4 愛の夢
とっくの昔に隣の練習室からは音がしなくなっていた。
それでも俊久は弾き続ける。
窓の外は少し陽が赤みをさして傾いてきている。
「まあちょっと休もうぜ。腱鞘炎にでもなったらつまんねえだろ」
昼からずっと弾きっぱなしだ。
「それに他の奴にも練習室空けないと。何かまた文句でも言われるんじゃないのか」
付き合わされる亮介は堪ったもんじゃない。
「学校にはコンクール対策って言ってある。今度はデカイやつだから」
へえ、と間抜けな声を出した亮介の顔を見る事もなく、俊久は楽譜を畳んでピアノを片付ける。
「来年のワルシャワ。ショパンコンクールに出る」
それを聞いた亮介の顔がみるみる引き締まった。
「ショパコン、て、あの―――」
「それ以外にないだろ。アジア大会とかじゃ満足するつもりないからな」
アジア大会では俊久は過去に覇者となっている。
言葉だけを聞けば、傲岸不遜な物言いだ。
けれど目の前の友人は、友人でありながら既に遠い存在でもあった。
―――絶対雅ちゃんも出て来る。
ずっと治樹にコンクールの出場を禁じられていたとはいえ、雅が心酔しているショパンコンクールに出ない筈がない。
俊久は幼い頃に奪われたものをショパンから取り返さなければならなかった。
ショパンコンクールは世界の3大ピアノコンクールの一つで、5年毎にショパンの祖国であるポーランドのワルシャワで開催される。
上位入賞者には間違いなくその後の音楽活動の、プロピアニストとしての登竜門となる。
その予備審査は既に本選の1年近く前から始まる。
本選は毎回必ず10月17日のショパンの命日の周辺に行われる。
翌年の本選に向けて、今年の11月までには演奏ムービーを添えて各種書類を提出しなければならない。
昔は書類審査に送るのは録音テープだったらしいが、今は不正ができないように本人が映った演奏動画を固定して映す必要がある。
更に書類審査を通過した者は翌春にワルシャワに渡り、予備の審査がある。
そこを通過して初めて、10月に始まるコンクールに出場となる。
その第1次審査に出られるのは100名程までに絞られ、最終的にファイナルにまで進めるのは10名程度。
世界中から最高峰の才能達がひしめき合い、鎬を削って頂点を目指す。
コンクールが始まると、ファイナリストともなれば一月近くワルシャワに滞在することになる。
書類審査には数名の音楽家や指導者からのリコメンドが必要とされている。
今は付属高校にいるが、俊久は帝音大を受験するつもりだ。
それで、夏休みの間は帝音大の教授の指導をも受ける事にして、推薦状を得ようと考えていた。
「正直なところ、君なら当大学の推薦入学を希望してもこちらとしては受けるつもりではいたからね」
国内外でも既に頭角を現していた俊久に、帝音大の教授は寛容だった。
それに大学の合格も内定を貰ったも同然である。
俊久達3年生は受験生でもあったのだ。
大きなコンクールへの準備と共に同時進行で受験の準備をするのは大変だ。
特に音大附属高校生であれば、自ずと進学先は音大になりがちだ。
面倒な受験のあれこれを省略してコンクールの準備に専念できるのはありがたい。
これからの夏休みは、美保子の教室と帝音大の教授との掛け持ちレッスンを受ける事になる。
推薦状は美保子にも頼もうとしたが、断られてしまった。
というよりは、治樹の方に頼んでみると言われたのだ。
その時気付いてしまったのだ。
美保子は雅の推薦状を書くから俊久の分は出せないという意味だったことに。
「俊久君、いらっしゃい。今日も暑いわね」
レッスン室に入ると、よく効いたエアコンが汗を引かせてくれる。
「これ、主人から預かってるの。…良かったわね、頑張ってね」
美保子が手渡してくれたのは、治樹からの推薦状だった。
治樹はコンクールの審査員をすることもある。
俊久が出た幾つかのコンクールでバッティングしたことも少なくない。
その縁でというのなら、尤もな理由もつく。
「あの…雅ちゃんも、出るんですか」
何に、とまで言わなくても美保子には伝わっている。
