カツラですか?と聞けなくて
楽しんでいただけますように( ´∀`)
「再度、確認ですけど、外せるものはありませんか?時計、ネックレス、指輪や……へ……ヘアピンとか?」
「ありませんっ」
キメの細かいつるりとした頬を少し強ばらせ、手術着に身を包んだ彼はまっすぐに前を見つめる。
優美は手にしているカルテをぎゅっと握りしめ、微笑みを浮かべる。
目を向けてはいけないと思えば思うほど、視線は彼の頭頂部に吸い寄せられてしまう。
ふんわりた浮いた前髪、襟足とは明らかに色や質感の違う毛束は、取り外すことができそうであるけれど、優美は問いただすことが出来ずにいた。
たった一言でいいのだ。しかし、言葉となって出てこない。
助けを求めるように付き添っている妻に視線を向けるけれど、「お父さん、頑張ってね」と不安げに顔を曇らせており、妻にも問うことは出来なかった。
ーーあぁ、無理だ。私には聞けない。
優美は手術室の看護師にどう申し送るかを必死に考えているけれど、デリケートな問題であるがゆえ、本人を前にしてどうすればいいのか、まったくわからずにいた。
急いでいるときは、なかなかやって来ないエレベーターはこんなときに限ってすんなりとそのドアを開く。
手術室に向かうべく、小さな箱の中に乗り込んだ。
首都でもなけば、政令指定都市でもない。加えて県庁所在地でもない地方都市にある市民病院。その診療科目は24科目に及び、入院ベッド数は500を超える。この街では知らない人はいない総合病院だ。
予算の関係で増改築を繰り返した迷路のような院内は、蛍光灯の明かりがついていても暗く、空調が大きな音をたてて動いていてもよどんでいる。
七階南の外科病棟のナースステーション、外は明るい日差しがきらめいているにも関わらず、無機質な蛍光灯の光に包まれている。雑然としたデスクにはパソコンが並び、白衣に身を包んだスタッフ達がじっとその画面を見つめている。
二年生ナース、安藤優美は予定の時刻となっても来棟しない入院患者を待つ間に電子カルテを見て、事前に情報収集をしておく。
外来受診時に入院、手術が決まり次第、細かな入院オリエンテーションが行われる。けれど、患者さんは、病気の告知を受け、手術が必要であるという事実を受けきれないことも多い。そういった戸惑いや驚きの中で話される膨大な説明を理解し把握することなど、不可能なのかもしれない。
優美はパソコンから視線を上げて、ナースステーションから廊下に並ぶ窓を見る、空は青く白い雲がポカリポカリと浮かんでおり、遠くに見える山の稜線はぼんやりと霞んでいた。
「安藤ちゃん、入院さん見えた?」
病棟師長の前川が細いスチールフレームのメガネをツイと持ち上げ問いかける。
「まだ、見えないです」
「外来では10時に七階南病棟に来るように話してあるはずだから、一時間たっても来ないなら、連絡してみてね」
「はい」
「どうしたのかしらね。渋滞してるのかしら?」肩の辺りで切り揃えられた髪をクルリと耳にかける。
前川師長は、ナースステーションの窓口にちらりと視線を向け、にっこりと微笑む。優美も窓口を見ると男性がツカツカと肩を張って歩いてくる。
「今日から入院の相川だけど、個室ある?」
「おはようございます。私は、病棟の師長の前川と申します。よろしくお願いいたします。相川さんですね。申し訳ありません、今、個室はすべていっぱいです」
「えー、外来で言ってあったはずだけど」相川と名乗る男はあからさまに顔をしかめる。
「はい、個室のご希望は伺っております。個室は重症の患者さんが優先となっておりますので」
「俺だって、胆石の摘出手術だよ?十分、重症でしょう?」
「そうですね、もちろんです。ですので手術の後、一番大変なときには個室を用意させていただけるとは思います。個室の数に限りがありまして皆さんにご協力をいただいております。ご理解いただけますか?」にっこりと微笑み、ありがとうございますと言葉を添える。
「安藤さん、お部屋にご案内してくださいね」
