11お披露目
鏡に自分が映っている。
メイドさんにかつて教わった方法で紅を引く。時間はかかったけど、見れるものにはなったはずだ。
服の裾を手で払う。部屋にいくつも常置されていた高級品。自分で選ぶようになってからは恐れ多くて避けていたけど、今日はこれでなくてはならない。
肌色はどう見ても健康。最低限のものしか食べず縮こまって寝ていた頃と違って、生気に満ちている。
どこにも、見窄らしいところはない。
お守りに手を添える。鍵の形はもう解除されている。いつもの手鏡ではなく、二つの宝石がついたブローチとして、胸元に飾っている。
机の上にボロボロの絵本が置いてある。額を寄せて、感謝と決意を誓う。
意を決して部屋を出た。
「本日はお集まりいただきありがとうございます」
ルズベリー伯爵が朗々と告げる。場所は作業場の奥。広くて席も用意できるからお披露目にはちょうど良い。
鎮座しているのは上級貴族の面々。魔術を嫌い、国民の人気を集める魔術師を忌々しく思っている人たち。
彼らは得体の知れない魔術師ではなく、見慣れた伯爵が権利を得たことに安心した様子で相好を崩して見守っている。
しかしその中にも、一切の笑みもなく冷淡な面差しで傍観している二人組がいる。
金髪の恰幅の良い男性と、黒髪の端正な女性。参加者の中で最も身分の高い彼らは、油断も隙もなく、伯爵を見つめている。
それに気づいているのか、早口で伯爵は娘にまずは歓迎の挨拶をするように言った。
伯爵の娘ローザが、壮麗な花束を持って現れる。
可憐な笑みと共に、入婿の男性ではなく黒髪の夫人に対して花束を差し出す。
手の甲に書かれたメモにチラチラ目を落としながら、娘は口上を述べる。
「本日はご来訪ありがとうございます!この花のように美しい公爵夫人様のこと、心より、えー、お慕いしています」
「…そう」
夫人は、冷たい目線を娘に投げた。
「この花のように、ですか。貴女には私がこのように見えているのですね」
「勿論!」
「ご忠告感謝致しますわ、うら若きご令嬢。花の命は短いですものね」
「ええ!みじか…え?」
首を傾げ、ようやくローザは花束に視界を戻した。
夫人の手に渡った途端に枯れ果てた、茶色い残骸が、そこにあった。
「はあっ!?」
驚いて叫び後ずさる娘を見て、夫人は隣の夫ににっこりと微笑みかける。
「随分と面白い余興ですこと、ねえあなた」
「全くだ。笑い過ぎて涙が出てしまう」
公爵はちっとも面白くなさそうに妻に同意した。
目を白黒させ硬直するローザを伯爵が慌てて退場させる。会の順序を飛ばし次の魔道具のお披露目をしてとにかく場の雰囲気を戻すように命じ、娘は混乱しつつも用意された魔道具に手をつけていった。
空中遊泳のできるという靴は履いたものを天井にぶつからせ。勝手に使用者の髪をよき髪型にまとめてくれるはずの髪飾りは毛髪を引きちぎり。座り心地の良く自動で温度の調節ができるとされた椅子は、座るものの尻を燃やした。
失敗作ばかりじゃないか、と実験体にされた参加者たちは憤る。失敗作ではない、試作品だ。
ローザは「変なもの渡してきたお姉様のせいよ、どこ行ったのよ」と失態続きの現状に顔を真っ赤にし、伯爵は苦虫を噛み潰した表情で次策を講じている。
そんな中でもやはり、公爵夫妻は泰然と構えていた。何が起きようと冷ややかな目で傍観に徹している。
彼らが余裕をなくすことはないのかもしれない。本当は、もっと混乱して、考える余地のない状態になってから対面したかったけれど…しょうがない。
私は身隠しのマントを取り、大衆の前に足を踏み出した。
「これで、お分かりいただけたのではないでしょうか」
大丈夫。何度も校正して書き記して暗記した。暗記すれば、つっかえることなく主張できる。
突然どこからか現れた女に、参列者は驚きの視線を向けてくる。
