17終幕
じゃあ行くよ、と彼が明るく声をかけた。
先生が緊張した面持ちでそれを待つ。
大きなハサミが先生の胸元に器用に添えられ、銀を断ち切るべく振り下ろされた。
鋼鉄の音を響かせて、刃は止まった。
「あちゃあ。また失敗だ。全く過去の僕ったらとんでもないもの作ってくれちゃってもう!」
「…絵面が怖過ぎるから別の形状にしてくれないだろうか…」
「ええー、でも切るってなったら鋏でしょう?あっ鉄の蠍作る?質より量で攻めるとか。大量の蠍を身に纏う先生!カッコイイ!」
「…笑えない冗談はやめてくれないかな…」
嘆く先生に彼は朗らかに笑い、私を見ると「カッコイイと思うよね?」とウインクして同意を求めてきた。
正直な気持ちで返す。
「想像すると…拷問みたいですね…」
「確かに虫が苦手だったら拷問だね。僕の時は使われなかったけど、苦手じゃないって知られてたのかな?全身を針で刺されたりとかはしたんだけどなあ」
「…反応に困る受け答えは止しなさい」
現在、私達は先生の中の水晶を縛る鎖を切るための方法を模索している。
私が魔力を費やし干渉すればおそらく以前のように成功できる、しかしそれを絶対に彼らは許してくれなかった。
例の一件以来、私は魔力の行使を監視下で制限されている。元々自分だけで魔術に挑戦しようとすることはなかったのでほとんど変わりはないが、何かにつけて彼らは私を心配するようになった。
ゆっくり寝て、いっぱいご飯を食べて、適度に散歩して、ストレスのない生活を送るように推奨してくる。
…やっぱりあんまり変わりはない。
朝はメイドさんが起こしに来てくれる。彼女の助言を受けながら身支度を整える。食堂でコックさんの作ったご飯を食べる。先生から魔術の授業(座学)を受ける。魔道具の試作を手伝う。
以前と違うのは、彼が、皆と一緒の時間を過ごすようになったこと。
メイドさんと張り合うように私の服を選んだり、コックさんと並んで料理をして、私の隣でそれを食べ比べたり、先生の魔法の解説に「素人質問で恐縮ですが」と挙手したり。
人形を地下に閉じ込めて私と過ごしていた、穏やかだけど儚かった日々とも違う、日常。
魔術で心を切り離し隔絶し続けていると、定期的に虚脱感に襲われ動けなくなる。それは、先生の中に彼の心の一部がある現状も変わりない。虚無の時間は回数を増すごとに長引いているから、放っておけばいずれ命に関わる。
しかし、それを私に隠し、ただ大丈夫だと諭していた頃とは異なり、彼は事前に助けを求めてくれるようになった。
表情を失って横になる彼を目にすると泣きたくなるけど、かつてとは違って、私の周りには先生もメイドさんもコックさんもいて、賑やかに看病を手伝ってくれる。時間が経てば再び彼は回復して、先生の鎖を断つ術を思案し始める。
色んな案を思いついて、色んな方法を試してみたけど、どれも切断には至らなかった。
ライラくんがどれだけ規格外だったかよく分かるね、と彼は笑う。
私も私で、安定して魔力を操れるように少しずつ知識をつけている。いずれは鎖を溶かしても何の揺らぎもこないような量の魔力を身につけたいとは思うが、それをするには時間がかかり過ぎて、解決策には入らない。
進歩の少ない日々の中、長期外出に勤しんでいた二人組が、帰ってきた。
「帰ったぞーい!サプライズじゃ〜!」」
「もう鎖国終わったから構わないザマショ?助っ人ザマス〜!」
それも、大量の人間を引き連れて。
魔術協会を名乗る彼らは、ご主人と奥方に案内されて、ぞろぞろと敷地内に整列していた。
玄関にて先生が苦々しい顔で「お客様が来るなら事前に通達しなさい」と叱る。二人は「でも伝えたら拒否したじゃろ?」「あーた保守的ザマスもんねえ」とそ知らぬ顔で言い放った。
肝心の彼は、たくさんの人間を前にして茶色い猫目にキラキラした光を輝かせていた。
先生が止める間もなく、彼は陽の光の当たる場所に身を投げ出していく。
人間が大好きなんだ、と言っていた彼の声が脳裏に浮かぶ。
