4. 託された剣、託した一撃
村を出て数刻。
小川沿いの獣道を抜け、森を進みながら俺とマイラは並んで歩いていた。
「ねぇルクス」
マイラが空を見上げながら口を開いた。
「黒曜獣ってさ、どれくらい大きいの?」
「……村の納屋二つ分はあるな」
「えっ、納屋二つ!?」
マイラは目をむいて足を止めた。
「それ、もう山じゃない!」
「山じゃなくて魔獣だ」
俺は肩をすくめる。
「じゃあさ、どれくらい強いの?」
「……村の畑全部をひっくり返せるくらいだな」
「畑!?」
マイラは顔を真っ青にして頭を抱えた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! そんなの私たちで勝てるわけ……」
「勝てる。だから剣を打ったんだろ」
俺が淡々と答えると、マイラはじっと俺の横顔を見て、ぽつりと呟いた。
「……ルクスって、時々怖いくらい冷静だよね」
「冷静じゃないと胃が持たないんだよ」
俺は思わず腹を押さえる。
マイラは一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。
「そっか……。でも安心してよ、私がルクスの胃薬になるから!」
「いや、それお前が原因だからな!?」
森の中に俺の悲鳴が虚しく響いた。
===
森を抜け、岩肌の多い地帯へと足を踏み入れる。
それまで小鳥のさえずりや風に揺れる木々の音が賑やかに響いていたのに、いつの間にか辺りは不気味なほど静かになっていた。
「……なんか、空気が重い」
マイラが小さく呟く。
その手は自然と腰に差した剣――俺が昨夜打った細身の剣へと伸びていた。
鞘に収まった刀身を握る指先には力がこもり、汗でじっとりと湿っている。
「黒曜獣の縄張りだ。ここから先は……一歩ごとに命を削ると思え」
「……っ」
マイラの喉がごくりと鳴ったのが聞こえる。
さっきまで調子を張っていた彼女の表情は、今は真剣そのものだった。
一陣の風が吹き抜ける。
その風に乗って、鼻をつくような焦げ臭さが漂ってきた。
近くの岩肌には、まるで巨大な爪で抉られたような深い溝が刻まれている。
「これが……黒曜獣の……」
マイラは目を見開き、剣の柄をさらに強く握りしめる。
腰の剣がわずかに震えているのは、恐怖のせいか、それとも覚悟の証か。
「当然だ。依頼が虚偽なら、師匠が受けるはずがない」
俺はマイラの隣に立ち、そっと剣に手を添えた。
「……大丈夫だ。あの剣は、お前のために打った。外すなよ」
「……うん。絶対に、当てる」
その言葉と同時に、大地が低くうなりを上げる。
と振動が足元から伝わり、岩肌の欠片がかたかたと震え落ちた。
「来るぞ」
俺は息を呑み、マイラとともに闇の奥を見据えた。
大地の振動は次第に大きくなり、岩壁が低くうなった。
鳥も獣も逃げ去ったこの谷に、重たい足音だけが響き渡る。
「……っ、き、来た……!」
マイラが息を呑み、腰の剣を抜き放った。
細身の刀身が朝の光を反射して鋭く光る。
影が地の奥から現れる。
まず目に入ったのは、漆黒の外殻。
まるで磨き上げた黒曜石をそのまま纏ったかのように、鈍く、そして硬質な光沢を放っていた。
「でっ……か……!」
マイラの声は震えていた。
黒曜獣は人の数倍の体躯を持ち、岩壁の合間を割って現れた瞬間、その巨体が日差しを遮ってあたりを闇で覆った。
ぎしり――と関節が軋む音がする。
背から突き出した棘のような突起は鋭く尖り、動くだけで岩を砕き散らしていた。
「黒曜獣……」
俺は小さく呟き、視線を走らせた。
――やはり外殻は鉄壁だ。狙うべきは関節、節の隙間。
