憧れの残響
レッスン終わりのスタジオには、空調の音だけが残っていた。
鏡張りの壁。
床に落ちた汗。
さっきまで流れていた音楽の余韻。
俺はペットボトルの水を飲みながら、壁際に座っていた。
今日は長かった。
湊が新しい振りを覚える日だったが、あいつは予想以上に吸収が早かった。
講師も普通に引いていた。
向かいでは、その湊がまだ鏡の前に立っている。
「……まだやんの」
思わず口から出る。
湊は振り返り、少し笑った。
「なんか気になっちゃって」
「明日でいいだろ」
「忘れそうなんで」
そう言いながら、また音もないスタジオで動き始める。
ターン。
ステップ。
視線。
覚えるのが早いくせに、妥協もしない。
厄介なタイプだ。
才能があるやつって、大体どこかで手を抜く。
でもこいつは違う。
出来るくせに、まだやる。
見ていて少し腹が立つ。
俺は立ち上がった。
「先帰る」
「あ、お疲れ様です!」
相変わらず無駄に元気な声。
スタジオのドアへ向かう。
その時だった。
「……あ」
小さな声。
反射的に振り返る。
湊が慌ててスマホを隠していた。
一瞬だけ見えた画面。
そこに映っていた映像を見た瞬間、空気が止まる。
ステージ。
歓声。
ライト。
そして。
昔の俺。
「……何それ」
低い声が出た。
湊が目を泳がせる。
「い、いや……その……」
「見せろ」
空気が変わる。
湊は戸惑いながらスマホを差し出した。
画面には、昔のライブ映像。
四人組時代。
まだ俺がステージの中心で笑っていた頃。
客席はペンライトで埋まっていた。
歓声も今とは比べ物にならない。
最悪だった。
見たくない。
思い出したくもない。
「……誰が見ていいって言った?」
思ったより強い声が出る。
湊がびくっと肩を揺らした。
「すみません……」
「どこで見つけた」
「ネットに……」
「消せ」
即答だった。
湊が言葉を詰まらせる。
俺はスマホから視線を逸らせなかった。
昔の自分。
笑ってる。
ファンへ手を振ってる。
“アイドル”をやってる。
今見ると別人みたいだった。
腹が立つ。
胸の奥がざわつく。
「神代さん……」
「見んなよ」
気づけば声が荒くなっていた。
「そんなもん」
スタジオの空気が重くなる。
湊は何も言えず立ち尽くしている。
でも止まらない。
「昔の話だろ」
「……はい」
「今の俺見て分かんねぇの?」
自然と笑ってしまう。
乾いた笑い。
「落ちぶれて地下でやってるやつだぞ」
言葉にすると、妙に現実感があった。
昔の歓声も。
大きなステージも。
全部遠い。
「なのに何でそんなもん見てんだよ」
湊は少し黙った。
でも視線だけは逸らさない。
そこが余計腹立たしい。
「……かっこよかったからです」
静かな声だった。
その瞬間、感情が止まる。
「は?」
「昔の神代さん、すごくかっこよかったです」
真っ直ぐだった。
嘘がない。
だから余計に痛い。
俺は思わず笑った。
「昔、ね」
その二文字がやけに重かった。
湊は少しだけ苦しそうな顔をする。
でも、それでも続けた。
「でも、俺」
そこで一瞬迷ってから、口を開く。
「今の神代さんも好きです」
静寂。
空調の音だけが響く。
好き。
その言葉が胸の奥へ刺さる。
昔、何度も聞いた。
ファンから。
周囲から。
信じていた人間から。
なのに最後は全部壊れた。
「……軽々しく言うな」
気づけばそう言っていた。
湊が目を見開く。
「好きとか、簡単に言うなよ」
怒っていた。
自分でも分かるくらい。
湊に怒っているのか、過去に怒っているのか分からない。
でも止められなかった。
「お前、俺の何知ってんだよ」
「……」
「昔の動画見て、勝手に憧れて、勝手に期待して」
声が少し掠れる。
「そういうの、一番くだらねぇ」
湊は黙っていた。
反論もしない。
ただ真っ直ぐこちらを見ている。
その目が昔の自分みたいで、余計苦しかった。
俺は視線を逸らす。
これ以上ここにいたくなかった。
「……帰る」
短く吐き捨てる。
ドアを開ける直前、後ろから小さな声が聞こえた。
「俺、勝手に期待してるわけじゃないです」
足が止まる。
「ちゃんと、今の神代さん見て言ってます」
振り返れなかった。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃだった。
俺は何も返さず、そのままスタジオを出た。




