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余談:エルムとライラの人形劇

センシティブな要素が含まれます。超蛇足です。ご注意ください

 魔術師は、切り分けられていた全ての心を取り戻した。

 それによって先生が自我を失うということもなく、激動が襲ってくることもなく、私達は穏やかな日々を過ごしている。


 大きな変化はないけれど。

 全く何も変わっていない、というわけではない。

 全部回収し終えて、魔術師…エルム様は、やはり、以前と少し異なっている。


 具体的に言えば。

 距離が、遠くなった。

 精神的なものではなく、物理的に。


 今までは、間近で瞳を覗かれたり、耳元で囁かれたりしたこともあったけれど、それが、全く無くなった。

 当初こそ「可愛くて直視できない」「はわわ不意打ちで近寄られると心臓が破裂しちゃう」と声高に主張し身を捩らせていた彼だけど、やがて次第に、見たことのない落ち着きを身につけていった。


 先生にあった”道徳”。それが戻されたことによって、彼は、適切な距離感というのを保つようになったのだ。彼は悪くない。

 そう。

 だから、悪いのは、侘しいなんて感じる私だ。




「はあああ本当に嬉しいです…!ずっとずっとお邪魔したかったんです何度この地に足を運んで森の前で立ち尽くしたことか…!魔術のまの字も存在しない国において独学でここまで品質の高い魔道具を作り上げるなんて正に偉業…!神の領域…!」

「こちらこそ、いつか会ってお話してみたいと思っていました魔術協会の会員様…!とっても糧になります!どうぞこの天才の養分になってくださいませね!」

「是非に!是非に!」

「どこまでも許容してくれるなあこの人」


 わざと傲慢な言い方してるのに、と最近口癖のようになった文言をエルム様は笑顔で呟く。

 話し相手として対面して座っているのは、魔術協会の理事の一人であるという男の人だ。年齢は彼より高いが、それでも魔術協会の上層としては最年少らしく、好奇心旺盛で全く臆さない。

 少し、彼と似ているところがあると思う。だから気が合うのだろう。


「ああっ欲が溢れる!高まる!もうこんな大きいだけの国捨ててうちに来ませんかエルム殿!!」

「ところであなたが開発されたという天候操作の術式を拝見しましたが、なんだか途中途中で飛躍していませんでしたか?それなのに成り立っている理論が少々理解できず…」

「えっ?むしろこちらとしてはエルム殿にそれを言いたいくらいですよ、あんな混迷な構築式を道具一つに収められる訳が分からず…」

「いや私のは極端に理詰めしているだけで言わば1足す1足す1を永遠に重ねているようなもので…」

「こちらとしてもヨル理論とヤクシャの魔動法則とメンサスコンサスを繋ぎ合わせているだけで難しいことは何も…」

「その理論がそもそも理解できずそれに黎鉱石を割ったら雲が集積するのは何故なのかが…」

「それはそういう特性があるからというだけでそれ以上の説明は…」


 何が何だか分からない。

 そんな二人の会話を、私は遠くの方から眺めている。

 話の内容は理解できないけど、彼が楽しそうなのは見て分かる。他者との関係を絶っていたから、こうやって対等に議論をして盛り上がるなんてこともなかったのだ。当然だ。

 勝手にもやもやした気分になる私がおかしいのだ。


「…というわけで、今後は是非とも装備していただきたく……あの、ライラ殿?」

「…え、あ」

「ご了承いただけたのでしょうか…?」


 しまった。せっかく私にも話をしに来てくれた人がいるというのに、気を逸らしてしまっていた。

 泡を食う私に代わり、同席していた先生が「検討させていただきます。とりあえず、お預かりまでに」と返事をしてくれる。

 人以上の容量があるとされる私の魔力の流れを測って分析するために、魔術協会の人が装備品をくれるという話だ。遠くの彼が気になって集中を切らし詳しい説明を聞き漏らしてしまった。不慮にも程がある。