「マイラ、覚えておけ。狙うのは脚の関節、あるいは肩の継ぎ目だ。それ以外じゃ刃は通らない」
「わ、わかってる……!」
そのやり取りの最中、黒曜獣の瞳に赤黒い光が灯った。
ごうっ、と吐き出された息だけで岩屑が宙に舞う。
「下がれっ!」
俺がマイラの腕を引いた瞬間、黒曜獣が巨腕を振り下ろした。
地面が陥没し、土煙と飛び散った岩片が周囲に降り注ぐ。
衝撃波で体が弾かれ、俺は咄嗟にマイラを庇って転がった。
「い、今の一撃、喰らったら……!」
「間違いなく即死だな」
俺は息を整えつつ立ち上がり、剣を抜いた。
土煙の中から、黒曜獣がゆっくりと姿を現す。
その巨体はまさに山のようで、俺たちを見下ろすその眼差しは、虫けらを値踏みする捕食者のそれだった。
「マイラ」
俺は隣で剣を握る彼女に声をかける。
「頼んだぞ。お前の一撃が全てを決める」
マイラは震える唇を噛み、そして力強く頷いた。
「……やる! 絶対に当ててみせる!」
――黒曜獣との死闘が、幕を開けた。
黒曜獣は再び巨腕を振りかぶる。
関節がぎしりと鳴り、次の瞬間には大地を砕く衝撃が来ると直感した。
「マイラ、下がれ!」
俺は叫ぶと同時に前へ飛び出した。
「ルクス!?」
マイラの驚きの声を背に、俺は黒曜獣の足元へ駆け込む。
巨体の振り下ろしは力任せで、避けること自体は難しくない。
問題は――その硬さ。並の攻撃では傷一つ付けられない。
俺は腰の剣を逆手に構え、黒曜獣の前脚へ斬りかかった。
金属同士がぶつかり合うような耳障りな音が響き、刀身はじかれる。
だがいい。狙いは傷ではない。
「こっちを見ろ、デカブツ!」
挑発するように何度も剣を打ち込み、外殻を叩きつけた。
その音に反応した黒曜獣の赤黒い目が、ぎょろりと俺を捉える。
――重い一撃が来る。
地を割るような衝撃とともに、黒曜獣の前脚が叩きつけられる。
俺は転がるように避け、その隙に視線を横へ送った。
「今だ、マイラ!!」
マイラは既に構えていた。
俺が作った細身の剣を両手で握りしめ、突きの構えを取る。
息を吸い込み、全身を一本の矢のように――。
「はあぁぁぁっ!!!」
白刃が一直線に閃いた。
狙いは黒曜獣の前脚、外殻と外殻の継ぎ目。
刃先がわずかな隙間に吸い込まれるように突き入った。
「……っ!!」
硬質な手応えの後、確かな抵抗を貫く感触。
黒曜獣の巨体がぐらりと揺れ、鈍い咆哮が谷を震わせた。
「やった……! 通った!」
マイラの声は震えていたが、確かな手応えに瞳が輝いていた。
俺は土埃を払いながら立ち上がり、短く頷いた。
「そうだ。その調子だ……! まだ勝機はある!」
突き立てられた前脚を振り払い、巨体が大きく揺れた。
赤黒い瞳がぎょろりと動き、突きを入れたマイラを捉える。
「……っ!」
マイラは剣を握りしめたまま、一歩後ずさった。
黒曜獣の巨腕が高く掲げられる。
その動きに込められた圧は、さっき俺を狙った時の比ではない。
「狙いは――マイラか!」
俺は咄嗟に駆け出した。
轟音とともに大地を割るような一撃が振り下ろされる。
砂煙が舞い、岩が砕ける。
その直撃の軌道上にいたマイラを、俺は体当たりで弾き飛ばした。
「きゃっ!?」
マイラの体が転がり、剣が石に当たって甲高い音を立てる。
直後、俺の眼前に巨腕が叩きつけられた。
土煙と衝撃で肺が押し潰されそうになる。
寸前で飛び退いたが、頬をかすめた破片で血が滲む。
「ルクス!!」
マイラの叫びが響く。
俺は荒い息を吐きながら立ち上がった。
「大丈夫だ……けど、次はお前を守れないかもしれない」
黒曜獣はなおもマイラを狙っている。
その執念の矛先は、完全に彼女に向けられていた。
