プロローグ
はい、かなり唐突ですが――僕の人生、終わりました。詰みました。
いやもうね、もうですね?
人生山あり谷ありとは言うけれども、いくらなんでも落とし穴は酷いのではないでしょうか。しかも無駄に巧妙すぎて分からないタイプの。
どこでどう間違えたか確認しようにも、何の前触れも無く足場が崩れてしまえば、後悔のしようもない。
ああ、うん。
念のため言っておくけど。人生が終わった、と言っても別に犯罪をしたわけでも、多額の借金を抱えたわけでも、ましてや死んだわけでもない。それどころか最近は、子供を助けて感謝されたり、わりと高額の宝くじが当たったり、生まれつきの体調不良が完治したりと。まあ、悪い事は起こっていない。
が、それでも僕の人生は終わった、としか言いようが無いのだ。
一言で言うなら死にくされ神様。
そして今、僕はさらに穴の奥深くへと落ちようとしている。
目の前には一枚の扉。
普段は何気なく利用していたはずの扉。それが某戯曲の門にしか見えないのは気のせいじゃない。
……つまりここが最後の(精神的)防衛ライン。
この扉を開ければ僕は、もう後戻りは、
「――で、どうでもいいからさっさと教室に入れ」
と、僕の横から本当にどうでもよさそうな、心底呆れたような声がかかった。視線の端に、妙齢の女性。日本刀のごとく鋭い目は、今は眠たげに細められている。
「……どうでもよくないですよ、先生。なんですか、この扉越しでもわかる悪意というか妖気というか、兎に角とても邪悪な気配は。なにか瘴気が滲み出してきている気がするのですよ?」
「おいおい、うら若き少年少女の妄想を、邪悪だの瘴気だのと言ってやるな。一応、クラスメイトだろう? いきなり捕って食われることはないだろうさ」
いや妄想の時点でおかしいだろう。
隣の宮嶋先生は火の点いていないタバコを口にくわえながら、どこか面倒臭そうな雰囲気を漂わせている。
ようやく通い慣れてきたはずの校舎。そしていつも何気なく開け閉めしていた教室の扉。
今では校舎は処刑場に、扉は十三階段行きの門にしか見えないのですが、どーしよーか。
「しかしまあ、扉越しに伝わる気配ってあるものなんですね。〝天詩〟憑きの人は気配が一般人より濃くなるとかは聞いたことありますけど」
「はん。どうせそいつのソースは三流雑誌やネットの掲示板だろう。天詩の解明は昔から行われてきたが、未だによく解っていないのが現実だ」
それはともかく。
「で、だ。いつまでも逃避して教室に入らないわけにはいかないだろう? まあ気持ちはわかる―――訳がないが、同情ぐらいはしてやるからさっさと覚悟を決めろ」
なんて薄情な。同情するぐらいなら幸せがほしいですよ?
そんな僕の願いを無視して先生は無情な言葉を言い続ける。
「そんな体になったのは確かに不幸といえば不幸だが、見方によっては幸運だぞ? 少なくとも、見た目は以前よりも今のほうが千倍良いんだ。変にグロテスクになるよりマシだと思え」
「どっちもどっちですよう……ってか前の自分が完全否定されてません?」
それはともかくリプレイ。
―――そう、僕の体はとある事情によって、以前とはまったく変わってしまったのだ。
確かに先生の言うように人外の化け物みたいになってしまうよりかは、かなりいい方だろう。だが、今それとこれは別問題だ。こちらはマトモだからこそ問題がいろいろと出てくる。
先生は目を細めてニヤリと笑う。
「まったく、見た目は変わっても中身は変わっていないか。いや、見た目通りになったと言ったほうが正しいな。くくく、後で保健室に来るか? 色々と教えてやるぞ?」
「先生それ最悪です」
たまに思うがこの人ほんとに聖職者か。
「うう……」
廊下を通り抜ける風が異様に冷たい。
そして僕の心には、絶対零度の風がハリケーン並みに吹き荒れ、色々と吹き飛ばし、蹂躙しております。あ、なんか理性の壁も破壊されそう。
……だめだ、これ以上現実逃避すると本気で還ってこられなくなる。
腕時計で時間を確認すると、ここに来てからわずか五分。
長い間ここで立っていた気はするのだけれども、まだHRが終わってすらいない。
このまま時間が過ぎるのを待っても良かったが、それは問題の先送りでしかないだろう。
――いい加減、覚悟を決めるしかなかった。
「すぅー……はぁー……」
普通の深呼吸のようで、少し違う呼吸法。
昔、母さまから教えてもらったものだ。確か何かの舞の呼吸法だか何かで、精神を集中させるためのものである。
一呼吸、二呼吸と、だんだん気持ちが落ち着いていく。
後ろの先生から無言の催促が来ているけど、これぐらいは許してほしい。いやマジで。
「……っ!」
気合を入れて扉の取っ手に手をかける。後は横に力をこめるだけ。
僕はもう一度大きく息を吸い、
