探すのは彼氏と血管
お食事中の方はもちろん、そうでない方も気分が悪くなるかもしれませんので、お気をつけください。
始めから、最後までです(;´д`)
「うわわわわわー!」
病棟に響きわたる若い女性の叫び声。とても女らしいとは言えないものだったけれど、その声は病棟のスタッフを呼び寄せるには充分だった。
二年生ナース、安藤優美は病棟にひとつだけある無駄に広い職員トイレからでたところで、その声を耳にした。
何があったのだろうか、声はこの四人部屋の窓側あたり……。
ベッドを取り囲むカーテンに手をかけ、覗き込む。
目に飛び込んできたのは、マーライオン……。
ではなく、ベッドに端座位なっている伊沢さん、87歳の女性。
イレウスの保存的治療目的にて、昨日の準夜に緊急入院。
入院前は施設に入所されており、日常生活動作については、ほぼ全介助。既往症は高血圧、糖尿病、子宮筋腫(手術歴あり)脳梗塞、認知症。
脳梗塞の後遺症にて右の偏麻痺。
認知症については、かなり進んでおり発語は少なく、意思表示はほぼない。
要介護5である。
ご家族様は遠方に姉がいるらしい。
音信不通となっており、身寄りはなく、生活保護を受けている。
その伊沢さんは、緑色の液体を文字通り、噴水のように吐き出している。
バシャーーっ!!!
バシャーっ!
端座位は一人では、安定しない。
嘔吐によって、ふらつくのか後ろに倒れていきそうになっている。
伊沢さんの肩をしっかりと支えているのは、同期の鈴木紗英だ。
伊沢さんの正面に立ち、太ももから下を緑に染めている。
ーーわぁ……。ズボンがゲロまみれ……。
優美は、伊沢さんの口から緑色の液体が勢いよく飛び出し、紗英のズボンを濡らし、床に飛び散る様子を見つめたまま、動けなかった。
紗英の瞳は半分閉じられて、どんよりと空を見つめている。
コキコキと壊れた人形のように優美のほうを見ると、口を歪めて笑った。
「ハハハハ……」
パタパタと声を聞き付けて、スタッフが集まってきた。
「わー!ちょっと?!」
「わわっ!」
「あちゃー!」
「わー、緑の海だねぇ」
おもむろに手袋をはめて、あるものは床を拭き、あるものは伊沢さんを支える。
紗英は着替えなければ、仕事続行不能。即刻退場。
伊沢さんは車イスに移乗し、レントゲンの撮影のため、一階へ。
てきぱきと床やベッドが片付けられ、ここが緑の液体にまみれていたことなど、にわかには信じられない。
紗英は白衣を着替えスッキリとしていて、カラカラと笑う。
「伊沢さん、座らせたら、オエってしだしてね。吐くなって思って避けたかったけど、手を離したら倒れてちゃいそうで。足が生暖かくなってきて、どんどんどうでもよくなったわ」
紗英は同期だけれど、短期大学を卒業後、一般企業に就職し、一年で退職したのちに看護学校に通い、看護師となった。
つまり、優美よりも三歳上だ。
こういうことは、少なくない。同級生の年齢は一律ではなく、五つ、六つ以上年上であることも珍しくはない。
年上だけれども、紗英は気さくに話す。
優美と知り合ったころから、誰にでも明るくさっぱりと接しており、年上であることを感じさせない。学生のころはあまり話さなかったけれど、ちょうど、一年前、外科に二人で配属となってからは、苦楽を共にした戦友。
辛いときも悲しいときも、話を聞いて慰めあい、わからないときも困ったときも、一番に相談するのは、同期だ。
二年生になってからは、あまり勤務が重なることはないが、時折、二人で飲みに行き、だらだらと居酒屋に居座り話し込んでいる。
「ほんとに、緑の水溜まりになってたね。凄かった」
「優美は、ぼんやり立ってるだけだった。あんなに薄情なヤツだったとはっ!」
「……手袋、してなかったし……。あは?」
二人きりの処置室で、ふふっと頬を緩める。紗英が手にしていた駆血帯をヅイっと優美に差し出す。
「薄情な優美さん、ルート確保お願いします?」
「入らなかった感じ?」
「うん、さっきの伊沢さん。右前腕に入ってたのが、漏れたみたいで、パンパン。左は血管、ないし、あっても細いんだよね」
「えー、私のほうが苦手なのにっ!」
「やっぱり、あんたは薄情だ」
「……うっ、わかった。やってみるけど、たぶん入らないよ」
優美は血管確保、静脈留置針を静脈に穿刺し、点滴を持続的に行う。