伯爵は息を飲み、ローザは「えっなに誰」と眉を顰めた。
「公表前の魔道具は、魔術師様以外に扱うことはできません。そして、魔術師様は生きておられます。決して、ルズベリー伯爵に権利をお譲りすることはありません」
どよめきが会堂を支配する。
「魔術師が生きている?」「報告は虚偽であったと?」「あの娘は何者だ」「魔術師の使いだろう」「いや、伯爵の娘と聞いたが」「まさか。例の傀儡娘か」「もっと悍ましいはず」「噂と全く異なる」「どう見ても普通の令嬢ではないか」
貴族達の注目は伯爵に集まっている。険しい顔つきで伯爵は「その者の言葉に惑わされてはならない」と告げた。
「その者は、魔術師に洗脳されている。私が駆けつけた時には既に、魔術師の非道な術中にあった。哀れだが、魔術師の亡き今、術を解くことは不可能。故に伯爵家が支えていかなければならないのです。この同情すべき娘の身空を」
すらすらと虚言を放つ。同情だなんて、絶対にしていないだろうに。
私と目も合わせず、「さあ、娘のことは気にせず。改めて魔道具のご紹介をやり直しましょう」と話を変える。
そんなの、思い通りにはいかせない。
「魔道具は、あなた達には扱えません。これまで見てきて、分かったでしょう。これ以上、何を紹介すると仰るのですか」
「お前の出る幕ではない。下がれ」
「下がりません」
即座の返答に、伯爵は愕然として顔を上げ、私と目が合った。途端に、妙に苦しそうに歯噛みをする。何か嫌なものを見たような…否、あり得ないもの、信じたくないものを、見たような顔をしていた。
「ルズベリー伯爵の娘ライラ。魔術師エルムの伴侶となり今では相続人となったと聞き及びましたが、それは事実ではないと?」
質問が飛んだ。公爵夫人だ。淡々とした喋り方は、少しあの少年に似ている気がする。
「えっあれお姉様!?」と声を上げるローザを脇目に、私は上擦りそうになる喉を制して答えを返す。
「事実無根です。魔術師様は、生きておられます。現在、体調不良で床に伏せられているだけです。伯爵が主張なされているのは、勝手な…妄想です。ですから、どうか、お帰りください」
「体調不良。そうですか。では尚更魔道具を放棄させる必要がありますわね」
狼狽の声を漏らしそうになるのを、必死に耐える。
夫人は先刻までの無表情から一転、あまりにも自然な笑顔で幼子に諭すように説明する。
「先ほどの醜態を見て分かる通り、魔道具が魔術師以外には危険を及ぼす代物ならば、即刻廃棄すべきでしょう。彼が健在ならば制御できる、という主張をするのであれば、彼が健在でなければ誰にも制御できないということ。そして体調不良などというありふれた理由でそれが危ぶまれるのならば、そもそも構造が間違っているのです。ねえあなた」
「ああ。良い機会だ。これをきっかけとして魔道具の製作法を皆に開示すれば良い。それができないのであれば全てを放棄してもらう他ない」
必死で、反論を絞り出す。
「…魔道具は、全てここで作られています。魔術師様しかいない、この館で。外の他の誰にも、ご迷惑をおかけすることはありません」
「断言できるほど、貴女は精通していないでしょう」
夫人と、公爵が主張する内容に、私はどうにか頭を回転させる。
魔術師がいないと、未完成の魔道具は危険。魔術師が制御していれば大丈夫、と宣言しても、彼が体調を崩して離脱すればその論は通らない。
魔道具の製作を、皆に共有する。それは、悪手ではない…と思う。魔術師が丁寧に解説すれば、皆も方法を理解して携わることができるだろう。
けれどこの先魔術師が皆に解説できるほど体調が回復するとは限らない。だから、魔道具を放棄する。それによって何がどうなる?魔術師は、国の上層に嫌われているという。魔道具作りという現行の強力な役割を奪われれば、人気と名声を持つ厄介者として彼が亡き者にされる可能性も、ある?
