6魔術
「おはよう!よしよし、ちゃんとベッドで寝てるわね!」
メイドさんが満足そうに山羊頭を揺らして頷く。
ふかふかのベッドは正直まだ居心地が悪い。しかし、初日に見つかってしまった以上、床に座って寝るのを繰り返すわけにもいかず、恐縮としつつも利用している。
身嗜みを整えて、メイドさんが持ってきてくれる服に着替えて食堂まで連れられて、豚頭のコックさんに見守られながら朝食。その流れにも慣れてきた。コックさんは昨日先生に怒られ連れて行かれたけど、夕食時には何事もなく戻ってきていたので少し安心した。
朝食の後は、大抵魔術師が呼びにきて魔道具の試行をする。しかし、今日はなかなか現れない。
代わりに先生がやってきた。
「エルムは今日は作業場にこもるから、あなたは好きなように過ごすといい。何かあったら呼ぶんだよ」
それだけ言って、先生は帰ってしまった。
私も大人しく客間に戻ることにする。
昨日は魔術の授業を魔術師と、先生からされた。魔術師は私に教本をくれたけど、その本がなかなか厄介だった。
文字が、読めなかったのだ。
自国の文字は読める。隣国の文字も、家庭教師の課題で妹の分をやっていたから、多少は分かる。
しかし、年季を感じるザラザラした装丁のそれは、全く理解の及ばない文字が連ねてあって、何が何だか分からない。挿絵も何もないから推測することもできず、ただ文字列を追う無駄な時間になってしまっている。
あっという間に午前が過ぎて昼になってしまった。昼食に呼びにくるのはメイドさん。
魔術師に仕えている人だし、何か分かることがあるのではないか、と本の話をしたら、「あらー、ごめんごめん!気が利かなくて本当に申し訳ない!」と盛大に謝られた。
メイドさんに謝ってもらうことではない、と慌てて頭を上げて欲しいと頼むと、彼女は、
「でも配慮が行き届いてなかったのは事実だし…そういう気遣いできない男なのよもうやんなっちゃう!翻訳はすぐにどうにかするから待っててね!」
と、頼もしく請け負ってくれた。
彼女が離脱し、コックさんの見守りの元で昼食を食べ終えたその瞬間に、魔術師は現れた。
「やあやあどうもご不便をおかけして申し訳ない!読めないもの渡すな、人語の本渡してくれればいいじゃないって意見、とてもよく分かります。でも残念ながらこの国では魔術の本って最近まで禁書に近い扱いだったんだよね。だから何書いてるか分からない他種族の書物をかき集めるしかなかった僕の苦労、どうかご理解いただきたい…!」
「ひ、人が書いたものではなかったんですか?」
「まさしく!」
大戦で魔術師の製作した魔導兵器が活躍し、逆転勝利を献上するまで。この国で魔術という存在はかなり縁遠いものだった。
そういう現象があること自体は広く知られているし、魔法が出てくるおとぎ話が遮断されているわけでもない。が、得体の知れない魔力を操り、騎士の積み上げられてきた剣技や軍術を容易く捻り潰すことが人間に可能であるというのが、伝統を重んじる王や貴族には受け入れ難かった。
故にこの国は領土拡大の戦争を自分から仕掛けておきながら、魔術製の武器を擁した他国より反撃に遭い、苦戦していた。
勝利後、魔術師の功績が認められ、輸入も解禁されたことで、現在ではそこらで当たり前のように魔道具や魔術書が売られるようになった。全くもって大きな進歩であると、魔術師は笑う。
「いやあでもすごいね君は。あの本って、人の理解できる言語とかけ離れてるからそもそも認識するのも難しいんだよ。最初からちゃんと文字が読めないって区別がついた辺り、やっぱり君は天才…!ライラくんは将来有望にも程があるねえ!」
不意打ちにきた怒涛の褒め言葉でしどろもどろになる私を、魔術師は愉快そうに眺める。そうして差し出してきた彼の手には分厚い紙の束があった。
「お待たせいたしました。こちら内容を全て訳した翻訳版と、単語で区切って意味を訳したものを載せた辞典になります。最初は翻訳版で読んで、後から辞典を使って原書を見ると楽しいんじゃないかな!」
