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無関心の理由

作者: すおう契月




 フロレンシアは困惑していた。

 今日は婚約者であるイグナシオ殿下との定例懇親会。いつもなら王城での茶話会となるところ、どうしたことか今回は殿下の希望で、学院での開催となった。

 そこまではいいのだ。

 なんなら学院の方が着替えなどの支度の手間が省けるし、移動時間が減る分、茶話会の時間を長くとれる。

 問題は、その殿下が、見知らぬ女性を伴ってきたということだった。


 先程まで適度なざわめきに満ちていた学生食堂の広いテラスが、しんと静まっている。

 居合わせた人々はフロレンシアがいるのを認識しており、そこへやってきたイグナシオが、誰を伴っているのかまで理解しているようだった。

 わからないのは、フロレンシア一人らしい。

 どなた? と聞けば済む話だが、状況と、イグナシオの醸し出す雰囲気がフロレンシアの口を重くする。


(これは、つまり、そういうことなのかしら?)


 いっこうに席へ着く様子のないイグナシオに、フロレンシアはどうしたものか、と悩んでしまった。

 殿下からのお言葉がないと、対応の方向も決められない。

 このまま立ち去るつもりなのか、話をするつもりなのか。話すなら立たせたままにはしておけない。


「おかけになりませんか」


 表情を変えないまま、フロレンシアは一先ず対面の席を二人へと勧めた。


「あ、ああ」


 緊張していたのか、ぐっと何かを飲み込んで、イグナシオが動き出す。対話をするつもりはあるらしい。

 示された席へと着いたが、その前に、連れている女性のために隣の椅子を引いて、座らせている。実に紳士らしい動きだ。

 フロレンシアに対する配慮なのか、二つの席を寄せることはなく、適切に離れている。

 エスコートされていた令嬢は、座る前にフロレンシアへ目礼してきた。礼儀はわきまえているようだ。


(さて、殿下はどんなお話をされるおつもりなのかしら)


 フロレンシアは表面上平静を装って、心の中でだけ身構えた。




 この学院は、先々代国王の肝いりで建てられた、貴族向けの学府である。


 当時この国には、貴族家の人々が集う学び舎がなかった。

 それぞれの家庭で教育するのが一般的で、アカデミアといえば大陸中央の帝国が擁するものを指し、専門的に学びたければ留学するのが基本だった。

 帰国する者もあったが、そのまま帝国へ居を移す者が半数はいた。


 国内の学徒が他国へ流出するのを座視できない。

 当時の国王は、国力増強の一環として、アカデミアを目指す学徒を増やし、同時に知能の高い者を国に留める方法として、王立大学を設立した。

 とはいえ各家庭での教育だと、習熟度合いがまちまちだった。いきなり大学へ入っても、生徒のレベルがあまりに違う。

 大学は、入るのは容易く卒業資格を取るのが難しいものだが、入学時にあまりに差があると指導教員の側も困る。大人数へ一度に教えられる利点が生きてこない。

 そのため、入学時学力の均一化をはからんと、予備学校として王立学院が設けられた。


 大学に入るか入らないかは別として、この王立学院を卒業していると、一定の学力を身につけたとみなされるようになった。

 かくして、学院の卒業はある種のステータスとして掲げられるようになり、貴族はこぞって子弟を通わせるようになった。


 王都に貴族の子弟が集まる。

 それは、地方の表面上家臣としてあっても、内心は王家にまつろわぬ貴族家から、人質を取るのにも適していた。

 王家がこれを狙っていたのか余人には判断できなかったが、〈学院へ子女を通わせること〉が政治的な意味を持ったのは確かだった。


 国王肝いりで作られた学院だ。王家が招聘した著名な学者達から学ぶことができる、という大義名分もある。

 王家は各貴族家へ、子の男女を問わず通わせるよう通達を出した。病弱であるとか、身体的機能によって集団生活が難しいなど、免除される場合もあったが、概ね通うような流れができあがり。