この処置がいつまでたっても苦手だ。
どうして入らないのか、さっぱりわからない。
正直なところ三割を切っているかもしれない。
ベッドに向かい、伊沢さんの腕をとり、パジャマの袖をまくる。
細く骨ばった腕、かさついていて青い線で描いたような血管が見えている。
所々に青紫の斑があり、痛々しい。もう何度も穿刺を繰り返したのだろう。
細い腕に、きゅっと駆血帯を巻き付ける。
ぺチぺチと軽く手先で叩いてみるものの、血管は全く見えてこない。
ーー入る気がしない……。
優美は大きく息を吐き、駆血帯を外す。
いつだってそうだ、細い血管に針を刺し、外筒だけを留置することは、優美にとってはイリュージョンだ。
くっきりとはっきりと血管が見えているときでさえ、失敗をしてしまうことがある。
はぁと思わずため息がこぼれてしまう。
ーー失敗したら、伊沢さん痛いよね。
ちらりと部屋の前を通りかかった人影、先輩看護師の坂本真理だ。
「さ、坂本さんっ!」
「ん?どうしたの」
足を止めて、ベッドサイドにスタスタと来てくれる。
「点滴が入りません……」
「あぁ、伊沢さんって脱水も進んでるしね。入りにくそうね」
「……代わってもらってもいいですか?」
「うん、わかった。じゃ、安藤ちゃんはこっちお願いしょうかな」
真理は手にしていたいくつかの物品が準備されたトレイを優美に手渡す。
優美はトレイを持って、患者さんの待つ部屋へと向かった。
コンビニの冷やし中華を口に運びながら、優美は患者さんにかけられた言葉を思い出していた。
しかし、どうにも意味がわからない。
ドアを勢いよく開けて、休憩室に入ってきたのは紗英だった。
「あー、お腹すいた!となりに座ってもいい?」
スチール椅子にガタリと座り、はあと息をつく。
「うん、……ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」
休憩室は今、二人きりだ。
優美は紗英に疑問を投げかけてみることにした。
少し声を抑え、紗英に身体を寄せる。
「え?何?」
紗英はカバンの中から、水玉模様の巾着に入ったお弁当を取り出し、ペットボトルのお茶を口に含む。
「カリって何?」
ブーーーーーー!!
紗英は見事にお茶を吹き出した。
それは霧吹きのように見事にテーブルを濡らした。
紗英は口元を抑え、ティッシュを勢いよくつかみとり、口を拭く。
「はぁ?あんた、何を言い出すかと思えばっ!」
「え……」
「何?何なの?一体どういうわけよ?何がどうなるとそんなことになるの?!」
「え……さっき、坂本さんにバルーン留置頼まれて……」
真理に頼まれたのは、上島さんの尿道留置カテーテル。
上島さんは、検査目的で入院。朝までベッド上の安静が続くため、尿道留置カテーテルを行う。
ベッドサイドに行き、ぐるりとカーテンを引く。
「上島さん、おしっこの管を入れますね」
「あぁ、頼むな」
上島さんは、何度か入院の経験があり、この処置もよく知っている。
おもむろに、パジャマのズボンと下着を膝下まで下ろし、ベッドに横になる。
優美は準備をしながら、手順を頭の中で確認する。
ラテックスフリーの手袋をパチンとはめて、右手にはセッシを持ち、左手でそっとソレをつかみ持ち上げる。
ふにゃりと柔らかく、手袋があるとはいえ、少し温かい。
消毒を済ませ、潤滑油を付けたカテーテルをセッシで持ち、尿道口にあてがう。ゆっくりとカテーテルを進めていくけれども、上手く入っていかない。
少し上体を起こした上島さんはちらりと見て
「あー、あかんあかんっ!そんなんじゃ、入らん」
「は?」
「カワヲシタマデメクッテ、カリヲユビニヒッカケテ、ギュートヒッパラナ!」
「は、はい?」
「カリ、引っかけて!」
「は?引っかける?」
「上島さん、失礼しますね」
にこりと微笑みながら、真理がカーテンの中に入ってくる。
手袋をはめて、優美の右手のセッシをとり、「代わろっか」と小さく言う。
優美は後ずさるように、場所をあける。
「お願いします……」
真理の左手は、ソレをむんずとつかみ、ぎゅっと引き上げる。おへそに向かってビョーンと細く伸ばされたソレにすんなりとカテーテルは入った。
管を流れる黄色い液体。
「上手く入りましたよ」
また、真理はニッコリと微笑み、上島さんに声をかける。
片付けよろしくね、と真理は部屋を後にする。