「え…!あ、ありがとうございます」
…何だかとんでもないことを言っているような気がする。
私が本についてメイドさんに話したのはたった数十分前。その短い時間で、この二つを完成させたというのだろうか。
ニコニコしている魔術師を見上げながら、私はつっかえつつ礼を述べた。すると、彼は白の長髪を揺らして明るく否定する。
「何の何の!むしろお礼を言うのはこっちだよ。何だろうね、自分でもよく分からないけど、めちゃくちゃ早く作業が進んだんだよね!いやあほんとに不思議なこともあるもので」
「…翻訳が、お得意だったりとか…?」
「いや?そんなこともないはずなんだけどね?でもこんなに作業効率が良かったのは本当に久しぶりだなあ、懐かしい感覚!昔の僕はもっと優秀だった…!日々感じるこれは何?そう老化…!」
「…魔術師様は、おいくつなんですか?」
「何歳だと思う?」
茶目っ気のあるウインクをして魔術師は難題を出してくる。
見た目は青年。十代後半か、二十代前半か、とにかくその辺りだとは思うのだが…そんな言い方をするということはもっと上なのだろうか。
悩む私の耳に、薄々そろそろ来るのではないかと予測していた低音が滑り込んでくる。
「面倒な質問をするものじゃないよ。妙齢の美女でもあるまいに」
「いやあ、どう見えてるのか気になってね!年相応に見えてるのか頼り甲斐のある紳士に見えてるのか!」
「…そんなどうでもいいことに思考を裂けるなんて随分余裕があるものだ」
嫌味のような言い方をする。その口調は、絶対に私には向かない。魔術師相手にだけ、彼は、異様に辛辣だ。
「分かってますよ、早くお仕事に戻れっていうんでしょ?了解了解、僕は国民の皆々様のために、粉骨砕身、努めさせていただきますとも!」
「なら、早く行きなさい。…そういう翻訳の作業も、本来はお前が担うものじゃないんだ」
「そうだね、ごめんね、でもなんでか作業に手がついてすぐ終わったんだよね。妖精の仕業かな?」
「ふざけたことを…」
「うんうん、妖精はこんなところにいません!彼らは彼らの領域にいるからあり得ないです!すいませんでした!それじゃあライラくん、お勉強頑張ってね、それ役に立ったら嬉しいな!」
あっという間に、魔術師は姿を消した。
先生はその後ろ姿を見送ってから、私に向き直り「何かあれば、私に言ってほしい。エルムではなく」と優しい声をかけてきた。
それに曖昧に頷きながら、私は、魔術師の残した紙束に目を落とし、そっと端を握りしめた。
魔術師の翻訳版はとても分かりやすく、魔法についての歴史が噛み砕いて解説され、彼なりの解釈まで付け加えられていた。
辞典の方は紛うことなく辞典という感じで、おそらくこれを用いて原書を読み解くのと翻訳版で読むのとでは受ける印象が違うだろうという予想が容易にできた。
翻訳版を集中して読み進めていくうちに、呪文らしき構文の表記が出てくる。「原作再現に全力を尽くしました。直筆の呪文は必見!」と注釈が付いている。その内容の箇所が載っているらしい原書のページを確認すると、一際読み取りづらいような、歪んだ文字列があった。
「…我…ここに、召喚する…躍動…魔力を与えん…」
一つずつ辞典を見ながら確認する。声に出していたのは無意識だった。
瞬間的に、懐から熱気が迸った。
「きゃあっ!?」
思わず悲鳴を上げる。椅子から落ちて尻餅をつく。何が起きたのか分からず、ただ呆然とそれを見上げていた。
天井まで届くような、巨大な人影。
黄土色の肌をしたそれは、急に現れてぴくりとも動かず、二つの窪んだ穴から私を観察していた。
しばらく放心状態で見合ってから、やっとのことで喉を振り絞る。
「…あ…あなたは…なん」
「それ以上語りかけては、いけないよ」
布で柔らかく口を塞がれる。
紋様の入った仮面がすぐ隣で巨人を見据えている。
