5 ユーモレスク
雅は子供の頃から夏休みになると、治樹に連れられて家を空ける。
音楽祭、サマーセミナー等が大々的に開催される欧州のツアーに出かけるのだ。
治樹が若い頃から懇意にしているウィーン在住の指揮者、エッカルト・メッテルニヒの家に雅はホームステイさせて貰っている。
早くからピアノの才能に開花した雅を、親戚の子のように可愛がってくれていた。
メッテルニヒも元はピアニストとしてデビューし、指揮者に転じた経歴の持ち主で治樹とはコンクールで何度も争った相手でもある。
だからこそ互いにその実力を認め合って来た仲だった。
初めて雅がウィーンを訪れたのは小学校に上がってすぐの夏休みだった。
最初は何を言っているかもわからなかったドイツ語が、ひと夏過ぎる頃には意味を持った言葉として理解できるようになった。
そして2年後、ウィーンでの経験が雅に大きなカルチャーショックを齎した。
―――音が違う。
聴き慣れていた筈の音がずれている。
日本で普段耳にしていた音よりもピッチが高い。
それで雅の耳がバグを起こしていた。
いずれ世に出るならば、知っておかなくてはならなかった世界の音。
「私が弾いてるショパンの曲は、ショパンがこういう音だって作った音と違うのかもしれない」
そう考えると雅は怖くなった。
ピアノが好きな子だと聞いていたのに、急に塞ぎ込んでピアノに触れなくなってしまった雅を見てメッテルニヒは訝しむ。
まだ小さい子だからホームシックかな?と単純に考えていた。
メッテルニヒ家には雅よりも4歳年上の娘が居た。
彼女はピアノではなくバイオリンを弾く。
物心ついた頃には、父親はピアニストではなく指揮者として活躍していた。
なので家にあるピアノを彼女とかち合う事もなく雅が存分に弾かせてもらっていた。
「ミヤビ!美味しいケーキ屋さんにパパが連れて行ってくれるって!」
塞ぎ込んでいた雅に、ある日アメリーが誘ってくれた。
「ケーキ屋さん!行きたい行きたい!」
滅多に外に出ない雅もその誘いには大喜びをした。
治樹は音楽祭や演奏会が近づくと会場近くに宿を取るが、それ以外はメッテルニヒ家に投宿することが多い。
アメリ―のパパ、エッカルトも治樹と同じく夏の音楽シーズンは多忙で家を空ける事が多く、夫人と娘だけの家に友人の娘の雅をホームステイさせることでアメリ―の良い友人となったり、寂しさを紛らわせる事も出来たりと互いがウィンウィンな関係になって雅は歓迎されている。
子供達だけで外出することは禁じられているので、こうしてたまの休みに外に連れて行ってくれるのは楽しみだった。
日本にはない石造りの街並み。
古さと新しさが共存している不思議な世界。
そして何より、街中が音楽で溢れている。
路上で演奏をして、投げ銭を貰っている人もいた。
幼い少女達は立ち止まってバイオリニストが弾く演奏を聴いていた。
バイオリニストは小さな観客に気付くと、ユーモレスクを奏で始めた。
アメリ―が雅の手を取って、その場で踊り出す。
エッカルトも周囲の人達も、目を細めてその様子を見ていた。
曲が終わると、バイオリニストは若いカップルの姿が目に留まったようだ。
がらりと曲調が変わり、エルガーの愛の挨拶が演奏される。