俺は剣を握り直し、低く構える。
「……来いよ、黒い化け物。お前の相手は俺だ」
黒曜獣の赤黒い瞳がぎらつき、巨体が地を揺らして迫ってくる。
横目に見たマイラは剣を握りしめたまま、足がすくんで動けなくなっていた。
「……っ、う、動けない……」
震える声が耳に届く。
心臓の鼓動がやけに早い。さっきまで威勢よく叫んでいた彼女の強がりも、黒曜獣の圧の前では掻き消されていた。
巨腕が振り上げられる。
まるで大地ごと押し潰すかのような威圧感に、マイラの膝が崩れ落ちそうになる。
「マイラ!!」
俺は叫びながら前に飛び出した。
振り下ろされた衝撃で身体が大地に叩きつけられ、息が詰まる。
だが、それでもすぐに立ち上がった。血が滲もうと構っていられない。
「何してる! 立て、マイラ!!」
「で、でも……私じゃ……無理だよ……!」
弱気な声に苛立ちが走る。
「違う!」
喉が裂けそうなほど声を張り上げた。
「お前のために俺は剣を打った! 信じて託したんだ! 外したっていい、倒れたっていい……それでも最後まで食らいつけ!」
俺の声に、マイラの目が揺れた。
恐怖に潰されかけた心に、ようやく火が戻っていくのを感じる。
彼女は震える足に力を込め、立ち上がった。
剣を握る手はまだ震えている。それでも構えることができた。
「……わかった。やる。私、逃げない」
「そうだ、それでいい。俺が必ず隙を作る。お前は――仕留めろ」
黒曜獣が咆哮を上げ、岩を砕きながら突進してくる。
その巨体はまさに暴風。避けるだけで精一杯の一撃が連続する。
「くっ……!」
汗が飛ぶ。まともに打ち合えば押し潰される。
だが――勝つためには無茶をするしかない。
俺は黒曜獣の足元へ飛び込み、わざと正面に立ちはだかった。
巨腕が振り上げられる。普通なら即死の軌道。
だが、それを待っていた。
今だ――!
振り下ろされる直前、俺は剣を逆手にし、巨腕の関節めがけて刃を滑り込ませた。
火花が散り、手に重い衝撃が走る。
「グオォォォォォ!」
黒曜獣が咆哮を上げ、動きが一瞬止まった。
巨腕は痙攣し、制御を失ったように硬直する。
――作った。最大の隙だ。
「仕留めろ、マイラ!」
咆哮が響き、巨腕の軌道が俺へ向かう。
その脇腹の外殻が、大きく開いた。
「今よ……ッ!!」
マイラが飛び出し、剣を一直線に突き込んだ。
刃が隙間を突き破り、黒曜獣の体内を貫く。
「グ、オォォォォ!」
咆哮と共に巨体が大きくのけぞり、黒い液体を撒き散らしながら崩れ落ちる。
大地が揺れ、砂煙が谷を覆った。
砂煙が晴れていく中、俺は剣を構えたままじっと黒曜獣の亡骸を見つめていた。
――動かない。
今度こそ、本当に終わった。
その実感がじわじわと胸に広がった瞬間――
「ルクスーー!!」
叫び声と同時に、マイラが勢いよく俺に飛びついてきた。
「うわっ!?」
体当たりのような抱擁に、俺は思わずよろめく。
鎧の硬さと彼女の熱気が一度にぶつかってきて、胸がずしりと重くなる。
「やった! やったんだよルクス!! 本当に黒曜獣を倒したんだ!!」
マイラは顔をぐしゃぐしゃにして、子供みたいに叫んでいた。
その震えは恐怖じゃない。歓喜と安堵が混ざり合ったものだ。
俺は仕方なく、彼女の背に手を回した。
「……ああ。お前の一撃が仕留めたんだ」
「ちがう! ルクスが隙を作ってくれたからだよ! あの剣を打ってくれたから!」
ぐっと抱きしめる腕に力がこもる。
心臓がうるさいほどに高鳴り、さっきまでの恐怖を塗り潰していく。
「……はぁ。お前なぁ……」
俺はため息を吐きつつも、彼女の肩に額を軽く預けた。
その温もりが、戦い抜いた現実をようやく俺にも実感させていた。