「はっ、はい」
優美は立ち上がり、ナースステーションを出る。窓口の前に立っている相川さんを大部屋に案内する。
後で話を伺うことを伝え、いったん、ナースステーションに戻る。
「し……、師長さん……。もしかして、もしかすると……。」
優美はおもむろに、自分の頭に手をのせる。
「うふふ、見ちゃダメって思えば思うほど目がいっちゃうわ。開口一番に個室かどうか確かめちゃうわよねぇ。大部屋じゃ気が気じゃないでしょうね」
「ラパ下の胆摘で個室大丈夫なんですか?」
疾患の重症度、手術の難易度から考えると腹腔鏡下での胆嚢摘出術はごく軽症となる、個室の優先順位は低い。
「うまい具合に、退院があるのよね」
髪を耳にかけて、師長さんはにこりと微笑みを浮かべる。
個室は入院費とは別途、個室料金が加算される。経営面でなるべく個室の空きは作らないように通達がある。
定期の入院、緊急の入院、いつも順調とは限らない患者さんの退院、それらを見極め、かつ空床を作らないように他科の入院を受ける。師長業務であるベッドコントロールはもはや、優美にしてみれば神業である。
書類を整え、相川さんの病室に向かう。
入院までの経過、既往歴の聴取、入院、手術についてのオリエンテーション、クリニカルパスの説明、話すべきことはたくさんあるにも関わらず、相川さんはなかなか、優美に話をさせてくれない。
「俺さ、出張で海外とか行かされるわけよ。嫌だって言っても、若いヤツには任せておけないことだってあるし、いや、俺だって、できることなら若いヤツにもいろいろ経験させてやりたい気持ちはあるよ?でもさ、やっぱ、上司に行ってくれって直で言われたりしたら、断れないもんなんだよね。看護婦さんって出張とかないからわかんないと思うけどさ」
思うように会話のキャッチボールが出来ない。優美の質問とは異なる返答が長々と続き、優美はそれを遮ることができなかった。
「はあ……、大変ですね。……話を続けてもいいですか?手術室に入るときは、身につけていて外せるものはすべて外します」見てはいけない、彼の頭に意識は向かうけれど、優美は必死に微笑みを浮かべ、手元の用紙に視線を移す。
「……え?手術室には歩いていくの?何かに乗せて行ってくれるんじゃないの?」
「あっ、はい。歩いて行きます」
「えー、テレビとかじゃ、ガラガラーってベッドに乗って連れていってくれるじゃん?」
「は、はぁ、……歩いて行きます」
相川さんのテレビから入手したと思われる疑問や、彼の日常生活の不満や自慢をたっぷりと拝聴し、優美はフラフラとナースステーションに戻る。
「安藤ちゃん、アナムネに時間がかかりすぎ」
パソコンに向かったまま、先輩ナース、坂本真理は優美に声をかける。
「すみません」
「そんなんじゃ、夜勤のときの緊急入院、他のスタッフに迷惑になるから、早く取れるように意識しないと。いつでもフォローしてもらえる立場にはいられないよ?」
「はい……」
「で?やっぱり、ヅラだった?」真理は一変して、イタズラっぽく頬を緩める。
「さっ、坂本さんっ!やっぱりアレはカツラですよね?私、カツラですか?とは聞けないです。もしかしたら、違うかもしれないじゃないですか?違ったらすごく失礼だし、あの人、絶対キレますよ!」
「えーー、あれはヅラでしょ?」
「何て言えばいいんですか?手術室に行くとき、ちゃんと外してくれるかな……、被ったままじゃだめですよね?」
「ピンとか金具がなければ大丈夫だけど、普通に言えばいいんじゃないの?外していきますよーって?」真理は笑ったまま、ショートボブの髪を持ち上げる。
「私には無理ですー!坂本さんが言ってくださいよっ」
「ハハハハっ!安藤ちゃん、修行だね?」
「無理ですーって」
「まぁ、安全面からいっても、金具はまずいからね。大事なことだよ?」
「はい……。」
優美はやっぱり、どうすればいいかわからなかった。
手術の日を迎え、幸か不幸か、優美が相川さんを手術室に案内することになった。
