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「一恵」
喧騒の中、懐かしい声を聞いたような気がした。
……智春……? ま、まさか……。あの子がわたしを呼ぶなんて……。
わたしは顔を上げて声の主を探す。
そんなに混雑しているわけでもない車内では、人の顔は容易に見渡せる。
ふたり掛けのイスの真中に、どすんと腰掛けている太った男性。
反対側の出入り口付近で、新聞に見入ってる女性。
その近くには、制服に身を包んだ高校生が、手すりを掴み起用に居眠りしていた。
どう見ても、この中に彼女の姿はなかった。
そうよね。あたりまえじゃない……。わたし、なんで智春を探してしまったのかしら。ばかみたい。
……残業続きで、頭がおかしくなったのよ。
入社して間もない子に、どーして大切な伝票を書かせるのかしら。
高ノ居さんって、意地悪。どこが、気さくでいい子なんだろう?
『短大卒なら、軽いわよね』って、学校ではそんなこと勉強するわけないじゃない。
課長も、それで『じゃあ、頼むな』だなんて、ひどいわ。
「一恵」
……また?
わたしは、もう一度顔をあげる。手すりをぎゅっと、強く握った。
できない。また、後ろを向いて他の乗客の顔を見ることなんて……。もう、わたしはそんな勇気なんてないよ。
きっと、幻聴に決まっているわ。疲れがたまっているのよ。
『智春ぅー。一恵ってあの子でしょう』
『そうよ』
『ふーん。あんなのがねぇ』
や、やめて……。思い出したくもないのに。
こびリつく記憶の残滓を振り払おうと、わたしは軽く頭を振った。
もし、ここに智春がいたとしても、わたしに声をかけるはずもない。
短くため息をつき、わたしは車窓から夜の街をぼんやりと眺めた。
街の明かりと重なって、窓にはわたしの顔が映る。
あのころとはまったくちがう、くすんだ表情の自分が……。
ふと、記憶の端をひとりの少女がかすめた。
美しく、自信に満ちた少女。なにもかも恐れずに、幸せに微笑むことができる 娘。
恋人の腕の中で、安心して甘えていた少女。
それは、まぎれもなく高校時代のわたし……だ。