恋愛作家の秘密
インジ=ハシ=ユチイは人工生命である。
フラスコという狭い世界から出る自由を持ち合わせない代わりに、久遠の命を持つ生き物だ。その寿命がいつ尽きるのか、知る者はいない。
小雪の降る中、チビスライムを連れて現れたその男は幾星霜を越えて年老いていた。
「あんたはちっとも変わんないなあ」
彼は変わった。初めてミクスーを訪れたときは、まだ年端も行かぬ子供だったのに……そう、祖父の背中に隠れてこちらを窺っているチビスライムほどの。
彼と同じ歳月を刻むことのない不変の体が憎い。
「久しぶりね、ツンニーク」
声音が少しそっけなくはなかっただろうか。
気にするイカケに、スライムの外皮が大きな笑いを象った。
「そうやってクールなところも、昔のまんまだ」
彼が連れてきたチビスライムこそがその名を継ぐ者、イカケ=ハ=ツンニークⅢであった。
「ふうん、このチビちゃんがねぇ?」
フラスコの中で値踏みするように揺れるピンク色の液体相手に、ちびっ子はぷよっと背中を丸めて威嚇する。
「ばばあ、こっち見んなっ!」
「あら、可愛い」
ピンク色がこぽりと揺れた。
「照れ屋で気ばっかり強くって、まるで昔のあんたみたいね、ツンニーク?」
「わしはこんなに生意気だったかなあ?」
大きなスライムはいかにも不服そうだ。形の定まらない体をぷよぷよと伸び縮みして抗議する。
「何言ってるの、あんたの反抗期なんか、もっと生意気だったんだからね」
「いつまで子ども扱いなんだよ、わしは」
べちゃっと蹲った姿はいじけているのだろうか。インジはますますの笑顔をフラスコの中から投げる。
(子ども扱いでもしていないと……)
ついうっかり胸のうちをこぼしてしまいそうだ。
かなり前から、彼はインジにとってたった一人の『愛する男』なのだと。
インジの恋の誤算は、戦災孤児であるスライムを引き取ったことから始まった。
彼の家はツンノーンの地下に眠る『大いなる福音』を守ってきた旧家。幼くしてその家の当主となった彼にはまだ学ぶべきことが多く、それを教えるのに適任なのは、生まれもって全ての知を内包する人造人間しかいなかった。しかも既に絵草子作家として成功していた彼女には経済的な余裕もある。
始まりはただそれだけのことだ。
だが連れてこられたスライムは、やんちゃで生意気な盛りだ。インジを一目見ると、口唇液の中に悪態を噛んだ。
「ち! 若作りのばばあか」
もちろんインジ大先生がそんな小童になど負けるわけがない。
「んんんんん? よぉく聞こえなかったなあ。もう一度言って御覧なさい?」
華やかな女声に隠されたたっぷりの殺意……チビスライムはこの瞬間、『女性の真の怖さは優しさの裏にあり』という教訓を身に沁みて感じた。
「そういう口を聞く子は女の子にもてないわよぉ? いらっしゃい。私があんたを世界一モテる男に育ててみせるっ!」
こうして恋愛絵草子の大家に英才教育を施されたのだ。いい男に育たないわけがない。
「なあ、センセ?」
声変わり期特有の不安定な音の揺れ。甘えて擦り寄るような声に、インジは震えをこらえるだけで精一杯だ。
「バイト、してもいい?」
「おねだりは普通にして頂戴!」
「ええ? 普通にしてんじゃんよ」
ぷくっと頬液を膨らませた愛くるしい姿は親しい者にしか見せない。表では優秀さと生来の男気でリーダーシップをとるカリスマだというのに……
「大体、学生が何でそんなにお金が必要なのよ?」
「ああ、えっと……参考書を買うんだよ?」
わざと見抜かれる嘘をついてツッコミを待つユーモア感。この話術は人間関係を潤滑にするテクニックだ。
「あのねえ……私には効かないわよ。そのテクニックを教えた本人なんだから」
「厳しいなあ」
「ちゃんと、正直に言いなさい。必要なお金ならいくらでも出してあげるから」
「それじゃ、ダメなんだよ。あんたにプレゼントを買うんだから」
ぷるりと揺れていた生き物が、姿勢を正した。
「後数年もしたら、俺、自分で稼げるようになるんだぜ? いい加減、子ども扱いは止めてくれよ」
「そんな生意気な口をきいているうちは子供だと思うわよ」
「ちぇ、つれねぇなあ」
当たり前だ。自分はこの子の保護者なのだから、ついうっかり作り上げてしまった『理想の男』によろめいているなど、気取らせるわけにはいかない。
「そんなことのためにバイトするよりも、ちゃんとオベンキョウしてちょうだい」
大人ぶった嫌な言い方だ。年齢の概念すら存在しないフラスコ詰めの体は、じきに彼にも置いていかれるというのに……
それが辛くて、インジは適齢期を迎えた彼に強く縁談を薦めた。
「なあ、本当に俺を結婚させる気か?」
結納の後で、スライムは転がるフラスコを捕まえて問う。
「当たり前でしょ。いつまでもあんたみたいなコブについていられたら、恋人だって作れやしない」
「コブか、俺は」
「違うの?」
「いや、最後までお子様扱いだな……ってさ」
フラスコの口を放す彼がひどく寂しげに見える。
「相手のお嬢さんが気に入らなかったのなら、ちゃんとお断りしなさい。ずるずる惰性でお付き合いするのは、失礼よ」
「いや、結婚するわ、俺。あいつとなら上手くやっていけそうな気がするし」
確かに可愛らしいスライムだった。それに芯のしっかりした娘だ。きっといい夫婦になれることだろう。
「それでもセンセ? 俺は一度でいいから、オトコとしてあんたにフラれたかったよ」
そうして二人は、袂を分かつことになった。
「……が、いまさら何用よ? ノロケにでも来たの?」
「この子に古代語を教えてやってほしいんだ」
年老いた彼はチビスライムをぐいと前に押し出した。
「それにノロケたくてもなあ、ウチのが死んでもう十五年になる」
「そう」
嫉妬で胸がちりっと焦げる。
それはどれほど幸せな人生だったのだろう。愛する男と一緒に齢を重ね、子を産み、孫を得て暮らすのは。
今際の際に彼から涙を捧げられて見送られるなど、贅沢の極みだ。
「なあ、センセ? まだオトコとして見てもらえねぇか?」
突然に降った問いかけの言葉に、インジはこぽりとフラスコの中で揺れる。
「当たり前でしょ、あんたを育てたのは私なんだから!」
晩期を迎えた彼はもうすぐ自分を置いて妻の元へと還る……その日を思うと、素直な言葉など伝える気には、ついになれなかった……