ーーなんで早出、私なんだよ……。
9時からの手術室への案内は早出業務だ。早出は月に多くても二回ほど、優美は大きくため息をつく。そして、もしかしたら誰かが突っ込んでくれているのでは?という小さな希望を胸に、相川さんの部屋へと向かう。
しっかりと相川さんの頭にのっているのは明らかに質感の異なる毛束……。
問いただすことが出来ないまま、優美は手術室に向かう。
ーーあぁ、どうしょう……。
手術室では、手術室の看護師が手術を担当する。患者さんを前にして確実に引き渡し申し送りをするのだ。
手術室の看護師も電子カルテを確認するし、術前のチェックシートという記録を申し送りを簡単にするために事前に記載することが決められている。
ーーカツラかもしれないですが、確認できてません……とか?……言える訳がない。
優美はエレベーターの中で、嫌な汗が背中を流れ、腋を濡らす。
「こちらになります」
「あぁ」
言葉が少なく緊張で顔を強張らせている。
二重の自動ドアの向こうにはすでに手術室の担当看護師がいた。
「相川さんですね。よろしくお願いいたします」にこりと微笑み、入室に伴う確認事項を述べる。
「こちらにどうぞ」
看護師が介助しながら、幅の狭い手術台にゆっくりと腰をかけて、相川さんは横たわる。
もう一人の看護師から声がかかる。
「申し送りをお願いします」
「はいっ、あ、あの……」
手術台から優美までの距離はわずかに、二メートル。とくに騒がしくもない室内で優美の声が相川さんの耳に届かないわけがない。
「チェックシート、見ました。導入後、確認します」
手術室の看護師はニヤリと笑う。片方の眉を器用に上げて、優美の頭を見る。
それで充分だった。
ーーあぁ、伝わっている!!!
優美はほうっと息を吐き、申し送りを済ませ七階南病棟にかけ戻る。スキップをしそうになる足を抑える。
「さ、坂本さんっ!手術室の看護師が導入後、確認してくれるそうですっ!」
「安藤ちゃん、なぜ手術する患者さんはヘアピンなどの金属類を外す必要があるか知ってる?ちゃんとわかってる?」
真理はパソコンから目を離すことなく、手元の輸液リストを確認しながら、喜び勇んでナースステーションに飛び込んだ優美に声をかける。
「……」
「それがわかっていないと、患者さんを説得することなんてできないよ?」くるりと椅子を回して、優美に視線を向ける。大きな切れ長の瞳は、少し色素が薄く、長い睫毛がパサリと音を立てる。
「……はい」
「昼休みに、ちゃんとググっておきなさいね?」
「ググって……。坂本さん……」
「いい時代よね、わからないことはなんでもすぐに調べられるんだもん。それから、患者さんを前にして言えないようなことは、チェックシートに記入するの、思い付かなかった?」
「……はい」
「じゃ、ちゃんと覚えておいてね。さ、手術後の部屋の準備しておいで」
「はい」
カツラかどうかと問えなかったことが問題なのではない。
患者さんには安全に手術を受けることができる権利がある。それは守られるべきであり、看護師が脅かしてはならないのだ。
自分にできないのなら、それを誰かに依頼する。できないことを出来ないままにしてはならない。
お昼休みに、スマホは優美に教えてくれた。
電気メスの原理とともに。
「安藤ちゃん、相川さんの手術が終わってね。今、戻ってきたところなの。術後の観察、お願いね」
「はい」
優美は相川さんのベッドサイドに向かい、カーテンをそっと開ける。
「相川さん、お疲れさまでした……」
ーーズレてます!!!
左の側頭部にふんわりとボリュームのある質感と毛色の異なる毛髪。
手術前と髪型が異なり、明らかに額は後退し、右側頭部の毛髪は心もとなく、地肌をさらしている。
優美は言葉に詰まり、視線を泳がせ、頬がひきつるのをこらえることが、できている気がしなかった。
今から何度も術後の観察のためにズレたかつらを被る相川さんの姿を平常心を保ったまま、見ることができるのだろうか。
優美の戦いは、まだ始まったばかりだ。