いつの間にか現れた先生は布を離し、膝をついて私の肩を叩きながら、宥めるように告げた。
「ゆっくり。深呼吸をしようか。君が心を乱すときっと彼も反応するだろうから」
深く息を吸って吐く。癖になっている行為を、意識的に繰り返す。
鼓動を落ち着かせてから、先生が巨人に触れるよう指示した。恐る恐る手を伸ばす。温かい。表面はつるつるしていて何故だか手に馴染んだ。
昨日教えられた、魔術を終息する手順をもう一度言われる。今度は目を閉じることなく、巨人を見据えながら、彼を覆う力の流れを解いていく。
みるみるうちに、巨人は縮んでいった。そうして後に残ったのは、二つ宝石のついた、蓋の付いた手鏡に見える球体。
私のお守り。
慌てて手に取る。何の異変もない。安心して両手で握りしめた。
「…それは」
「なあに、今の」
問いかけようとした先生の声を、平坦な声が遮った。
振り返れば魔術師が扉の近くにいた。
「…エルム。お前はもど」
「何があったか解説していただいていいかな、先生」
「…彼女が。おそらく教本に書かれていた呪文を発動させた。その結果魔法が具現し……鳴動が起きた」
「でもそれっておかしくないかな。だって人間は魔法を使えないよ。だから魔術があるんでしょう。人の身一つで成したとでも?何の準備も素材もなく、ただ唱えただけで?」
魔術師は、平らな抑揚で喋り続ける。顔には笑みがある。いつものように明るい笑みが。しかし、声はいつもの高調子と明らかに異なっていた。
不意に先生が体をびくりと震わせた。そうして、焦ったように立ち上がる。私を一瞥してから歩き出し、佇む魔術師の腕を強引に取った。
「エルム。こちらへ来なさい。お前にはやることがあるだろう」
「なあにそれ。今度は何を切り分けようっていうの。それより僕は彼女のことが気になる。何だろうねこの感覚は、生まれて初めてだ」
「いいから来るんだ…!」
珍しく声を荒げた先生に引きずられて、魔術師は退室していく。
扉が閉まる直前に、私に視線をやると「紫色かあ、綺麗だね」と平坦な声をしながら笑った。
「…先程は、部屋に押しかけてごめんね。その後、変化はないかな」
夕方になってから、先生は客間を訪れた。
起床時のメイドさん以外、彼らは勝手に部屋に入ってくることを絶対にしない。しかしさっきのは特例も特例。仕方のないことだ。私だって、あの巨人が何なのか分かっていないのだから。
お守りは相変わらず懐にある。何歳に得たかも朧げなほど、私と共にあったもの。決して危険物などではない。これがなければ、心が揺らいで寝られなかった夜がどれだけあっただろうか。
没収を警戒する私に、先生は穏やかな雰囲気で「あなたの嫌がることはしないよ」と諭してくる。
「ただ聞いておきたいんだ。あなたは、それをどこで手に入れたのか」
「…貰い物です。小さい時に…おじいさんから」
そうか、なら、無関係かな、と小さく呟いて、「そういうこともあるのだろう。あなたの魔力は強い。その教本は魔力を基とする種族が製作したもの。二つの要素が組み合わさって発動した可能性がある」と教えてくれた。
「過去に同じようなことが発生していないのなら、条件を揃えなければ暴発を心配する必要もないだろう。…急にたくさんの魔力を使ったから、疲れも出るはずだ。この後はゆっくり休むんだよ」
「…はい。ありがとうございます」
先生は、私に対してどこまでも優しい。
立ち去ろうとするので、引き止める。
「…魔術師様は、どうされていますか?」
「…エルムのことは、気にしないでいい。何があろうと…手出しはさせないから」
そういうことを聞きたいのではなくて、という反論が実際に口から出ることはない。
自分を抑え、意志を持たず、ただじっとし続けてきた私は、他者への干渉というものにあまりにも踏み込めない。
先生は今度こそ部屋を出ていく。懐にあるお守りをぎゅっと握りしめて、私は大きく呼吸をした。