「やり直させてくれ」と言われましたが、殿下に溺愛されているのでお断りします。
「正直、最初から君との婚約は乗り気ではなかった。君を愛することはできない。だから、婚約を解消してくれ。……俺はエマ嬢を愛している。彼女の方が、俺に相応しい」
王城のホール。多くの貴族が見ている前で、アルノーはそう言った。
彼の隣には、勝ち誇ったような笑みを浮かべるエマ伯爵令嬢がいる。
会場が静まり返った。
イザベルは目を伏せた。
(最初から、乗り気ではなかった。——それを、ここで言ってしまうのか)
悲しくはなかった。
アルノーへの恋愛感情は、最初からない。
家同士が決めた婚約で、義務として続けてきただけだ。
ただ——大勢の前で恥をかかされた怒りと屈辱で、奥歯を噛んだ。
「……分かりました」
それだけ言って、イザベルは足早に会場を立ち去った。
* * *
王城の廊下。人気がない。
イザベルは壁に背を預けて、目を閉じた。
泣くつもりはなかった。
でも——目の奥が熱い。悲しいのではない。
あの言葉の酷さに、怒りで涙が出そうだった。
「……最初から、ね」
呟いた瞬間、廊下の奥から足音が聞こえた。
振り返ると、男が立っていた。
第二王子レオンだった。
会場に戻る途中だったのだろう。
立ち止まって、イザベルを見ていた。
(よりによって、王子に見られた……)
イザベルはすぐに表情を整えた。
「……失礼しました、殿下。見苦しいところを」
「見苦しくなどない」
レオンが近づいてきた。
「……何か悲しいことがあったのか」
「婚約が……解消になりました。どうやら、最初から私との婚約は乗り気ではなかったようです」
イザベルが静かに言った。
「……馬鹿じゃないか、そいつ」
レオンの声は低く、怒りを含んでいた。
イザベルは驚いて、レオンを見た。
「殿下が怒ることでは」
「……少なくとも、君は怒っていいことだろう」
「怒っています。ただ涙の方が先に出てきて、それが余計に腹立たしいだけです」
レオンはその言葉を聞いて、少し黙った。
(泣いているのに、心は折れていない。悲しんでいるのではなく、怒っている)
「……君の名前を、聞いてもいいか」
「……イザベルです。イザベル・ランドールと申します」
「イザベル」
レオンはそれだけ言って、会場に戻っていった。
(……名前を呼んだだけで帰った)
イザベルはその背中を見送りながら、ようやく気づいた。
——先ほどまでの怒りが、少し薄れていたことに。
* * *
そもそもの話をすると、レオンがイザベルを気にし始めたのは半年ほど前のことだ。
王城の夜会。いつものように令嬢たちの挨拶をさばいていた時、一人だけ他と違う令嬢がいた。
輪の外側で、シャンパングラスを片手に会場を静かに観察している。一瞬レオンの視線が向いても、特に表情を変えない。会釈だけして、また視線を外す。
(……媚びない)
他の令嬢たちは、自分に見初められるため必死に媚びを売る。
でも彼女は——。
初めて見るタイプの女性だ、とレオンは思った。
声をかけると、その令嬢——イザベルは完璧な礼をした。
それだけで、それ以上でも以下でもない。
「夜会、楽しんでいるか」
「ええ、まあ」
(まあ、と言ったぞ今)
「まあ、とは」
「観察するのは好きなので。踊るのはそれほど」
「正直だな」
「嘘をつく理由がないので」
それだけ言って、イザベルはまたシャンパングラスを口に運んだ。
(王子を前にして、グラスを口に運ぶ令嬢がいるのか)
レオンはその日から、夜会のたびにイザベルがいないか確認するようになった。
ただその感情が何なのか、名前をつけないままで。
* * *
婚約解消から一週間が経った。
王立図書館でイザベルが本を読んでいると、レオンが来た。
「ここにいたか」
「……殿下は図書館を使われるのですか」
「今日から使う」
(今日から、という言い方が気になりますが)
イザベルは本に目を戻した。レオンは向かいの席に座って、やはり本を開いた。
二人とも、しばらく黙って読んでいた。
「……先週のことは、どうするつもりだ」
「特に何も。婚約は解消です。それだけです」
「怒りは」
「……おさまりました。少し」
「少しか」
「まだ腹は立っています」
レオンは笑った。
「正直だな」
「嘘をつく理由がないので」
(また同じことを言った。でも彼女は……芯の強い女性だ)
* * *
数日後の茶会。レオンがイザベルの隣に来た。
「殿下……なぜ私の隣に」
「君がいたから」
(……直球すぎませんか)
イザベルは顔が少し熱くなるのを感じながら、ティーカップを口に運んだ。
「殿下と話したがっている令嬢たちがいらっしゃるのでは」
「いない」
「……会場には大勢」