「…何も。何も、お譲りすることはできません」
「ほう?」
「ここは、魔術師様の館です。何も変わることはありません。どうか…お帰りください」
ブローチに手を触れる。私の鼓動がそのまま吸い込まれていくような感覚がする。
私の拙い口と頭では彼らの納得する解を示せない。だったらもう強硬手段しか。
覚悟してかつて唱えた呪文を声にしようとした時、肩に手が置かれる感触がした。
「やあやあどうも、今日はパーティーか何かでしょうか?だったら家主を差し置いて開催するなんて、とんだ無作法でしょうに」
現れたその人は、完璧な笑顔を浮かべてよく響く声で周囲に問いかけた。
呆然とする。
先日まで虚無に支配され動くこともできなかった人が、何の問題もなく起き上がって普通に喋っていることもそうだが。何より。
彼の長く、無造作に伸ばされていた白髪が、バッサリと切られていた。
服装もいつものローブではない。勲章を抱く彼の父親と母親…を模した人形が身につけていた衣装に近い、上等のもの。立ち振る舞いからして、先日とまるで違う。
硬直する私を、彼は一瞥する。何故か背筋が凍るように冷たくなった。
彼の纏う雰囲気は一変していた。底抜けに明るく、朗らかで親しみやすい魔術師は、どこかへ消えてしまったようだった。
私を脇目に、彼は笑ったまま公爵夫妻に言葉を投げかける。
「相も変わらずお金儲けがお好きなようで。全く嫌になりますね。魔道具の取り分はくれてやっているでしょうに」
「…まずは自己紹介をなさったらいかがです?」
「おや、これは失礼」
青年は優雅に一礼し、一点の崩れもない笑顔で告げる。
「私はエルム。あなた方が食い物にしようとしている魔術師です」
また場内が騒然とする。敵意を浮かべる者、恐怖を滲ませる者なども見受けられたが、大半は「聞いていた話と違う」と動揺を露わにしていた。
「体調不良と聞いたが。随分とお元気そうだな」
「ええ、お気遣いありがとうございます、アッシュフォルス公爵。ところでご説明いただきたい。あなた方公爵家の干渉は禁止事項であったはず。何を我が物顔で在席していらっしゃるのか、お聞きしても?」
「息子が危篤と聞けば駆けつけるのが親というものではなくて?」
薄々察知していた事実を耳にして、私は密かに呼吸を乱す。
しかし、彼らの本当の息子は現在、地下室に閉じ込められている。夫人と同じ黒髪を持った、人間である先生が。
違和感を持っていないのだろうか、と公爵夫妻を見つめる。傍で魔術師は笑い声を上げた。
「息子?おやおや、子供の顔も覚えていないというのに、ずいぶん愛情深いことですね。いずれにせよ、親子の情などという説明で片がつく相手ではないとご存知でしょう?」
「ならば除外して話をしよう。ルズベリー伯爵が魔道具の権利を得たと主張し我等をここに招いた。貴殿が伯爵令嬢を娶り、相続人となった彼女が貴殿の死後、伯爵家に全権を委ねたと。そう知らされたからこそやってきたのだ」
公爵と魔術師の視線が、伯爵に集まる。ルズベリー伯爵は声を詰まらせながらも「全ては娘ライラの報告によるもの。館の調査の結果と合わせて、私は迂闊にもそれを信じてしまった。切に謝罪いたしましょう」と述べた。
「おやおや、ライラくんが全ての元凶であると主張なされるご様子」
「それこそ親子の情というものでしょうか。娘の言うことを盲目的に信じてしまうそのお気持ち、お察しいたしますわ」
「ならば伯爵令嬢に問おう。何故偽りを吹き込んだのか」
矛先があっという間にこっちに向いた。愕然としながら「私は、伯爵家にそんなことを一言も申しておりません」と訴える。途端に「嘘よ!お姉様が全部悪いんだから!お姉様の嘘つき!」と反撃が飛び出してきた。