思い切り扉を開け放ち、
教室へ一歩を踏み入れ、
――この世界を本気で呪った。
連続で起こる大量の閃光と電子音、ついでに軽めの破裂音。
一瞬、僕にはそれらが何か理解できなかった――というかしたくなかった――が、徐々に周囲の状況を把握する。してしまう。
閃光はカメラのフラッシュ。
電子音は携帯のカメラの音。
破裂音はクラッカー。
それらが終わった後には、しん、と静かな空気が流れた。
誰も何も言わない。
時間が止まったと錯覚するぐらい静か。
そんな微妙な、微妙としか言いようのない間が少しだけ流れ――
で、その後に来るのは大歓声だった。
『うおおぉぉぉおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおぉおぉぉぉ!!!』
カメラや携帯を構えていた生徒たちが、今度は全力で絶叫していた。いやもうそれは学校どころか半径一キロは響き渡ったんじゃないかと思うぐらいの音量だ。
なにがなんだか理解できずに僕が呆然としていると、あっという間に手をつかまれて教室の中心に連行された。なんとなくライオンの群れの中に投げられた生肉を想像したが、間違いではないと思う。
あ、ちょ、先生見てないでたすけ
「きゃぁああああ! かぁーわぁーいぃーいぃー!」「すっげぇー! マジで鳩羽か!?」「お人形さんみたい! 持って帰っていい!? というか持って帰るわ!」「はあ、はあ……!」「いや、私が先だ! 家でじっくり堪能してやる……!」
「ちょ、ちょっと――」
「変わりすぎってか、これはいくらなんでも反則だろ!?」「おおおお、おち、おちつけみなのもの!」「お前が落ち着け。まあ言いたいことは分かるけどな! この可愛さなら!」
「だから待っ――」
「俺にもまだ写真撮らせろ! まだ20枚しか撮ってねえ!」「肌も白くてすっごく綺麗! うらやましいじゃない!」「はあ、はあ、はあ……!」「後でウチに来ない!? かわいい服とか綺麗な服とかアレな服とか色々あるから!」
「い、いい加減に――って痛い! 押さないで頼むから!」
人、人、人の大群が僕一人に迫ってきているので、それはもう大変なことになった。というかたまに不審な発言をしているのは誰だ。
なんとかして落ち着けようとしても、クラスメイトほぼ全員を一人で沈静化させるのは無理だ。
ならばと、この騒ぎに参加していない人に助けを求めようとはしてみた。が、先生は我関せずと窓際でタバコを吸っているし、幼馴染は教室の端っこで何故か頭を抱えているし、クラスの委員長は遠くからこちらを眺めているだけ。友人も片方は自分の席で暢気に読書なんぞしているし、もう片方は……あ、よく見たらこっちの騒ぎに参加してやがるこの野郎。
―――ああ、なんて世の中超無情。
思わず涙がほろりと零れる。
いっそこのまま気絶するか、または窓から飛び降りたほうが楽ではないだろうかと思い始めたとき、僕から少し離れた位置からひときわ大きな声が上がった。
「よし皆よ、今はここまでだ! 後にも時間はあるから一旦静まりたまえ!」
咄嗟に後にもあるのかとツッコミを入れたくなったが、しかしそのおかげか、皆はだんだん落ち着いていった。
そして、そのやっと理性が(半分ぐらい)戻ったクラスメイトの間から歩み出てきたのは、このクラスの煽り役というか暴走機関車の機関部分というか爆弾の火薬というか、言ってしまえば大抵の騒ぎの元凶だ。
あだ名は隊長。
本名は―――忘れた。
彼に〝天詩〟が発幻していたら、さらにマイナス方向に手が付けられなくなっただろうが、さすがに天は二物を与えなかったらしい。……あれ、使い方なんか違う?
「……ふふ。おはよう、鳩羽君」
「……おはよう」
どうやら彼はテンションが変な角度で上昇しているらしく、先ほどから口調と仕草がおかしい。頭は元からおかしいのだが、今はさらに螺子が外れているようだ。
見ようによっては、まるで酒でも飲んで酔っ払っているようにも見えなくはないが、いや、間違いなく酔っているとしか見えない。勢いとしてはピッチャー二杯ぐらいで。
なぜなら、
「……なしてタキシード着てるの?」
ここは学校。制服はどうした貴様。
これで似合っていなかったら笑うことも出来たかもしれないが、残念ながら無駄なぐらい似合っている。頭はアレだが、顔は美形と分類される方で、何もしなければ人気はあるというお約束の人種だ。
僕の疑問を無視し、彼は唐突に一人で話し始める。
「すばらしい、すばらしい朝だ。まさにビューティフルゥ。ま・さ・に・エゥレガントォ! ああ、今日この日は歴史的な記念日になるに違いない。そうとも、そうともぉ! まさに太陽が北から昇りそのまま上昇して太陽系離脱を果たすぐらいには! そうは思わないかね!?」
……壊れたか?