 幾重もの意味を持った学院は、かくして貴族の令息令嬢の集う場となった。


 とはいえ、年若い者達が無条件で交流を図るのは思わぬ事態も生む。

 貞節を重んじ、若気の至りを避けるため、教室は校舎ごと女子と男子で明確に分けられた。

 受ける授業内容も男女で異なるため、貴族家からの反発はなく。むしろしっかり管理されていることに安堵する意見が大半を占めていた。


 そんな学院内で男女の交流が可能なのは、学院中央にある学生食堂棟のみ。


 互いの校舎へは一歩も踏み入れられず、それどころか学生食堂以外では姿を見ることすら叶わぬほど完全分離されている。

 学生食堂といっても、そこで食事をするのはいずれも貴族家の者。建物はそれなりに豪奢で、外部からのゲストも満足するような料理を、給仕がサービスする。

 個室として使えるサロンにも、それぞれの部屋に専属給仕がつき、天気の良いときには人気のテラスも、数多くテーブルと椅子が置かれ、高級レストラン顔負けの仕様となっていた。

 交流を図れる場においても、必ず余人の目があり、羽目を外すことはできない。そういう仕組みとなっていた。


 だが、禁じられれば逆に燃え上がるのが人の心というもの。

 手紙のやりとりは可能だったし、学外での交流は各家庭の判断に任されていたため、学院で交際相手を見つける者は一定数いた。

 特に下位の貴族、それも三男四男、三女四女となれば結婚相手が平民である可能性もあり、学院で相手を見つけようと考える者が多かった。

 逆に、入学前から婚約している者達も、学院での交流により仲を深めたり、かえって仲違いをしたりと良くも悪くも人間関係を築いていた。


 そんな中。

 今年の新入生に、王の子息とその婚約者がいた。


 夕日に照らされた秋の麦穂のような金髪に、王家特有の青い瞳をした王子。

 月光を集めたような淡い金髪に、凪いだ湖沼のような碧の瞳の侯爵令嬢。

 どちらも美しく造形が整っており、高貴さを感じさせる立ち居振る舞い。

 衆目を集める存在は、どこへ行っても同じように見られるからか、あまり人目を気にする様子がなかった。


 入学してしばらくは、侯爵令嬢へ声をかける殿下の姿が見られた。

 だが次第に二人がともにいる姿を見る者は減り、いずれかのサロンをご利用なのかと皆が思い始めしばらく経った頃。唐突に殿下は、一人の女生徒と昼食をともにされるようになった。


 学院内に静かな衝撃が走ったのは言うまでもない。


 それ以降、殿下は伯爵家の令嬢だという女生徒と毎日昼食をともにされ、放課後にも二人でいるところを目撃されている。

 殿下のお気持ちは奈辺にあるのか。

 生徒達は密やかに囁き合った。しかしその声は学院内へあまねく届き、よほど噂に疎い者以外は知るところとなっていた。


 そうして本日の放課後。

 学生食堂棟のテラスにて、殿下は新たなる噂の火種となる事態を生み出していた。


「フロレンシア、こちらはフェレイロ伯爵の息女ノエリア嬢だ。ノエリア嬢、こちらはパルティダ侯爵家のフロレンシアだ」


 座ったことで気持ちが落ち着いたのか、イグナシオは互いを紹介する。

 フロレンシアは悟られぬようにそっと伯爵令嬢を観察した。


 栗色の髪は艶々としているが、顔周りはスッキリするようハーフアップにまとめてある。可愛らしさや美しさより、学びの邪魔にならぬようにとの配慮が覗える。

 ペリドットのような明るいグリーンの瞳は、陽の光を受けてキラキラとしていたが、不躾に相手を見つめることはせず、僅かに視線をずらしていた。

 体型は、比較的スリムだが痩せぎすという感じはない。立ち姿から身長はフロレンシアより高いと思われた。


 イグナシオの紹介でしっかり頭を下げた様子から、自身の立場は理解しているとわかる。出しゃばる気配もなく、静かに座っていた。

 姿を見るのは初めてだが、名前は聞いたことがあった。


「確か、同学年の、特別奨学生でしたわね?」

「はい。ご存じいただいていたとは、光栄にございます」


 頷いてから、はにかんだ。


(あら? わたくしに対する隔意はないのかしら)