ローザにも、今の状況は自分たちにとって危ういものであると理解できたらしい。ムッとした形相で睨みつけている。
その後方で、伯爵は憎悪に塗れた視線を送ってくる。幼少から何度も向けられた目。お前のせいで父が死に、妻が死んだと断罪する瞳。
無意識に呼吸が乱れていた。手はずっとブローチを握りしめている。
すっ、と誰かが前に出た。
「ああ、素晴らしい親子の愛!感服いたしました。妹さんはともかく、お父様は娘さんを本当に愛していらっしゃるのですねえ。そうでなければ」
魔術師が、何かを掌に乗せている。
「ろくな食事も与えず。固い床で寝かせ。ボロ切れのような服を着せて。他者と交流もさせず。心を打ち砕いて、常に罪人だと言い聞かせて。洗脳して。飼い殺しになんて、するはずがないでしょうから!」
水晶玉。その中に、姿が映っていた。
私の姿。館にやってきた当初の、私だ。
明らかに、痩せている。目には隈があった。同じ服を繰り返し着ていたからそこら中ほつれていた。妹が課題を押し付けてこなければ、勉強に触れる機会もなかった。母からもらった絵本以外、美しいものは遠ざけられた。誰かに瞳を見られないよう、常に俯きがちだった。ひっそりと生きて、幸せであってはならないと、信じていた。
「…あら、それがそのご令嬢の過去の姿ですか?なんとまあ…面妖ですこと。何かの法に触れていそうですわね」
公爵夫人が口元を扇で隠す。笑っているのか憐んでいるのか判別がつかない。
絶句する伯爵に、公爵が何も面白くなさそうに声をかける。
「面白い。随分と斬新な愛情表現だ。一例として城下に広めてみてはいかがか。あるいは共感を得られるかもしれない」
「…ご…ご冗談を…」
「そう。まさしく冗談だ」
魔術師が言葉尻を取って両手を大仰に振り上げた。
「そこに映る姿も、この一件も、彼にとって冗談に過ぎなかったのでしょう。というわけで紳士淑女の皆様、このくだらぬ一幕のことはどうか爆笑のうちに忘れていただきたい。でなければ、私は救国の魔術師ではなく反逆の革命家にならざるを得なくなる」
魔術師の宣言に、空気が一気に凍りつく。
伯爵が魔術師は死んだと言うからやってきたというのに、魔術師は生きていて、しかも反乱の意を示している。かつて大戦で敵国を蹂躙した兵器を、今度は内部に向けようというのか。そんな焦燥が伝染している。
そんな中、公爵と夫人は冷たい目で魔術師を見やった。
「大層なことを仰いますわね、既に締結はされているというのに」
「先に破ろうとしたのはあなた方だ。私は状況に応じた迄」
「ならば何も変わらず勤しんで居れば良い。陛下も我々も、これ以上貴殿には何も与えぬ。そして奪わぬ」
「ありがとうございます。いやあ実に助かる。あなた方そっくりの人形が魔術師の顔として幅を利かせているから文句の一つも言われるかと思いましたが、何も気にしないその姿勢、尊敬に値します」
「話し合いは済んでいるでしょう。貴方も受け入れ、私達も受け入れた。これ以上何も言うことはありませんわ」
「ええ。そうでしょうね。あなた方はそういう人達だ」
魔術師と夫人は決して笑顔を崩すことなく、公爵も一切感情を乱すことなく、会話を終了させた。
「それでは、お達者で」
帰り際、伯爵は他の貴族たちから目の敵にされ、娘ローザと共に肩身の狭い様子で立ち竦んでいた。
公爵夫妻が出立し、客人が全員いなくなってから、父子は伯爵家の人間と共に、私達に恨めしげな視線を送ってきた。
「おやおや、何か言いたいことがあるご様子。どうぞ素直に仰ってください」
「…言うことなど、何もない」
「そんなこと言わずに。ほら」
何の害意も敵意も感じさせず、誰も止める隙なく魔術師は気安く近づき、伯爵の目の前で何かを破裂させた。身を竦ませるその一瞬に、既に彼は作業を終えていた。