信頼していた恩人に裏切られ、人と関わるべきでないと距離を取っても、彼は決して人間を嫌悪することはなかった。
彼は、本来人に囲まれるべき人で、人と何も問題なく交流できる人なのだ。
「やあやあよくぞいらっしゃいました、御足労いただきありがとうございます!私はエルム。稀代の魔術師です。不肖の天才ゆえ持論をご理解いただけるかは分かりませんが、せっかくの機会、是非とも有意義なものにしたい!」
独特な挨拶を朗々と告げた青年に、人々は驚いた表情で固まった。しかしすぐに、我先にと取り囲んでいく。
「あ、あなたがご本人でしたか!」
「何卒!何卒入会を!」
「魔道具を拝見しました、術式があまりに混沌としていて仰る通り理解が及ばず!是非に解説を!」
「あら予想より柔軟な方々」
わざと傲慢な言い方したのに、と首を捻りつつ、彼は「まあいいや。それなら取引と参りましょう。私が説法する代わりに、あそこにいる先生を縛る鎖を解く方法を考案いただけませんか」と早速本題に入った。
人々は扉から半分だけ姿を見せていた先生に目をつけ、一斉に駆け寄ってきた。あれよあれよという間に先生は人の群れに覆われてしまう。
「これが人形!?この肌の感触で?!紫角猪の皮膚…いや白蛙の皮…いや植物性…?」
「オド性質の応用…?違うな…バラバラ過ぎるどうやって繋げてるんだこれ」
「魔水晶に感情を切り分けて核として動かしてる!?」
「意味分からん!」
「…同時に喋るのはやめていただきたいのだが…あとあまり触らないでほしい…」
なんだか大変そうだ。
ご主人と奥方の影に隠れてこっそり様子を伺っていた私は、背中を叩かれて思わず肩を跳ねさせた。
いつの間にか彼が白髪を揺らして私を見下ろしていた。
「君も、皆と話してみる?」
「…少し、怖いですが…」
怯えてばかりもいられない。
私の答えに、彼は猫目を細め、優美に微笑みかけた。
そうして、先生をもみくちゃにする人々に明朗な声を響かせる。
「さてさて。少しご紹介させていただいてもよろしいでしょうか」
何事かと彼らは視線をこちらに向けた。
たくさんの目が、集まってくる。
上級貴族の面々が押しかけてきた時も、同じ状況にあった。あの時はなんとか乗り切ったけど、結局苦手なことには変わりない。
無意識に手が何もない懐を探り、俯こうとする私の顔を、彼は間近で覗き込んだ。
どこか懐かしい距離感。息を飲む私に、「大丈夫」と何よりも優しい音で導く。
そうして、人々に向き直って宣言する。
「彼女はライラ。強大なる魔力を会得した女性で、私の最愛の人です」
「…ご紹介にあずかりました。ライラと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします…………えっ!?」
「えっ、なになに、どうしたの?」
「さ、さいあ…え…!?」
「えっえっえっ?なに?なに?」
二人して混乱していると、険しい顔をした先生が割り込んできた。
どうせお前が何かしたのだろう、と彼を詰問し始める。今は何もしてないよ見てたでしょう、と焦って彼は言い返した。二人の言い争いを止めることもできず、私は目を白黒させるばかりだった。
「め、目が…目の色が…!?」
「魔力反応…!?人の身で…?いやしかし海外の記述によれば過大な魔力を宿し起床ごと髪質が変わるも幼くして亡くなった子がいるとか…」
「確かに。魔力で硬化した指を持って生まれ侵食に耐え切れず斬り落とした例もある」
「ごく稀に生じる変異体の話か。人の身に余る力を授けられ生まれ落ちるも、体内に溜まり続ける魔力に器が耐え切れなかったものたち…」
「いずれにしてもデメリットが大きく十歳に至る前に皆命を落としたそうだが…」
協議する彼らをよそに、私達はわちゃわちゃとやり取りをする。
ライラくん、どうしたの、何をそんなに動揺しているの。
い、いいえ、その、ごめんなさい、いつものご冗談を間に受けてしまっただけです、どうかお気になさらないでください。
冗談?お前一体彼女に何を囁いたんだ。
ええっ何も言ってないよ、聞こえてたでしょう?さっきの通りですよ!