 ではひとまず、と差し出されたのは、白濁色の石がついた指輪だ。以前、エルム様と一緒に魔力量を見てみようとした時に触れた石と同種のようだ。

 それを受け取り、感謝の言葉を口にして頭を下げると、即座に否定が入る。


「いやいや、感謝すべきはこちらの方です。まさか奇才の魔術師の元に、人と信じられぬほど甚大な魔力の保持者がいるとは…挙句の果てに古文書を容易く読み解く能力までお持ちだなんて…。特別な存在の元には特別な存在が集まるということでしょうか。その稀有な瞳といい、非常に探究が捗る。我々は幸運に恵まれています」

「…お役に立てたなら良かったです」


 忌まわしくて、なければ良かったと何度も思ったものだけれど、こうして有意義に扱ってもらえるのなら何よりだ。

 先程までの醜い感情がちょっとだけ紛れて、私は穏やかに唇を結ぶ。

 すると、目の前にいる人が小さく息を飲んだ。

 何事かと驚いて問いかける。壮年の男性は慌てて首を振り、「失礼。あまりに可憐だったもので」とよく分からないことを言い出した。

 理解できない私の表情を読んだのか、男性は訝しげに眉を寄せ、先生に視線を送る。先生はこともなげに頷き、「嘆かわしいことに自覚がないのです。不遇な生い立ち故。ですからどうかはっきりと言っていただければこちらとしては非常に助かる」と真面目に教示した。何の話だろうか。


 なるほど、と男性は重々しく納得し、「分不相応とは思いますが、外部の一意見として申し上げましょう」と何かを承諾した。改めて私に向き直る。


「ライラ殿」

「はい」

「貴女はとても可愛らしいですね」

「…………」


 何を言っているんだろうか。

 エルム様ならともかく。こんな初対面にも近い、格式のある堅そうな人が、わざわざ冗談を口にするはずもないし。場を和ませる一言としては不適切だし。

 ……まさか本気で言っているのではあるまいか。


 固まる私に、男性は助けを求めるように先生を見やる。先生は「助かりました。エルムの言葉では軽くて信用に足らないので」と全くふざける様子もなく握手を交わした。「世界有数の魔導人形と触れ合えるなんて…!」と今日一番の興奮を滲ませつつ、男性は私の後ろを見て「それでは馬に蹴られたくないのでここで失礼します」と速やかに退去していく。

 いつの間にか、エルム様が背後にいた。


「何のつもりかお聞かせ願える?」

「お前では為し得ないことを依頼したまでだ」

「そう。まあいいけど」


 無表情で先生との問答を終えると、彼は笑顔に戻って「誰だろうとライラくんが喜んだら何より!ではでは僕は議論の続きといきましょう、用意は宜しいですか魔術協会の先鋒様…!」「準備万端ですよ奇才の魔術師殿…!」と男の人との白熱した対談を再開させる。