「…な、何を!?何をした、貴様、私に」
「今のお気分はいかがですか?良い気分でしょう?」
「良いわけがないだろう!?貴様のような気色の悪い存在に関わったのが間違いだった!いやそもそも、こんなところに来たのがいけなかった!どうしてこんなことになってしまったんだ、ただローザが心配で、付き添いに来て、でもやっと忌み子を正当な理由で追い払えて、ようやく平穏に暮らせると思ったのに公爵が魔術師がどうのこうのとけしかけてきて、従う他なくて、もう忌み子なんかと関わりたくないのに来る羽目になって要らぬ恥をかいて…!」
様子が、おかしい。
私も、ローザも、他の伯爵家の人間も、唖然と伯爵の一人語りを見守っている。
彼自身、表情には焦りが浮かんでいた。そもそも伯爵は言葉数が多い方ではない。こんなに赤裸々に内心を語ったことなど、一度も、
「あなたは、ずっとライラくんに我慢させてきましたね。彼女の心を潰して、抑制し続けた。それは良くない!もっと素直にならないと!なのであなたも素直になりましょう!大丈夫、あなたが本当の意味で素直になれたら、その魔術は解けますから、きっと多分おそらく!」
「ど、どういう」
「あなたから”建前”を抜き取りました。これでとーっても素直な人になれましたね!」
伯爵は、魔術を、かけられた。
魔術師の手には瓶と、黒い煙が立ち上る水晶玉がある。石を瓶に落とし入れ、密閉した蓋を銀の鎖で巻いてから、魔術師は笑顔でそれを伯爵に差し出した。
「どうぞ!この石はあなたの一部が封じ込められています。大事にしてくださいね、これを無くしたらあなたの”建前”は永久に失われてしまいますから!」
「ふ、ふざけるな、どうなっているんだ、貴様、どうしてこんな、開けろ、開けろ、開けろ!」
必死になって瓶を開けようとする。しかし、瓶を地面に叩きつけても鎖を踏みつけても、びくともしない。
躍起になる伯爵から顔を逸らし、今度は魔術師は周囲の人間に視線を巡らせる。彼らは身を震わせて口々に私への謝罪を繰り返し、魔術師へと平伏の意を示した。
有象無象は後回しでいいか、と呟いて、魔術師は妹に向き直る。
ローザは呆気に取られていたが、彼と目が合うと眉を吊り上げた。
「な、何よ!私は悪くない、全部お姉様が悪いのよ!罪人のくせにでしゃばって!何なのその格好、そういうのは私の役目でしょ、お姉様は私の代わりに面倒を引き受けるのが役割でしょ!」
「なるほどなるほど、君は好き勝手に生きてこられたんですねえ」
「な、何よ…!」
「まあ若いしまだ矯正の時間はある感じなので、こういうのでどうでしょう?」
伯爵に仕向けた破裂とは異なり、閃光を迸らせる。ローザがびくりと体を傾けたその一瞬を、今度は私は目撃した。
魔術師は、目を瞑るローザの額に透明の水晶を当てて文言を呟き、何かを抜き取った。途端に、石が色を変え、煙を漂わせ始める。それを瓶に入れ蓋をする。しかし今度は鎖を巻かなかった。
そうして「ちょっとお待ちになってて。逃げたら追いかけますからね」と笑顔で奥に引っ込んでいく。
魔術師に逆らって酷い目に遭うことを恐れ、逃げ出すものは誰もいない。
やがて、何かを連れて、戻ってきた。
「…な…」
現れたのは、幼い少女の姿をした人間…いや、人形だろう。
顔は、ローザ…いや、私?と少し似ている気がする。彼女は大股でこちらにやってくると、ローザを見上げて怒鳴りつけた。
「こら!ひどいこといっちゃダメでしょ!」
「はあ!?何この…ぎゃーっ!?」
「わるいこにはおしおき!」
彼女が短い指を振ると、途端にローザが胸を押さえて苦しみ出した。