焦る彼。恥じる私。怒る先生。
終わりの見えない押し問答は、呆れ果てたご主人と奥方が「あーもー若造共いい加減にせんか!」「惚気は初見のいないところでやるザマス〜!」と鶴の一声を上げるまで続いた。
庭先へと移動した。
魔術協会の人達は、現在、先生に作業場を案内されているところだ。
本当なら彼が主導するはずだったけど、「ちゃんと彼女に謝ってから来なさい」と叱られて、私と一緒に遠ざけられた。今頃先生が彼らにどんな扱いをされているか考えると心配になるため早めに合流したいが…。
「せっかくだから少しお散歩でもしようか」
館内を気にしている私の気を紛らわせるように、彼は門の向こうを指差す。
彼は、いつも館の中にいた。魔道具作りに没頭していた。外に出るのは人形に任せ、外界を遮断し続けていた。
そんな人が、誘いをかけてきてくれている。私は即座に頷くと、彼と共に敷地を出た。
こうして外に出るのは、おめかしをして先生と出かけた時以来だ。もう服にも靴にも慣れているから亀が這うようなスピードでしか歩けなかったあの時とは違って余裕がある。
以前は箱型の転移魔道具で森を抜けたが、今回は徒歩。ゆっくり見回しながら歩いていると、前は見落としていたものにも気が付く。そこらじゅうに立ち入り禁止の札が立てられていた。これを全部無視して奥に入り込むのは少しでも良識がある人には無理だろう。
あれも取っちゃわないとねえ、と私の視線を追って彼がのんびりと呟く。
「若気の至りというやつですね。誰にも触れられたくなかったお年頃…!」
「…そういえば…聞いても、いいですか?」
「どうぞどうぞ。何かな?」
「結局、今は…おいくつなんですか?」
「今年で二十三になります。終戦が八年前だからちょうど君と同じくらいの年齢にこの一帯の持ち主になったわけですね、えっへん」
胸を張って自慢する。八年。その年月を、少年だった彼は一人で過ごしてきたのだ。誰に気遣われることも、優しくされることもなく、たった一人で。
物悲しい気持ちになる私の顔を、彼が覗き込んできた。
「綺麗な色。でもどうして?何か悲しいことあったかな?ハッ思ってたより年上で萎えちゃった?もしくはその逆?ごめんねいくら僕でも年齢操作は不可能…!時は不可逆…!でもいつかは作りたい時間超越装置…!」
「な、何でもありません!大丈夫です!」
必死で否定すると、不意に彼が唇を耳に寄せてきた。
「…気遣われるべきなのも優しくされるべきなのも、君の方がよほど相応しいからね?」
ど…どうして考えていることが分かったのだろう。しかも語句まで…。
唖然と見返す私に、彼はにっこりと笑って「さあさあもう少しで森を抜けるよ」と手を引いて導く。
木々が失せて、広がっていた景色に見覚えがある。
鏡のように空模様を反射する湖。今日は、抜けるような青を一面にたたえていた。
魚の一匹も泳いでいない、何も生物が存在していないような静寂。この世界に、まるで二人きりのような感覚を覚える。
彼は、一度目線を伏せてから、私に向き合って穏やかに告げる。
「またいつか自分の目で見られたらって、思ってたんだ。いやあ何も変わらず綺麗なままだ。お付き合いさせちゃってごめんね」
「いえ、私も…また見たいって、思ってました」
前回は、先生と一緒に見た。そうして、彼の過去の断片を聞いた。当時受け止めるには重くて、どうしようもなく心を乱してしまったけど、今なら、受け止めることができるはずだ。
気持ちを作る私に、けれど彼は己の昔話についてなど一切触れることなく、言い出す。
「さてさて。さっきの続きです。何やら君を動揺させるようなことを安易に口にしてしまったようで。何かごめんね?」
「そ、そんな、あなたが謝られることでは…!」
さっき。人々の前で、彼の言葉を聞いて茫然自失してしまった件。
全部私が悪いのだ。いつもの軽口を間に受けてしまった。
彼も、首を捻って「とはいえ僕何か悪いこと言ったかなあ」と考えあぐねている。
否定するべく毅然と口を開いた。
「あなたは何も悪くありません、どうか気にしないでください」
「でもでも、何があったかは気になるよ。幻聴?それとも過去のフラッシュバック?教えてはいただけないかな」
「…さ…」
「さ?」
「…最愛の人、と言われて、びっくりしただけです」
言葉に出すのも恥ずかしい。
彼にとっては何の特別性もない、ただ文面を装飾するための語句に過ぎないのに、何を勘違いしているというのだろうか。
以前、私は彼に「最愛の人」と伝えた。彼はそれを踏まえてくれただけだというのに。
恥じ入る私を、彼は無言で見つめ、やがて「なるほど」と静かな音程で溢した。