 恥ずかしげにしつつも嬉しそうな表情からは、敵意や悪意は全く感じない。

 殿下に侍ろうとする女性の中には、婚約者であるフロレンシアを敵視する者も少なからずいるのに。


「ときに、フロレンシア。そなたは学院内での噂は耳にしているか?」


 唐突なイグナシオの質問へ、フロレンシアは僅かに瞬きした。


「噂ですか? 申し訳ありません、あまりそういったことには明るくありませんの」


 噂は根も葉もないものが多い。情報として精度が低いため、フロレンシアは元々拾わないようにしている。

 また、フロレンシアにはいわゆる“取り巻き”がいなかった。良くも悪くも流言によりフロレンシアを左右しようという者がいない。

 傍にいるのはれっきとした侍女二人だ。

 侯爵家の閨閥に属する別々の伯爵家出身である二人は、フロレンシアと同い年のため学院でも侍女としてついているが、フロレンシアの結婚後も仕えることになっている、正式な側近達だ。

 公私にわたりフロレンシアを支える存在として、日夜励んでくれている。

 最も近い友人でもある彼女達は、フロレンシアの立場を嫌というほど理解しているため、“余計な噂”は主人の耳に入らないよう配慮していた。


 何かあった時のため、侍女達自身は流れる噂とその元となった事柄を正確に把握していたが、今もフロレンシアの後方に黙して控えるのみ。

 そのため、フロレンシアから聞かない限り、噂話はほとんどその耳に届かない。


 つまり、殿下のよからぬ噂など、フロレンシアは全く知らなかった。


「そうか……」


 何故かイグナシオはフロレンシアの答えに顔を暗くする。


「噂が、どうかされましたか?」

「ああ」


 頷くものの、イグナシオはすぐに続きを話さない。

 急かすのも不躾なため、仕方なく、フロレンシアは給仕の置いていった紅茶を少し口にした。

 夏摘みの紅茶は熟成された濃厚な旨味と香りが楽しめる。最高品質の茶葉は、二人のために用意されたものだろう。

 悩む様子のイグナシオに対しノエリアはけろりとしており、供された紅茶に舌鼓を打っている。フロレンシアが口をつけるまで待っていた辺りはわきまえているのに、イグナシオに無頓着なのはなぜなのか。

 内心首を傾げつつ、フロレンシアはイグナシオの答えを待った。


「こちらのノエリア嬢は、私の恋人だ」

「えっ」

「と、いうことになっている」


 思わず、はしたなくも声を上げてしまったフロレンシアに、イグナシオは間を空けず続けた。


「ということになっている、とは? 本当の恋人ではないと?」

「……そうだ」

「ではなぜ、本日はお連れに?」


 噂を否定するだけならば、連れてくる必要はなかったように思う。そう問えば、なぜかノエリアがうんうんと頷いて同意を示していた。

 一方でイグナシオは、とても情けない表情になっている。

 いつもは毅然としつつ言葉少なで、あまりフロレンシアに胸中を見せないのに、今日のイグナシオは態度が雄弁だ。


「それは、その」


 言い淀みつつ視線をあちらこちらへ逃がす様は、なんとも弱腰に映る。

 イグナシオは、立場さえなければ是非大学へ、と誘われるほどに優秀だ。

 今の姿だけ見ると、コミュニケーション力は大丈夫かと不安になるが、元来の能力は高い方だ。授業でのディベートはもちろん、公務としての地方視察の際や、他国からの使者をもてなす場面では、そつなく対応して有能さを見せつけている。


