優美の涙は止まらない。
そんな優美をぼんやりと見つめながら、真理はしっとりと冷たい背中と、エンジェルケアが終わったときの、白石さんの穏やかな表情を思い出していた。
いつもいつも、エンジェルケアのとき、患者さんの身体の冷たさに驚くのだ。
いい加減に慣れても良さそうなのに、真理はいつまでたっても、その冷たさに触れたとき、お腹の奥が縮み上がるほど、驚いてしまう。
ーーあぁ、脱け殻なんだ。
そう思ってしまう。
身体を拭き清め、衣服を整える。
髭を剃り、髪を整えて、化粧を施すと、ふんわりと白石さんが笑ったような気がした。
真理の後悔を許してくれるような、そんな気がした。
そんなことはあるはずがないのに。
ーー私がもっと言葉を尽くせば、こんなことにならなかったのだろうか。もっと何かできることがあったのではないだろうか。
「安藤ちゃん、もうお昼になるわ……、帰ろう」
真理はグズグズといつまでも泣き止まない優美の手を引いて休憩室を後にする。
夜勤明けで重い身体は、いつもに増して重かった。
お嫁さんの決断は週末の説明から、5日後だった。
「看護師さん……、おじいさんを連れて帰ります。おじいさん、聞いたら、はっきり、うちに帰りたいって、うっ、うう……」
家族と相談され、本人の意思を尊重することを決めたお嫁さんは、唇を噛みしめ、涙を堪えていた。
「はい、わかりました。自宅で過ごしていただけるように、身の回りのことを整えていきましょう」
真理は院内の社会福祉士に連絡、訪問看護、往診可能なクリニックを手配して……と頭の中で細かに算段していく。
ーーよし、3日あればなんとかなる!
ナースステーションに足早に戻り、内線電話の受話器を握る。
瞬く間に、退院に向けての準備が整っていく。
その夕方、深夜勤務を控えているにも関わらず、定時を過ぎてもまだ、仕事は終わらない。それらを片付けるべく、病棟を駆け回る真理は、白石さんのベッドサイドに妻とお嫁さんともう一人、女の人が来ていることに気付き、声をかけた。
「白石さん、3日後の日曜日には何とか、退院できそうですね」
「はあ?何を言ってるの?こんな状態で帰れるわけないじゃないっ!」
たるんだ二重顎を震わせている女の人の顔立ちは、白石さんと似通っており、真理はこの女の人が白石さんの血縁であることを確信した。
ふと、県外在住の長女の存在を思い出す。
真理はにこりと微笑みを浮かべて言葉を選ぶ。
「心配や不安はもちろんあると思いますが、しっかりサポートさせていただきますので。訪問の看護師も伺いますし、医師も往診に……」
「はあ?無理無理ムリっ!そんなの無理に決まってるでしょう?!」
真理の言葉を遮り、強く否定し、全く受け入れようとしない態度だった。それを諌めることなく、妻もお嫁さんもじっとうつむいたままだった。
白石家族の力関係は、火を見るより明らかだ。
この女が誰かははっきりとはわからないけれども、彼女の言葉を覆すことが出来る人はいない。
少なくとも、妻もお嫁さんも、彼女の決定に逆らうことは出来なかった。
退院の話しは白紙に戻り、真理は落胆を隠せなかった。
そして、白石さんは朝方、急に状態が悪化し、呆気なく息を引き取った。
自宅に帰れないとなって落胆したのは、真理だけではなかったのだろうか。
真理がもっと別の話し方をすれば、理解してもらえたのではないか、もしくは、ベッドサイドではなく、別の場所で話をするべきだったのではないか、いくつかの後悔が真理を苛む。
子供の高い笑い声が聞こえて、真理は目を覚ます。
カーテンの隙間からは、太陽の光が差し込んでいる。
時刻はすでに黄昏時、あんなに降っていた雨が止んで、外で子供たちが遊んでいるのだろう。
真理はソファーでそのまま眠ってしまっていた。髪はまだ湿っていて、テーブルの上の飲みかけた缶ビールの水滴はすっかりなくなっていた。
ーー白石さん、ごめん
真理は思う。
『そんなの無理に決まってるでしょう?』
あの言葉が心を折ったと思う。
病は気から、そんな言葉が昔からあるけれど、あながち間違ってはいない。
大きく息を吐き、真理は身体を起こす。
立ち上がって、窓のカーテンを開けると、赤い夕日が雨上がりの街を照らしていた。駐車場の水溜まりの周りを跳び跳ねて遊ぶ小さな姿もうっすらと赤く染まっていた。
明日は準夜勤務だ。
ちゃんと眠るため、真理はベッドに潜り込み目を閉じた。
真理の視点から、お届けいたしました。
安藤ちゃんはきっと泣いてばかりで役に立たないから。
ナースあるあるです。
『突然現れた、身内が引っ掻きまわしていく』