いっそ、このまま放置してもいいかもしれないが、長時間このテンションにつき合わされるのはいい加減精神的につらい。
だから僕は単刀直入に彼に聞くことにする。
「あの、それで用件は……?」
僕が言うと、彼の妄言と怪しい挙動はピタリと停止した。
これ以上何をする気だ、と思ったが、彼は急に真剣な顔つきになり、僕に向き直る。
「鳩羽みい君」
いきなりフルネームで名前を呼ばれ、戸惑う。
「な、なに?」
彼は一度目を伏せ、そのまま方膝をついた。
そして自らの手で僕の右手を持ち上げるように軽く掲げる。
彼は目をゆっくり開け、僕の目を見て、言う。
「結婚してくださ―――」
最後まで言わせなかった。
「せやっ!」
まず、大きく前に一歩踏み出し、膝を体ごとかち上げて、真下から顎を捉えた。
穿いていたスカートが捲れるが、スパッツは装着されているので、気にする必要はない。しかし未だにこの感触には慣れないが……それどころではないので我慢、我慢。
大きく仰け反り、がら空きとなった胴体中央。着地し、すぐさま構えを取って、捻りを入れた拳で叩き上げる。
二連で快活な打撃音が感じよく響く。
すでにこの時点で彼の意識は飛んでいるだろうけど、僕はまだ止める気はなかった。……つーかこのまま殺る気ですが何か。
更に上方に伸びた彼に勢いのままに足払いをかけ、宙に飛ばす。さらにそこに腕を掴んで捻りをいれ、回す。
僕の腰あたりを舞ったところで手を離し、そのままの勢いで彼を下から蹴り上げる。丁度よい高さに来たところで右ストレートを放ち、今度は体を縦に回転させた。
そして軽いバックステップで少し距離をとり、未だ宙を飛んでいる彼の即頭部をロックオン。
「せーの」
一呼吸の後に、勢いと体重と鬱憤とその他諸々を込めた回し蹴りを食らわせた。
なにやら直撃した彼の首の辺りから鈍い音が響いたが――ち、予想より小さい。もう少し加速をつけてもよかったかも。
そんな彼が飛んでいった先には――ゴミ箱。
衝撃及び爆音とともに頭から勢い良く突っ込む。ゴミ箱の強度が心配だったが、意外と丈夫らしい。
そのまま飛び出した足は二、三度痙攣して、それきり動かなくなった。
「……ふう」
とん、とん、と急な運動で火照っている体を落ち着かせるために、軽く動かす。
――やはり、体の調子がいい。
少し前だと最初の膝蹴りすら入れられなかっただろう。恐らく動いた直後に貧血で、僕が保健室に行くはめになっていたはずだ。
それが、これほど体を動かしても汗一つかかないで済んだのだ。
ちなみに周りにいたクラスメイトがドン引きしていたが、もうどうでもいい。
「気は済んだが?」
振り向くと、いつの間にか先生が横に立っていた。騒ぎが静まったから、というよりタバコを吸い終えたから来たらしい。先ほどまで銜えていたタバコが消えている。
ここ禁煙ですよ、っていうのはこの人には無意味な言葉か。
「……一応」
「なら、授業を始めるぞ。すでにHRは終わってしまったからな」
時計を見ると、確かに一限目が始まっていた。
「はあ……」
ここ数日で激増したため息をつくと、自分の席に座る。ひんやりした椅子がとても心地よかった。クラスメイトも自分の席に座り、授業が始まる。
誰も未だに足の生えたゴミ箱に目もくれないのは、いつものことだ。
「はあ……」
またため息をつき、自分の体を見る。
変わってしまった体。
以前とは違い己の思い通りに扱え、先生曰く見た目もいいらしい。
だけど。
見下ろした先、胸の辺りにある柔らかな二つのふくらみ。
未だ慣れないスカートとスパッツ。
あと見えてないところで男の尊厳というかなんというかの不在。
それが以前の僕とは違うところ。
「はあ……」
まあ要するに。
僕は男の子から、女の子になってしまったとさ。
……夢であって欲しかった。
「鳩羽、溜息つくなら外でつけ。幸せが逃げるそうなんでな」
「いや先生が逃しているのは婚期――ってあいたぁ!」