 そんな姿を知っているからこそ、フロレンシアはいつもとの落差に首を傾げるばかり。


「そなたが、噂を知っていれば、心穏やかではいられないだろうと……」

「恋人を茶会に連れてきたとなれば、不穏には感じましょう」


 結婚前から公然と愛妾を置くのはありえない。情人がいたとしても、公にするのは普通、妃に子ができてからだ。

 さすがに婚約中に恋人を紹介されるのは、いかがなものかと思う。

 涼しい顔をしつつフロレンシアがそう答えると、イグナシオはさらに暗さを増した。


「それだけか?」


 何を問われているのかとフロレンシアが瞬きをする間に、イグナシオはテーブル上で握った拳を震わせていた。


「そなたは、私に恋人ができたことに対して、思うところはないのか? 恋人と噂されるような存在がいることに対しては? そんな人物を連れてきたのに、なんとも思わぬのか?」


 イグナシオの、ロイヤルブルーの瞳がフロレンシアを射貫くように見つめる。

 戸惑いを浮かべながら、フロレンシアは静かに答えた。


「そうですね、何も思わないわけではありませんが……。殿下のなさることに、意見はいたしませんわ」

「なぜだ!」


 テーブルを叩いてしまいたい衝動を押さえ込むように、イグナシオは声を張り上げた。


「そなたはいつもそうだ。私のすることにまるで興味がない! 毎週顔を合わせるのに、いつも淡々としている。私が何をしてもそなたの心には響かないのか」


 責めるような響きに、フロレンシアはさらに困惑する。

 責めるような、ではなく、まさにイグナシオはフロレンシアを責めているのだろう。それがわかるだけに、フロレンシアは驚いていた。


「それはそうですわ? だって、わたくし、殿下に興味を持たぬように、と厳命されておりますもの」

「えっ?!」


 イグナシオではなく、周りから驚きの声があがる。

 二人の会話へ聞き耳を立てていた輩が存外多かったようだ。このような場で茶話会を開けば当然のことなので、フロレンシアはさらりと黙殺する。

 イグナシオ自身は、目を見開いたまま声もなく固まっていた。


「学生時代は考えも青く、身体に引きずられることもあろうから、剣への道へひた走っていようと、友情が行きすぎた関係になっていようと、女性との交遊が紳士から逸脱していようと、注意してはならない。見ないのが一番ゆえ、なるべく無関心で過ごすように、と言いつかっておりますから……」


