8 カデンツァ
「アメリ―は仕上がらなかったのか」
「無茶言わないでパパ。ミヤビが普通じゃないのよ」
「そうか。ならじっくり仕上げるといいよ。コンクールに出るなら急いだ方がいい」
「そうするわ。私はミヤビのように10も20もカデンツァを作るなんて無理」
ふるふるとアメリ―は首を振る。
「アメリ―はコンクールに出るの?」
「そのつもり。ミヤビは出ないの?」
「うん…お父さんがだめって言うから」
「ならば尚更発表会があればいいね」
悪戯っぽくウィンクしながら笑みを浮かべるエッカルトの企みは、数日後判明した。
雅は、治樹の詳細な予定は聞いていない。
夏の音楽祭シーズンに合わせて、各地を転々としているということだけ聞いていた。
本番を控えたオーケストラは、本拠地の楽友協会ホールで練習をしていた。
そこにいたのは、治樹だった。
「お父さん?ウィーンに来てたの」
舞台の上にはピアノがあり、その前で治樹がピアノを弾き、調整をしていた。
「ああ、そろそろ夏休みも終わるし。雅、学校の宿題はちゃんとやってたか?」
「うん。それからエッカルトおじ様に音楽のこといっぱい教わってたの」
「そうか、それなら良かった」
「ハルキ、そこで相談なんだが」
エッカルトは雅を前に出させた。
「この夏はベートーベンを弾かせててね。面白い事をやり始めるから是非君にも聴いてほしかったんだ」
そう言われて、怪訝そうに雅を見下ろした。
当の雅は得意そうにニコニコしている。
偶然なのかどうか、治樹が弾いていたのもベートーベンのピアノ協奏曲ニ長調だった。
「君達も、面白い物が見られるから、通しで演ってくれないかな。なに、後悔はさせないよ」
そう言うのでコンサートマスターはオケの方を向き、合図を送る。
足がペダルに届かないので、補助台が取り付けられた。
エッカルトの家で、何度もこの協奏曲の録音をアメリ―と一緒に聴かせてもらった。
楽譜に記されていない長い休符の部分、オーケストラによる導入部は何度聴いても雅には『ケーキ、まだかな、まだかな』とそわそわしてるように感じられる。
『やっとケーキ、来たぁ!』とばかりにピアノのソロが入り込む。
雅の小さな手が鍵盤の上を滑っていく。
オーケストラのメンバーは動揺を隠しながらもどんどん先に進む。
驚いているのは治樹も同じだった。
自分の娘が夏休みの間に急成長をしていたのだから無理もない。
ピアノの前の雅は、苦そうな顔、甘さで蕩けそうな顔、と百面相で弾いている。
そして問題のカデンツァに来た時、「え?」と治樹は呆気にとられた。
楽譜にはない、聴いた事もないカデンツァを雅は弾いているからだ。
それは楽団員も同じだった。
小さな手の少女が弾いている不思議なコンチェルト。
その独奏のオケ伴を自分達がやっているという不可解で愉快な音の空間を、今や楽団員達も楽しんでいた。
軽やかな3楽章は、通常よりアップテンポだった。
弾き終わると、楽団員達も足を鳴らして雅に拍手を送った。
「聞いてくれ。今のは、ミヤビの大好きなチョコレートケーキ(ショコラ―デントルテ)の曲なんだそうだ」
エッカルトがそう言うと、治樹も楽団員達も笑い出した。
何か変だったのかな。
でも皆楽しそうだから、まあいっか。
そう考えて、雅もにこにこしていた。