 …よく、分からない。自分の気持ちも、彼の気持ちも、皆の気持ちも。

 動揺を押し沈めつつ、私は渡された指輪を手に取り、鈍い輝きを放つ魔石をなぞって静かに息を吐いた。




「結局ねえ、臆病者なのよ!」

「そうかなあ。むしろ思い切りが良過ぎる性格だと思うけどねえ」

「極端というかチグハグになってる感あるわな」

「高過ぎる理想と子供のままの感性ぶち込んだらそりゃ闇鍋になるザマスよ」

「だから、臆病者なのよ!いっそ一線超えたらいいんだわ!」

「大丈夫?エルムの心の影響残ってない?」

「ゆうてエルムの性欲なんぞちりじゃろあの母親の息子じゃぞ」

「でも実際一回やってみたらいいんじゃないザマス?媚薬盛ろう媚薬」

「いや〜効果薄いじゃろ。あの母親の息子じゃぞ」

「ううん確かに…」


 魔術協会使者との定例会が終わってから、エルム様と先生を除いた皆が食堂に集まって何かを話している。

 私が来たのに気づいて、彼らは「あっいいところに!」「意見聞かせて」と嬉々として招いてくる。

 仲間外れにされなくて嬉しいけれど、ちらっと耳にした内容から察するに、私が聞くべきではない話のような気がする…。


「単刀直入に質問!ライラはエルムとセッ」

「こら!直接的な表現は駄目だよ!」

「おおっあの温和なコックが怒鳴っとるぞ」

「お下品ザマスよ〜」

「えっでも十六歳で婚姻とか普通じゃないの?大体そこらへんって聞いたわよ?」

「いや、だとしても…」

「普通ザマスねえ。何なら十三歳で懐妊させた貴族とか…」

「うおおグロい話は流石にアウトじゃろ!」


「全員まとめて地下室送りにしてあげようか?」


 何だか既視感のある光景だ。

 地を這う低音が、彼らを一喝して制御しにくる図。

 以前と違うのは、彼らは、先生に断固として反抗の意思を示すことだ。


「うるさーい!大体あなたのせいじゃない!」

「言ってることは間違ってないけどねえ」

「倫理観なんぞゴミ箱に放り入れるぞい!」

「あーたがもう少し柔軟な感性に成長してたらエルムも急に身持ちを固くしなかったんじゃないザマス?」

「私のせいにされるのか…」


 困惑したように先生が呟く。次いで彼らの輪の中にいた私に目を止め、「教育に悪いから聞いてはいけないよ」と優しく引っ張り出してくる。


「…あなたはあなたのままいてくれたらそれでいいんだ。エルムもそれを望んでいる」

「何大人ぶってるのよ!」

「聞こえはいいけどねえ」

「そういうの押し付けって言うんじゃぞ~、自分の望みしか考えとらんの自覚せい」

「ライラの気持ちも考えるザマス〜」


「…では聞くが。お前達はこの清廉で可憐な少女が、あのエルムに、恩人や親といった保護者に対するような感情以外を抱いているとでも?」


「あるでしょ!」

「それは…ううん…どうかなあ…」

「崇拝はしてるけど恋愛じゃないじゃろ」

「あるザマショこれだから男は!」


 意見が真っ二つに割れた。そうして絶句する私をよそに大喧嘩が始まる。


「最愛って言葉の重み分かってないんじゃないの!?」

「まだ幼い子なんだからそうやって決めつけるのは…」

「憧れと恋愛は別物じゃろ都合が良いから勘違いさせたまま放っといとるだけじゃて」

「いや同種ザンショ女が覚悟決めて男と添い遂げようってんだから無粋な口出しはやめるザマス!」


「要するに。あなたは、まだエルム以外と正常に関わった経験が少ない。選択肢を狭めるべきではない。広い世界に羽ばたいて、色んな人と知り合ったら、エルムなんて碌な男じゃなかったと気づく可能性もある」