 二人の交流は週に一度のお茶会のみ、他では接触をせぬ方が好ましいと二人の指導役である太師から言われていた。


「殿下がどなたを寵愛されようと、私は何も感じないように、心を殺すのみと思っておりました」


 そんな教えを受けている以上、恋人ができようとそれを紹介されようと、なるべく気を向けないよう心がけていた。

 結婚後を考えれば暗い気持ちにはなるものの、人の心は移ろうもの。成長と共に考え方も変わり、殿下も正式な伴侶を重んじるようになるはず、と太師の言葉を信じていた。


 それに、今までイグナシオは、秋波を送る女性達になびく様子がなかった。

 フロレンシアの見えないところでやってくれるのなら、フロレンシアにとってないのも同じ。

 だからこそ、学院での噂も拾わないようにしていたのだ。


「そんな…………いや、そう、か。それで……」


 イグナシオにとっては初耳だったのだろう。

 受けた衝撃は大きかったようだが、同時に納得もできたらしい。

 しかしそのまま流すわけにはいかない内容で、変わらず拳を握りしめ、イグナシオは力を込めてフロレンシアを見つめた。


「っ、私は! 浮気などしない! だから…っ、これからは、もう少し、私に興味を持ってくれないだろうか!」


 その言葉だけを聞いたなら、フロレンシアも素直に受け入れていただろう。


 だが、ここにきて、ノエリアの存在がある。

 火のない所に煙は立たぬ。噂でノエリアが恋人とされている以上、疑わしい行動をしていたということで。

 恋人ではない、と否定はされたが、フロレンシアを動揺させるために恋人のふりをしていたのなら、噂が立つだけの行動を二人はとっていたと考えられる。

 心が伴わない行為だろうと、肉体的接触があったのなら、それは浮気ではないか。

 そんなフロレンシアの心を察したのは、当然ながら、イグナシオではなく。


「あらまぁ。どの口がおっしゃるのかしら」


 ノエリアだった。


「フェレイロ伯爵令嬢」


 今まで我関せずとお茶を飲むばかりだったノエリアは、ようやく口を開く気になったらしい。

 イグナシオの恋人でない以上、口を挟む立場ではないと黙していたわけだが、ここにきて自分の存在が影を落としていたため、話に加わることにした。

 思わぬ所からの反撃に、そしてそれに同意するような気配のフロレンシアを見て、イグナシオは固まってしまう。


 フロレンシアは窘めるように声をかけたが、ノエリアはけろりとしている。


「どうぞノエリアとお呼びくださいませ」

「え、ええ。ではわたくしのこともフロレンシアと」

「ありがとうございます」


 笑顔で礼を述べながら、ノエリアは丁寧に頭を下げた。


「殿下はあのようにおっしゃいましたけれど、フロレンシア様からすれば、到底信じられませんわよね。学院で恋人の噂が立っているのですもの」

「ノエリア様」


 明け透けな言い方に驚きつつも、不敬一歩手前の発言にフロレンシアは焦りを覚える。止めるように名を呼んだフロレンシアへ、ノエリアはあっけらかんと告げた。


「あら、だって、誰かが申し上げなければ殿下は自覚なさいませんわ。私、頂戴した金額分は仕事をするつもりですの。今なら、フロレンシア様のお気持ちを代弁するほうが、殿下にとっては有意義なのではありませんこと?」


 納得できる言い分ではある。が、頂戴した金額分、とはなんの話なのか。

 はっきりと怪訝な顔つきとなったフロレンシアへ、ノエリアはそっと微笑した。


「フロレンシア様、一昨年の蝗害は覚えていらっしゃいますか?」

「ええ、南東から西南に抜けたものですね」


 一昨年、隣国で発生した蝗害は、我が国を突っ切り西南側の隣国へと通り抜けた。

 三国に渡り被害をもたらしたそれは、危うい均衡を保っていた近隣国の関係性をも変えた。

 我が国は荒野など人の住まない土地も通過点にあったため甚大な被害ではなかったが、隣国は多大な打撃を受けた。

 戦が遠のいたという意味では、怪我の功名だったかもしれない。

 だが我が国も無傷とはいかなかった。いくつかの領地が大変なことになったと聞く。


「我が家はちょうどど真ん中でしたの」

「まぁ……それは……」

「領地の何もかも食い尽くされまして。国からの支援があっても、数年は借財を抱えたまま過ごすしかない状況です」


 ノエリアは淡々と語ったが、内実は大変な状態だろう。

 だが、王立学院へはほぼ入学年齢が決まっている。王家に対する叛意はないと示すには、子を学院へ通わせる必要がある。

 借金がいくらあろうと、ノエリアの入学を見送るわけにはいかなかった。

 学費を工面するため、ノエリアは勉学に励み、なんとか特別奨学生の枠を勝ち取った。

 それでも、学内での付き合いもあり、つましい生活をするにしても王都で生活する以上、金銭はかかる。

 領地と王都では物価もかなり異なり、財布への打撃は想定より大きかった。


 お金はいくらあっても足りない状況なのに、稼ぐ手段はとても少ない。

 貴族の令嬢が労働をするわけにはいかず、できるのは“貴族らしい”刺繍等の手芸のみ。

 繕い物を請け負う方が割はよかったかもしれないが、伯爵令嬢に許された仕事ではなかった。

 ノエリアはハンカチや帽子に刺繍を施したものを馴染みの商会に買い取ってもらったり、貴婦人用のバッグにビーズや宝石を美しく縫い付けたり、扇子の房飾りを作ったりして、それを母の友人を通して販売したりした。

