16話
『――iw――――kx―――――a―hs――――lrrv――――――』
時折、これは夢だと確信できる夢を見ることがある。
今がまさにそれだ。
僕はいつからか、ずっとそこに立っていた。
夢の中は『時間』と言う感覚がとても曖昧になるけども、しかし僕はもう既に何時間、何日、何年もそこにいるような気がする。
そこは見渡す限り何も無い『夜』の場所。見えるのは直線の水平線のみ。
足元は、僕を始点に広がる波紋を作る、無限に広がる『湖』。ここを『海』ではなく『湖』と感じたのは、やはり夢だからだろうか。
その水面に映る、満天の星空と現実の数倍はあろうかという巨大な、鎖に縛られた歪な満月。しかし空を見上げても、そんなものはどこにも無い。
……つまり――星があるのはこの水面の下? それともこちらが水の中にいるのだろうか。
幻想的で、しかしユメであると認識しているという現実感。
広大でしかし限りなく狭いユメの中。
そのユメの片隅に。
――小さな、ヒビが入るのが見えた。
「ん……」
目が覚めると朝だった。
窓を開けていたからか、カーテンが風で開いて朝日が差し込んできている。その光がちょうど僕に当たり、つまりこれが僕が起きた原因か。
「なんだか変な夢を見た気がするけど……。なんだったんだろう」
確か、まだ残っているイメージとしては『夜』と『湖』と――あとはなんだったか。
「何か気にるけど、夢判断なんてそんな技術は持ってないしなあ」
まあ、夢は夢でしかないだろう。そう思い、これ以上夢のことは考えないようにした。
時計を見ると、目覚ましが鳴るまで後三十分ほど。
「二度寝をするっていう時間でもないしなあ。起きよう」
ベッドから降り、寝巻きを脱ぐ。
そのままシャツを着ようとして、ブラを付け忘れていることに気がついた。
「…………」
いまだこれを着けることに抵抗があるのは良いことなのか、悪いことなのか。なんとも言えない気分になるなあ。
まあ今はそんなことを考えても仕方が無い。
少し苦労しながらそれを着け、制服に着替える。
シャツと上着を着てリボンを締め、スカートを装着。制服が全体的に大きいので、鏡で見ると余計に体が小さく見えてしまった。……見るんじゃなかったあ。
次に靴下、もといニーソックスを穿いてから、最後にスパッツを穿いて着替え完了。
化粧は……ま、化粧水ぐらいでいいか。何とかクリームやらジェルやら、種類が多すぎて全然わからないし、とくに気にしてるわけでもないから放っておこう。後で母さまに怒られそうだが。
つか、学校では化粧禁止って校則にあるんだけどね? どこまでが化粧の範囲に入るかわからんし、誰も守りゃーしてませんぜ。
さて――今日はどうなることやら。
家を出ると、ちょうど桜火が来るところだった。
いつもより早い時間に起きている僕を見て軽く驚いていたが、すぐに気を取り直して学校に向かう。
いつもより時間が早いためか、普段とはどこか違う町並みに見える。緩やかな、久しく感じていなかった静かな時間。
その途中で、桜火が突然妙なことを聞いてきた。
「―――で『それ』はやっていけそう?」
「『それ』って……ああ、僕の体のこと」
桜火は軽くうなずく。
それ以上何も言わないところを見ると、どうやら僕の答え待ちらしい。
僕は何か答えようとして、しかしそれが意外と難しいことに気が付いた。
「うー……ん。なんて言ったらいいんだろうね」
「難しく考えなくていいのよ。適当で」
つまり具体性が無くともいいらしい。
それなら、
「適当か……そうだね、ぶっちゃけて言うと、僕の気分次第かな」
「気分次第って……ずいぶんいい加減ねえ」
うわ、無茶苦茶呆れられた。適当でいいって言ったの桜火なのに。
「い、いや気分次第って言っても悪い意味じゃなくて。……結局のところ、これは僕が女この子に慣れるか慣れないかだからね」
「あれ、そんなに簡単?」
意外そうに言う桜火。確かにそれだけ言うと簡単みたいに聞こえてしまうかな。
「慣れると言っても、その慣れることが多いんだよ。まず自分の体を鏡でちゃんと見れるようにならないと」
「あ、まずそこから始まるの」
「他にも下着を着たりスカートにも慣れないといけないし、まだまだ遠いよ」
僕の溜息は朝の空気に溶けていく。最近ほんとにため息増えたなあ。
と、何故か隣の桜火までため息をついていた。なして?
「んー、ん? まあ、あれよ。複雑な乙女心ってやつ?」
「何故そこで疑問形……」
「うっさいわね。……ま、気分が乗ったら教えるわ。十年後ぐらいに」
「遠っ!」
教室に入ると、まだ来ている人はほとんどいなかった。まだ早い時間だし、部活の朝練か単純に来ていないのだろう。
そう思っていると、僕らに気がついたクラスメイトが話しかけてきた。
「はろ~、みい君。後ついでに桜火ちゃんも」
「乃木さん。おはよう」
「あ、はる。おはよー……って私はついでか!」
「あはは、じょーだんだよ~。……たぶん」
笑いながら桜火と追いかけっこを始めた彼女は、乃木はる。
桜火の友人で、昨日僕で遊んでいたうちの一人だ。明るい性格で、『はる』っていう名前がピッタリあっている。良い意味でも悪い意味でも。
「うにゃー、エライ目にあった。……ん、おりょ?」
最終的にヘッドロックをかけられた乃木さんが、何かに気がついたのか僕の顔をまじまじと見てくる。
な、なんだろう。どこか変なところでもあったかな。桜火も何事かとこちらを見ている。
そのまま十数秒前後左右からじっくり観察された後、
「みい君って……今化粧してない?」
第一声がそれだった。
「はい?」
思わず間の抜けた声が出たが、それに構わず乃木さんは詰め寄ってくる。
「だから化粧。言い換えるとメイクアップ。見た感じしてないっぽいけど、どう?」
「え、えーと。今日は化粧水ぐらいだけど」
「き、基礎化粧を省いてもこのお肌だとは。強い……強すぎるぜよみい君……! おー、あーる、ぜっつ!」
相変わらず朝からテンション高いなこの人。うちのクラスこんなんばっかだな。
「桜火は謎パワーで紫外線やら脂肪やらから守られている外道とは知っていたけど……! まさか、みい君まで敵だったとは」
「おいこら誰が外道よ」
「え、ええー……」
「くっ、このワタクシが毎朝毎晩必死になっているのにこの余裕……! お、おぼえてろよ、主に体育の時間!」
「ええーっ!? 何か悪いことした僕!?」
その後も予鈴が鳴るまで脊髄反射で出たようなセリフと、どこかの三流劇団並みのリアクションに付き合わされた。