「何なのよ何がしたいのよとーっても腹が立つんだけど!」

「なーに経験豊富みたいに装って偉そうに語ってるザマス!」

「いやでも正論じゃないかなあ…」

「ま〜視野広げるのは悪くないじゃろ。このままじゃ洗脳監禁みたいなもんじゃしの」


「だからって…!」

「いやでも…」

「それはそうとして…」

「つまるところは…」


 しばらく後、結論が出た。

 ライラには、一定期間、魔術協会本部の方に遠征してもらって、色んな人間と交流をしてもらう。

 そうして、人を見る目を養ってもらい、本当にエルムという男でいいのかを査定してもらう。


 怒鳴り合いと煽り合い、壮絶な揉め事の末、彼らが疲労困憊で導き出した結論に対して、私は、


「い、嫌です」


 拒絶以外に答えがなかった。




 エルム様は、最近よく使用されるようになった私室(以前は作業場に入り浸りな故、滅多に滞在していなかった)で魔術書を読んでいた。

 あの男の人にもらったものだろうか、深く集中して文字列を追っている。

 しかし私が近づくとすぐに顔を上げ本を置き、笑顔を見せてくれた。


「やあ。どうしたのかな。少し疲れた顔をしているね」

「…お願いが、あってきました」

「何かな」


 息を吸って、震えないように努めて告げる。


「私をあなたのものにしてください」

「無理です。君は物じゃないので」

「…うう…」


 脱力する私に、エルム様は「急にどうしたの、何か吹き込まれた?駄目だよ、簡単に丸め込まれちゃ」と優しい声をかけてくる。

 おいでおいでと手招きするので、彼の隣の椅子に大人しく腰掛けた。以前だったら詰められていた距離は、隙間が空いて、空気を通り抜けさせる。

 どうしても、駄目だった。


「…私は、あなたに、あなただけに、全て捧げたいです」

「うん。僕も君のためならなんでもあげるよ」

「…でも、触れてはくれないのですね」

「そうだね。うら若いお嬢さんに気安く触れるものではないよ」

「…どれだけ頼んでも…駄目ですか?」


 エルム様は黙って私を見下ろす。ブラウンの猫目は、僅かに細められて、何かを見定めるかのように私を覗いている。


「…もしかしたら…私に触れたら、あなたは、不幸になるかもしれないけど、私が幸せになった分、呪いで死んでしまうかもしれないけど、それでも…」

「まだそんなこと言ってる。偶然だって言ったでしょう。君は何も悪くないよ。仮に本当に君に触れることで不幸になるのだとしても、僕は地獄に落ちたって構わないよ」

「…それなら…どうして、駄目なんですか?」

「……」


 笑顔を消し、しばしの沈黙を経てから、彼は答えた。


「君が真に心から望むなら、僕は全て叶えよう」

「…本当に?」

「何であろうと、絶対に」

「…手を、握ってくださいますか」


 指が触れた。いくつもの奇跡を生み出してきた、偉大な手だ。それなのに形はほっそりとしていて、でも長い。爪が少しだけ割れている。魔道具製作の勲章だろうか。

 同じ部位なのに、彼と私のものは骨の太さも力の強さも全然違う。たくさん触れ合う箇所から温度が伝わってくる。

 ふと、指の動きが止まった。私の手にある異物をなぞる。

 魔術協会より先刻いただいた、魔石の指輪。彼はそれを無言で引き抜くと、ぽいと地面に投げ捨てた。


「あっ」

「もっといいものをあげるよ」

「い、いえ、そうではなくて…壊れてしまったら良くな…」

「おかしいね、君の方から言ってきたのに。僕は今、君のことだけ考えてるけど、君は僕のことだけ考えてはくれないの?」

「…っ」


 己の無自覚な傲慢さに気付かされて息を飲む。それと同時に、本当に唐突に、手を離してエルム様が「キャーッ」と奇声を上げた。


「んもーやだやだ!聞いた今の!?とんでもない自分勝手な発言したよこの男最低だったよこの男!傷ついたよね、ごめんね、これだから僕ってば!いやあ申し訳ない。ご気分を害してしまってどうお詫びしたら良いか」

「ま、待ってください」

「勿論勿論、君のためなら幾星霜!とはいえ流れというものもありますので、僕は一旦ここらでおさらばご退場」

「待ってください!」


 私の大声に、彼は陽気な言動を静止する。目を閉じ、片手を顔に当てると「勿論、待ちますとも」と低く答えた。


「……今…逃げようと、なさりましたか?」

「あわわ見抜かれてる。ちなみに今のも逃げようとしている発言。場の空気を壊して有耶無耶にするための策略」

「…どうして、そうするんですか?」

「醜いから」

「醜くなんて」

「こんなの初めてだから。今まで誰にも執着しなかった。甘い言葉をかけるのも抱き寄せるのも何も感じず平気にできる。それなのに君相手だと調子が狂う。まるで色狂いの愚か者のようだ。年端もいかない少女相手に余裕をなくして酷いことを当て付けるような未熟者なんて醜悪過ぎる。そんな人間にはなりたくない。相手の隅々まで独占したいと狙うような気持ち悪い男にはなりたくない」