 だが一人で作れる数などたかが知れている。

 まして成績を落としては、特別奨学生から外されてしまう。勉学に励みつつ手芸にいそしむには、時間が足りなかった。


 そんな時に、イグナシオ殿下からお声がかかったのだ。


 それは、市民向け図書館でのことだった。

 王都には貴族用の図書館もあるが、ノエリアにとってそちらは敷居が高かった。

 いつどんな貴族に出会うかわからない。社交をするゆとりのないフェレイロ伯爵家からすると、出入りするのにリスクがある。

 そのため、ノエリアは休日、市民へ向けて解放された図書館の方を利用していた。

 こちらは貴族用と違っていくばくかの入館料がかかる。貸し出しや利用図書の破損がなければ退館時に返されるもので、たいした金額ではない。

 それだけに平民の利用が多く、貴族令嬢が出入りするのはかなり目立った。

 だがノエリアはドレスも大半は手放したので、普段着はかなり質素だ。商家の娘でも通りそうな服装なら、気付かれにくい。

 立ち居振る舞いの上品さで察する者がいたとしても、図書館は黙して利用する場所。差し障りはなかった。

 だからまさか、王子がお忍びで現れるなど、思いもしなかったのだ。


 イグナシオは、学院の特別奨学生だったことからノエリアを知り、家の状況も知った上で、貴族の人目に付かない図書館を接触場所に選び、偽装の恋人役を提案してきた。


 具体的には。

 学院で食事を共にすること。

 放課後、人目のあるところで、親しい様子を見せつけること。

 友人知人に問われたら、濁しつつもイグナシオと“異性の友人”であると主張すること。

 “噂”が広がるようにしつつ、偽装であると悟られないようにすること。


 最終目標は、イグナシオの婚約者であるフロレンシアから何らかの反応を引き出すこと、だった。


 報酬はかなりの金額を示された。

 法外な額に、殿下は市井でもう少し学ばれた方がよいのでは? と思ったものの、口を噤んで、ノエリアは引き受けることにした。

 たいした時間を取られずに稼げるのなら、大変ありがたい。

 まして偽装の恋人とはいえ、恋人らしい行為は何も必要ないという。

 イグナシオは浮気をする気はなく、あくまでも友人で通る距離感で接するつもりだと語った。

 それならば、噂が一人歩きするだけで、ノエリアの体裁も傷つかず保たれる。


「そういったわけで、しばらく殿下と昼食をともにさせていただき、放課後もお茶をいただいたりしておりましたが……」

「わたくしが一向に反応しなかった、というわけですわね」

「はい。フロレンシア様のお耳に噂が届いていないか、届いても気にされる様子がないとわかりましたので、殿下は次の手段に出ることにされたのですわ」


 それが、二人の茶話会に“恋人”を連れてくることだったという訳だ。

 だが、噂自体を知らないフロレンシアには、なんら響かなかった。


 どうしてそれほどまでに無関心なのかは、フロレンシアがあっさり告げて明らかとなった。

 まさかそんな理由があったとは、ノエリアにも予想外だったが。


 何をどう語ったものかと思いあぐねていたイグナシオは、さっさとノエリアが包み隠さず話してしまったため、いたたまれず両手で顔を覆ったまま呻いている。


 ノエリアが事情を知ったのは、恋人のふりを始めてから。

 このやり方でフロレンシアから本当に反応を引き出せるのか疑わしく思っていたが、校舎内で遠目から見るにつけ、失敗だろうと踏んでいた。

 同じ女性同士なのだから、噂を聞いて何らかの思いを抱いたなら、早々に学院内で接触してきたはず。だが何もないまま数ヶ月経ってしまった。

 ノエリアとしては期間が長ければ長いほど稼げるため、余計なことは言わずイグナシオの好きにさせていた。

 とはいえ事態は転がり、フロレンシアの不信感を払拭するためにも全てを明かした以上、後腐れのないよう二人の関係が良くなる方向へ導くほかない。