血相を変えて駆け寄ってくる伯爵にも、彼女は「もう!おとうさまがあまやかすから、こんなにあまえたな性格になっちゃったんでしょ!」と叱りつける。
「な、なんだと、この」
「ああ、あんまり乱暴に扱ってはいけませんよ。その子はあなたの愛しい愛しいローザお嬢様の”良心”なのですから」
「はあ!?」
「人には、大抵良心…道徳が存在します。それを抜き取って、私が作った人形に組み込んだんです。その感情に従って、人形は動き始めた。彼女の良心は少し幼く、成長してはいないようですが、存在はしたんですねえ。良かった良かった。良心に従っていれば、きっと立派な大人になれることでしょう」
「な、何よ、それ、馬鹿なこと言わないで」
「こら!わるいことば使っちゃダメでしょ!」
「いぎゃーーっ」
良心と本体の上下関係ははっきりさせないとねえ、と呟き、”良心”である彼女のお仕置きを受け悶えるローザを魔術師は笑顔で見守る。
「さてさて。私は気が済みました。とっととお帰り願います。あなた方はご存知なかったようですが、私と王家の間には既に不可侵の協定が結ばれています。この国の何者も私の権利を正当に剥奪することはできません。どうかお忘れなきようにお願いします」
「こ、このまま帰れというのか!こんなふざけた状況に陥らせて、野放しにすると」
「だーいじょうぶ。あなた方は聡明でいらっしゃる。今後のご自身の身の振り方だってよく考えなくても分かるでしょう?」
伯爵は絶句した。思考が停止したようだ。
ローザは”良心”に追いかけ回されて泣きながら文句を口にし、再びお仕置きを喰らって号泣している。
その惨状を目にして、伯爵家の人間達は戦々恐々とした面持ちで転職の相談をし合っていた。
魔術師は笑顔で別れの挨拶を述べる。
「では、さようなら。あなた方のご多幸をお祈りいたします」
「ま…待って…もうやだ…痛いのやだ…心臓がビリビリするのやだ…お姉様、お姉様助けて、ねえ、お姉様、助けてくれるでしょう!?」
「…そうだ。ローザは何も悪くない。せめて私だけでいいだろう!魔術師に提言しろ、そのくらいのことはお前でもできるだろう!これまで私達がどれだけお前に悩まされてきたと思っているんだ、恩を仇で返すつもりか!この忌まわしい化け物が…!…彼女の、命を奪って、彼女の、顔をして、のうのうと生きる、悪魔が!!」
妹が助けを求め、伯爵が怒鳴る。
…実の父親に化け物と、悪魔と思われていた。予想は勿論していた。でも面と向かって言われると軋むものがあるかと思っていたけど…何故か、あまり辛くはなかった。
伯爵は一旦視界の外にやり。息も絶え絶えのローザに、私は問いかける。
「…一つ、聞かせてください。覚えていますか、昔のこと。あなたが…私の絵本を、汚した時のこと」
「は?何のこと?覚えてないわよそんな小さなこと!」
…記憶すら、していなかった。こちらも予想はしていたけど…。
気落ちする私を察知したのか、”良心”が「こら!おかあさまの絵本をダメにしちゃ、ダメだったでしょ!」と追撃を喰らわせる。
魔術師が無言で私を見下ろしている。そこには完璧な笑顔がある。君のやりたいようにしていいよと伝えてくる。
「…ごめんなさい。私は、あなた達を助けられません」
「はあ!?」
「ふざけるな!」
「…あなた達の心は、あなた達自身が、どうにかしてください」
伯爵の”建前”は、彼が本当の意味で素直になったら帰ってくる。
妹の”良心”は、妹が立派な大人になったら役目を終える。
それは、私の手の及ぶ範囲にあるものではない。
文句を言い立てる二人の前に、笑顔で魔術師が立ち塞がる。
「いやあ、頑張ってくださいね、応援してます!」
そうして、彼らは追い返され。館には、平穏が戻ってきた。