優美だけでなく真理もパタパタと走り回っており、姿を見かけたときに、お礼の言葉をかけることしかできず、疑問を口にすることはできなかった。
そして、休憩室で紗英に聞いてみたのだった。
「カリって何?どういうことなの?」
「……本気?冗談で言うタイプじゃないわよね」
「……何よ?」
「あんた、……彼氏いない歴は24年?」
「ちっ、違うよっ!……きゅ、9年とか?」
「何?その微妙な9年って」
中学三年生の時、同級生と付き合ったものの、自転車での下校を一緒にしたくらいで二人きりで出掛けたこともない。お互い受験があり、高校は別になり自然消滅した。
彼をこの場合、彼氏としてもいいのか、正直迷ったが、優美は小さな見栄を張った。
「……田舎の中学生は、ススんでるの?」
そんな見栄を紗英はバッサリと切り捨てる。
「……ス、ススんでません」
「優美さんは田舎の中学生ですか?」
「……はい……」
「はあ……、で、カリは何ですかってことなのね」
ガラリと休憩室のドアが開き、ふうっと大きく息を吐きながら、真理が入ってきた。
あわてて冷やし中華の麺をすする優美を見て、ニヤっと頬を緩める。
「さ、坂本さんっ!何で笑うんですか〜」
「安藤ちゃんは、上島さんが何言ってるか、よくわかんなかったでしょ?」
「……はい」
「で、鈴木ちゃんに聞いて、この空気なわけね?」
「……お茶を吹き出しました」
「だよね?……まぁ、あんまりガッツリ握りたくないわよね、好きな人でもあるまいし」
「……」
優美はうつ向いて、真理をじっとりと見つめる。
「早く彼氏を作って、どういうことか教えてもらいなさい」
「ヒドイですーー!!」
口の中に入っている麺が飛び出してしまう。
「ハハっ、ググったらダメだからね」
「あぁ、その手がっ!」
「今度、誰か紹介しょうか?」
紗英は呆れたように笑い、優美の肩をポンと叩く。
「お、お願いします」
「そう、そう、安藤ちゃん。伊沢さんの穿刺ってしなかったの?」
真理はカバンからスマホを取り出し、なにやら操作しながら、何でもないことのように言う。
「……はい、入りそうな血管がなくて」
「うーん、それじゃ上手くはならないよ?そりゃ、一回で終わったほうが患者さんはいいけど、回数をこなさないと。代わってもらえる人がいつでもいるとは限らないよ?しかも、裏側と上腕に血管、いいのあったし。血管選びは大事だよ?」
「はい……」
「張り切って、彼氏と血管、探してね?」
「ハハハっ!坂本さん、上手いこと言いますね」
「笑うことないしっ!」
優美は冷やし中華を一気に頬張った。
彼氏はほしいと思うけれど、出会いなんてない。
病院の患者さんは後期高齢者が大半を占めており、当たり前だが、かつ病気なのだ。
やはり、健康は大切だ。
しかも、軽傷の若い男性はあっという間に退院していってしまう。
まぁ、忙しくて仲良くなる隙なんて見つけられたことなんてない。
医師はいるにはいるが、大半が妻子持ちなのだ。
略奪するような気合いはない。
友達に誘われる飲み会で紹介してもらうことはあるけれど、なかなか上手く話が出来ないせいか、この仕事のせいか、次に繋がらない。
普通の人と、普通の恋愛をしたいと思うけれど、普通の人とは、生活のリズムが違いすぎるのだ。
朝起きて夜寝る、土日はお休み。
そんな暮らしから、遠ざかって早一年。
ーーはあ、彼氏も血管も見つかる気がしない。
ぼんやりとトイレに入り、そんなことを考えながら用を足していると、
ガチャリ。
鍵を締めたはずのドアが開いた。
ーーわっ!!開けないでっ!!
無駄に広いトイレは便座に座ったままでは、いっぱいに腕を伸ばしても、ドアに手は届かない。
しかも、真っ最中で立ち上がることも出来なかった。ドアがスローモーションのように開いていくのをなすすべなく見ていた。
「うわわわわわーーっ!!」
ドアを開けた紗英の大きな声は病棟中に響きわたり、その声を聞きつけて、患者さんの急変かと思い、スタッフがパタパタと集まってきた。
謝ろうにも、間違いを訂正しようにも、すぐにはトイレを出ることはできない。
トイレから大きな声で言うしかない。
「すみません!鍵をかけわすれましたー!」
恥ずかしすぎる……。
次の日トイレのドアに、
『鍵をきちんとかけましょう』
という貼り紙が貼られた。