 二人の婚約に影を落とす気はさらさらないし、イグナシオに恨まれても困る。


 だが太師の教えなど全く知らなかった上、令嬢の気持ちなどさっぱりわからないから空回っていたイグナシオだ。

 関係改善のためアドバイスするにしても、本人が相手を理解できるようにヒントを出さねば、また空回るに違いない。


 そんなノエリアの気持ちがわかったフロレンシアは、不思議そうにノエリアを見つめた。


「ノエリア様は、恋人のふりをする間に、本当に恋人になってしまおうとはお考えになりませんでしたの?」

「本当の恋人、ですか?」

「ええ。わたくしが無関心なことで殿下が傷心でいらしたのなら、その御心につけこんで、とは思われませんでした?」


 フロレンシアの疑問は、イグナシオの周囲にはこれまでも、殿下の寵を得ようとする女性が少なからずいたからだ。

 察するところがあったのだろう、ノエリアはくすりと笑った。


「もちろん、少しは考えましたわ。でもすぐ考えを改めましたの」

「なぜ?」

「だって! 殿下ったら口を開けばフロレンシア様フロレンシア様と、フロレンシア様のことばかりなんですもの!」

「ノエリア嬢!」


 あまりの暴露に消沈していたイグナシオが慌てて止めようとする。

 が、遅きに失していた。

 不敬ながら殿下を無視して、ノエリアはフロレンシアに肩をすくめて見せた。


「つけいる隙など、些かもありませんでしたわ」


 正直そこまで他所を見ている男を振り向かせるのは面倒だ。それなら別の手段で稼ぐほうがいい。そう判断した。

 王子妃になれば実家を建て直すのは容易になるが、そんな実家では後ろ盾として弱く、王子妃として立つ時に苦労する。

 そうまでして得たいほど栄誉に興味はなかったし、殿下を好いている訳でもなかった。

 愛する男が相手なら頑張ってもよかったが、そうではないのだから、秤にかけて労力の方が勝ったため、王子妃を目指す選択肢は消えた。


 気息奄々たる状態のイグナシオの対面で、知らない婚約者の一面を教えられたフロレンシアは真っ赤になっていた。

 ノエリアはそんな二人の様にも頓着せず、追い打ちをかけるようにニヤリと笑う。


「今までの方も、そうやって撃退されていたのではありません?」


 王子妃の位は魅力的だ。イグナシオ自身も眉目秀麗で女性の欲望を刺激する。だから自身が対象になり得ると思う女性達は、隙あらば誘惑しようと虎視眈々と狙っていた。

 だがいずれも成功せず、イグナシオがなびくことはなかった。

 その理由が、フロレンシアにあるというのか。


「殿下は、無自覚にフロレンシア様への愛を垂れ流すことで、女性達からの誘惑を回避していたのだと思いますわ」


 微笑ましげにイグナシオを見つめるノエリアの瞳には、全く色がない。

 この二人の間にあるのは絶対に恋情ではないとわかる眼差しだった。


 ノエリアの推察が本当なら、嬉しくもあるが恥ずかしくもある。

 フロレンシアは熱の引かない頬を押さえながら、同じように耳まで赤くしているイグナシオを盗み見ていた。


 なぜ周りにそれだけ語れるのに、フロレンシア本人には何も言わなかったのか。

 真正面から愛を囁かれたなら、フロレンシアだってすぐに落ちただろうに。


 いくら無関心でいるべき、と太師が言ったとて、そもそもそれは年若い婚約者の奔放な行動に際した場合の助言だ。

 逆に、会うのは週に一回の茶会のみ、と定められているのは、婚前に不適切な関係にならないよう戒めるためである。


 イグナシオがずっと義務的な態度だったからこそ、これはそうだと考え、フロレンシアも淡々と相対していたのだ。

 もっとフロレンシアに向かって真っ直ぐ好意を示されていたら、フロレンシアも積極的に仲を深めようと動いていたはず。


(これからは、少し、変わるのかしら?)