「皆、同じ顔に見える。でも君だけは違う」
(何を言い出すんですか急に)
「……それは、どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
レオンはカップを置いて、イザベルを見た。
「僕と話す時、君は僕を王子として扱わない」
「……失礼でしたか」
「いや。——嬉しい」
イザベルは返す言葉が出なかった。
(この方は、急に正直になる……)
* * *
茶会の帰り、急な雨。
回廊で雨宿りしていると、またレオンがこちらに来た。
「また会ったな」
「偶然ですね」
「……偶然ではない」
「……え?」
「お前が茶会を出たのを見て、追いかけた」
(追いかけた、と今言いましたか)
イザベルは雨を見つめた。
「……殿下は、正直すぎませんか」
「君が正直だから」
「私は正直ですが、殿下は王子ですので、もう少し……」
「建前を言えと?」
「……いえ」
(建前を言わないでほしい、と思っている自分がいる)
雨が激しくなった。
二人は黙って、降り続ける雨をぼうっと見つめていた。
「……イザベル」
「はい」
「僕の隣に、いてほしい。この先も、ずっと」
イザベルは少し間を置いて、言う。
「……それは、どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
「……少し、考えさせてください」
* * *
半月後の舞踏会。
アルノーが近づいてきた。
婚約解消後、アルノーはエマとの関係が上手くいっていなかった。
アルノーと婚約後、エマは周囲にそれを自慢し、さっそく侯爵家の財産にも手を付け始めた。
エマが非常に傲慢であることにようやく気付いたアルノーは、焦った表情でイザベルに言葉をかける。
「イザベル。少し話したい」
「……何でしょう」
「……俺が間違っていた。どうかやり直させてくれ。婚約解消の件、なかったことにできないか? もう色々と限界で……」
(ああ、やっぱり。エマ嬢の散財癖は有名だもの。それを知った上で彼女を選んだと思っていたけれど)
「……どういうおつもりですか」
「き、君の良さを、ちゃんと見ていなかった。改めて考えたら——」
「アルノー様」
イザベルは静かに言った。
「最初から乗り気ではなかった、とおっしゃいましたね。王城のホールで、大勢の前で」
「……あれは、その場の勢いで」
「私はあの言葉を、忘れていません」
アルノーが何か言おうとした瞬間——
「僕のイザベルを自分から捨てておいて、いまさら手のひら返しもいいところだな」
低い声が横から来た。
レオンだった。
イザベルの隣に立って、アルノーをにらみつけている。
その目はとても冷たく、敵意をむき出しにしていた。
アルノーの顔が引きつった。
「……で、殿下。それは、どういう」
「どういう? 僕は、イザベルのことを心から愛している。そして、彼女を都合よく扱おうとした君を軽蔑している」
「け、けいべ……」
「何が悪い? そもそも、イザベルとの婚約は最初から乗り気じゃなかった、のだろう?」
アルノーは何も言えなくなり、唇を噛みしめた。
周囲の貴族たちも、彼に蔑みの目を向けている。
レオンはアルノーから視線を外し、イザベルを見つめた。
イザベルの顔が、赤くなっている。
「外で涼まないか」
「……はい」
* * *
会場の外のバルコニー。夜風が涼しかった。
「……殿下」
「ん」
「先ほどの——僕の、というのは」
「考えは出たか。雨の日に聞いたこと」
イザベルは少し黙った。
「……出ました」
「どうだ」
「……殿下が正直でいてくれるなら、私も正直に言います」
「聞く」
「あの日から、ずっと考えていました。殿下の隣にいる未来を。——嫌ではなかった。むしろ」
「むしろ」
「——ずっと、隣にいたいです」
イザベルは微笑んだ。太陽のような笑顔。
それを見て、レオンは頭を抱えた。
「……君の笑った顔は、本当にかわいいな。他の男にとられてしまいそうで、心配だ」
イザベルは、ふふ、とまた笑みをこぼした。
「私も」
「ん?」
「レオン様が、他の令嬢にとられてしまうんじゃないかって、不安になります。だって、とってもかっこ——んっ」
次の瞬間、レオンに口づけされていた。
二人の唇が触れ合い、甘い吐息が漏れる。
「好きだ。大好きだよ。イザベル。世界で、いちばん」
そう言ってレオンは、赤面するイザベルを優しく抱きしめた。
温もりが直接伝わってくる。鼓動が一気に早まる。
「私も、大好きです——」
——レオン様。私の、世界で一番大好きな人。
イザベルは、心の中で幸せを嚙みしめた。
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