「…じゃあ、私は、気持ち悪いことになります。お揃いですね」

「……」


 片手の隙間から、ちらりと目が覗いた。


「…僕は今から醜いことを言います」

「どうぞ」

「君が他の相手に笑っているのを見て不愉快になりました。あとよく知らない人が可愛いって君を褒めてるのを見て複雑になりました」

「私もです」

「ええ…?いつ…?」

「魔術協会の方相手に、議論されている時です。楽しそうで、もやもやしました」

「なるほど…」

「それに、私、他の方に可愛いって言ってもらえても、なんだかあんまり嬉しくなかったです」

「えっそうなの」

「目を見れば分かったでしょう」

「ごめん視野狭くなってた…情けない…。けど」


 ひょっとして人間にはよくあることなのかな、と押し殺した声色で独り言のように溢す。

 そうですよ、と私は肯定した。

 それならいいか、と彼は深くため息を吐いた。

 次に、片手で私の手を握った。もう片方は緩やかに私の髪を撫で付けてくる。優しく指に梳かれ心地良くて目を細めずにはいられなかった。

 愛おしむような動きとは裏腹に、彼は冷酷なことを口にする。


「正常な判断をするならば。君をここに縛り付けるべきではない。君は世界に羽ばたいて活躍できる人だし、外界を知れば、大量虐殺の大罪人などよりよほど良い相手を見つけてくるだろう。きちんと他の人と交流して価値観を養って、明るい世界で生きていってもらうのが正しい」


 先生と同じことを言う。先生の中にあった”道徳”がちゃんと彼に返却されているのがよく分かる。

 一呼吸の空白の後、私の手に被さっている指に、力がこもる。


「でも嫌です。離したくないです。ずっと一緒にいて欲しいです。僕だけ見ていて欲しいです。依存して欲しい。僕にだけ笑ってほしい。もし君が幸せになることで誰か死ぬのならそれは僕であって欲しい。ああ…」


 ああ醜い。

 吐き捨てて、彼は絶望したように首を振ってから、私の掌を両手で包み込んだ。

 私は彼の言葉を受けて、堪え切れずに思いを漏らす。


「なんて素敵なんでしょうか」

「ああ駄目だ。既に洗脳されている。碌にまともな人間と関わってこなかった状態で会ったから僕相手でも最高の男かのように錯覚している。本当はもっともっと幸せになれる子だろうに。僕だからここで行き止まりだ」

「至上の幸せです」

「…ああ。どうかずっとそのままでいて。僕の手の中で、ずっと」


 彼の長い指が私の頬に添えられてくる。

 私の方が平熱が高いからか、彼の指先に触れるとひんやりしていたはずなのに、今は溶けるほど熱かった。


 ブラウンの瞳は、かつてとは異なって色んな感情を宿して私を見下ろしている。他の人間にそういう目を向けられたら怯えて息をひそめるしかなかったのに、彼の目だと、不思議なことに何の忌避感も抱かなかった。

 むしろもっと色んなものを見せて欲しいと、ねだるように身を寄せた。彼ももしかしたら私と同じ気持ちなのか、近頃開いていた距離はあっという間に縮められ、融解するほど密着し、それ以上、遠のくことも近づくこともできないほどに、結び留められた。








 ある日のことだった。エルム様の母である公爵夫人に似た相貌の女性が、彼のいない隙を見計らって館にやってきて、私に捲し立てた。

 彼は、本当は「エルム」という存在ではなく、そういう役を演じているだけで、実際のところ私には何の感情も抱いていないのだと。

 全ては嘘で、仕組まれていたのだと。

 彼には、心がないのだと。


 女性は私の返事を聞くと慌てて走り去っていったが、その直後、エルム様が館に戻ってきた。彼女が密かに訪れていることを承知の上で、様子を伺っていたのだった。


「なんだか興味深い話をしていたねえ」

「はい。真に迫る物語でした」

「確かに、僕の生まれた時の名前はエルムではない。ずっと嘘をついて、騙していたわけだ。君は僕を嫌うかな。これでも好きでいてくれる?」


 返答の代わりに、彼の腕を引っ張って踵を上げた。彼は意図を悟って背を屈めてくれる。

 薄い唇が、私のものと触れ合う。一度くっついてしまうとなかなか離れないから息継ぎが大変だ。

 瞳は閉ざされることはない。私も、彼が見ているから決して閉ざさない。

 しばらく後、足の力に限界が来て膝から折れそうになるのを、彼が抱き上げた。

 腕を彼の首の後ろに回し、至近距離にある耳に囁く。


「当然のことを聞かないでください、エルム様」

「ライラくん、こういうのは何回聞いても良いんですよ」


 囁き返され、きょとんとした顔を向けて、彼もきょとんとした表情を作るものだから、おかしくて、二人して笑い合った。

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