 相変わらず呻くばかりのイグナシオは、紅茶にすら手をつけない。

 落ち着くまでしばらくかかりそうだ。

 そんな彼が、いつか、フロレンシアに正面から愛を囁く日など来るのだろうか。


 迂遠なやり方はフロレンシアに通じないと今回のことで理解したイグナシオが、この先どうするのか、フロレンシアには予測できない。

 けれども、ノエリアの話をイグナシオは否定しなかった。羞恥心に身もだえていても肯定するのなら、彼の想いが奈辺にあるのか、察せられるというものだ。


 不安からか期待からか、フロレンシアの鼓動は高まっていた。


 そんな二人の様子を見て、ノエリアと周囲の人達は安堵していた。

 これなら、落ち着くところへ落ち着くだろう、と。

 イグナシオの尻込みした態度ではまだまだかかる気もするが、これを機に彼が変わるなら二人の関係は一歩進んだものになるだろう。

 これまでの義務的な雰囲気が消えて、恥じらいの中に親しみがある、良い関係となっていくに違いない。

 そうして慣れてきたら、また一歩、進めるはず。

 その頃には婚約期間は終わり、婚姻関係へと変わっているかもしれないが。


「私のお役目は、これにて終了ですわ」


 紅茶を飲み終えたノエリアがにっこりと笑う。

 これにはさすがにイグナシオも真顔に戻った。


「ああ。本日まで苦労をかけた」

「過分なお言葉、幸甚に存じます。殿下、どうぞフロレンシア様とくれぐれもよくお話しなさいますように。そして、末永い幸せをお祈り申し上げます」


 ノエリアはフロレンシアとイグナシオ、二人を交互に見てから、席を立ちカーテシーをすると、去って行った。

 その背を見送って、フロレンシアはほっと息を吐く。


 賢く、分をわきまえた、素晴らしい令嬢だった。

 ああいった人物だからこそイグナシオは偽装の相手に選んだのかもしれないが、ノエリアだったからこそ、トラブルなく事態が収束したとも思う。

 感謝の気持ちとして、彼女の家、その領地へ、幾ばくかの心付けを贈っておこう。


「殿下。これからはどうか、もう少しお話しくださいませ」

「……ああ。そうすることにしよう」


 短絡的な行動をとったイグナシオは、おそらくこの後太師にみっちりと叱られる。

 その後は、二度とこのようなことが起きないよう、フロレンシアと密にコミュニケーションをとるしかない。

 それは、フロレンシアにとってもまた、必要なこと。


「もう、冷めてしまいましたわね。淹れ直していただきましょう」


 イグナシオの手つかずの紅茶へ目を落とし、フロレンシアは微笑んだ。

 二人の茶話会は、改めて、ここからだ。


 フロレンシアの笑みに頬を染めながら、イグナシオは素直に頷いた。






お読みいただきありがとうございます。


ノエリアは純粋に、学生食堂でランチやお茶のお相伴にあずかるだけでこんなにお金がもらえるなんてラッキー♪ と思っていました。全てはもちろん殿下のおごりでした。


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― 新着の感想 ―
太師とかいうのは王子と婚約者を仲違いさせて自分の息のかかった令嬢を後釜に据えるのを狙ってたのかな?と邪推してしまう酷さ。 イグナシオを叱る資格はないし自分こそ雇い主の国王やフロレンシア実家に何吹き込ん…
なろうでは、王族の婚約者として登場する女性の多くが感情を抑制する教育をされてるけど、なんでいつも女性側ばかりで男性側は自由なのだろうと不思議でたまらない。 感情の抑制教育が一番必要なのって王子側やろ……
???? いずれ国のトップに立つものが何をしようと、伴侶候補は諌めもせずに放っておくの? 王の教育としてヤバすぎんか? ヒロインが無関心であるという設定と、それが相手に好意がないということではないって…
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