「僕の言葉は軽いからそうなるのも当然だ。配慮が足らなかった。ごめんね」
「い、いえ、どうか謝らないでください。悪いのは全部私で…」
「考えてみよう。言葉でなく行動で示す場合、何が適しているだろうか。熱烈なキスを捧げて息も絶え絶えにさせることはできる。髪を撫で頬を撫でくまなく愛でることもできる。肌を暴いて全身に愛を注ぐこともできる。盲目にさせたいならそれで構わないだろう。しかしそれらは何か違う気がする。気がするとはどういうことか、理論ではない、感覚、勘というものか。それを信用して良いものか」
「…あ…あの…?」
「一人では答えに辿り着かないなら相手に聞いてみよう。ライラくん質問です。僕が君を愛していると、どうすれば君は信用できますか」
「それは…信用しています」
「あれ…?」
じゃあ何がすれ違っているんだろう、と彼は口の中で呟く。
彼は、私を愛してくれている。正しく言い換えれば、好意を持ってくれている。それは、理解できる。だって色んなものを与えてくれた。私のために、涙を流してくれた。それは疑いようもない。
しかし、私が彼に抱いている「最愛」と、彼が持っている「最愛」は、きっと質が違う。
彼はおそらく、私を守るべき子供、弟子…というか、娘のように思ってくれているのではないかと思う。
私が勝手にドキドキしていただけで、彼は私に近寄って触れても鼓動に変化は生じなかったに違いない。
彼がじっと私を見つめている。綺麗なブラウンの目で、私の心を暴くように、覗いている。
今の私の瞳はどんな色をしているのだろう。お守りは破片も残さず崩れてしまい、供養として庭の花園にその塵を埋めたため、もう確認できない。水面に乗り出せば見えるかもしれないけど、それを彼は許してくれない。
「ライラくん。信用ならないと思うけどこれは嘘じゃないので嫌いにならないで聞いていただきたいのですが」
「嫌いになんてなりません」
「ありがとう。自分語りスタート」
久しぶりに見る無表情で、彼は語り出す。
「僕は欲求というのが実は薄い方です。かつて切り離したのは些細な雑音にもうんざりしていたからで、本来なら食欲も睡眠欲も性欲も余裕で無視できます。というかそもそも無視しなきゃならないほど湧いてきません」
「…はい」
「そんな僕ですが、対面すると唯一思考停止するものがあります」
「はい」
「君の笑顔です」
「は…え?」
「前に、人の笑顔は素敵だから僕は人間が好きなのだと伝えたことがありますが。誰かの笑顔ではなく君の笑顔が好きなのだと訂正したくなるくらいには惚れ込んでいます。助けてください。君と一緒にご飯を食べたいし君と一緒に眠りたいしずっと色んな君を見ていたいです。君を、生涯かけて幸せにしたいです」
「…………え?」
柔らかな風が流れてくる以外には何も動くもののない空間で、言葉もなくお互いに見つめ合った。
彼は、真っ直ぐ目を向けていた。そこには笑みもなく過剰な輝きもない。これが嘘であったら二度と人を信用できなくなるだろうくらいに、彼は真摯だった。
「君が好きです。君の笑顔が大好きです。君が笑うと、僕は幸せになれる。君は、僕の最愛の人」
「え…あ…」
「…信じていただけたかな?」
おもむろに破顔し、彼は私を穏やかに見守っている。
何か答えなければと必死に口を開くが、頭が混乱して考えがまとまらず声は出てこない。
ぱくぱく口を動かす私を、決して急かすことなく彼は待っていた。
「…あ…」
「うん」
「あり、がとう、ございます…あ…あり…」
気の利いた返事も浮かんで来ず、溢れ出すのは涙ばかりだった。
笑顔が好きだと言われたばかりなのに。求められているのはこんな泣き顔ではないのに。
泣きじゃくる私に、「おっと勘違いしないで。笑顔は大好きだけど、それ以外の顔も勿論好きだよ」と抜け目なく囁いてくる。ますます涙が込み上げてきた。
呼吸が忙しなくて返答が出てこないなら、体を動かして伝えるしかない。
私は、彼を抱きしめた。
ずっとずっと、彼が人形の口を通して提示していた願いを、少しでも満たせるように、想いが伝わるように、ぎゅっと力を込める。
彼は当初、それを微動だにせず受け入れていた。でもやがて、恐る恐るといった様子で、背中に手を添えてきた。
応じて私が力を入れれば、彼もだんだん力を込めて。
息ができなくなるくらい、抱き締め合って。
体勢を保てず地面に倒れ込んで。芝生にもつれて転がって、それでも離さず掻き抱いて。
土のついた頭を振って、鏡のような水面に、虹みたいな色の目をした女がいるのを見て。丸い目を見合わせて、泣いて、笑った。
ライラ視点はこれで終わり、次話で本編完結となります。