高名なピアニストからの推薦状を貰い受けて気分は高揚してもいいはずなのに、何故か苦しくなる。
「そうね、この前あの子も16になって、これでショパンコンクールに出られるって喜んでたのよね。主人には内緒で準備を進めるけど、そのうちいずれはバレちゃうわよね」
そんな喜び方をしたのだ、忘れたり諦めたりするわけがない。
「そうですか…」
負けられない。
きゅっと唇を噛む。
「私はね、雅の母親でもあるけど、俊久君も大事な教え子だから頑張ってほしいと思ってるのよ。だからどちらか一方だけに肩入れすることはないわ」
「ありがとうございます」
ピアノの前に座るその前に、家政婦の宮田が入室してきた。
冷たいおしぼりと麦茶を用意して。
暑い中を来た生徒達は、車で送り迎えをして貰ってる子以外は皆汗だくでやってくる。
手汗がピアノに付いてもパフォーマンスは低下するし、ピアノのコンディション的にも良くない。
生徒の指導が終わるたびに美保子も鍵盤周りを拭いたりするが、夏場だけの恒例のレッスン前の行事だった。
基本的に生徒達と宮田は会話をしない。
会釈をすると宮田は退室した。
レッスン室はシンプルで、防音の利いた部屋の壁際には楽譜が入った書棚がある。
その上に、初めて俊久が教室に来た時からずっと飾られているトロフィーがあった。
刻まれていた名前は治樹のものだった。
それ以外に飾られているトロフィーはない。
何故それだけが飾られているのか、ずっと俊久は不思議に思っていた。
「先生は、コンクールとかには出なかったんですか」
俊久は小学生のうちからコンクールに出るようになった。
受賞歴もない先生に教わり続けるのはどうかしら、と横村の母親がその頃言い出したので俊久も気になったのだ。
「出たんだけどね。私、身体が弱くて諦めてしまったの。持病もあるから」
「…勿体無いと思います」
そう言う俊久に、美保子は立ち上がってトロフィーを手に取った。
「主人もそう言ってくれた。それで一緒に出場した大会のトロフィーを私に渡してくれて、その時プロポーズされたの」
何気なく美保子は微笑みながらそう言うが、聞いている俊久の方が顔が紅くなった。
―――あ、いや、これは暑いからで…
俊久が妙な言い訳を脳内で始める。
「あの、その時先生の順位は」
それには美保子は首を横に振る。
「本選で棄権したの。体調を崩してね。主人は私の分まで弾いてくるからって言って。だからこのトロフィーは私と一緒に取ったんだと言ってくれて。…狡いでしょう?そんな事言って逃げ道をなくしてくるんだもの」
恨み言を言う割には美保子は嬉しそうだった。
「音楽活動はおろか、結婚して子供を産む事だって危ないと言われてたの。だからこのトロフィーも、雅も、あの人が私にくれた大切な宝物なの」
もしもなんて存在しないけど。
仮に美保子がコンクールに出ていたらどうなったんだろう。
家族の事をあまり人前で話さない治樹が唯一語ったのは、自分の最大のライバルが愛する妻だったという事だ。
それが事実だと知るのは、雅と自分だけでいい。
「俊久君も、優勝したら雅にトロフィー渡してプロポーズしちゃう?あの子なら怒りまくるか感激するかの究極の二択だわね」
美保子も知っている。
俊久をここまで引き上げた原動力が愛娘だったという事を。
「や、それ、は…っ」
俊久は紅くなった顔を隠すように片手で口周りを押さえ、視線を泳がせた。
寡黙ではあるが美保子にとっては俊久はわかりやすい。
尤も、肝心の雅は全く気付かないか見えていないかだったが。
雅にとっては世の男なんて『ショパンかそれ以外』でしかないのだ。
俊久の想いは美保子経由で治樹にも知られてしまっている。
知った上で俊久に推薦状を出してくれたのだ。
「僕は治樹さんじゃありませんし、雅ちゃんも先生じゃない。僕は僕なりの方法で雅ちゃんの心を掴むしかないと思ってます」
それを聞いて、美保子は満面の笑みを俊久に向けた。
「そうね。頑張らなきゃね。俊久君は一見大人しそうに見えるけど相手が強敵であるほど燃える性分でしょう?」
「先生、人をドMみたいに言わないでください」
もそもそと口籠って、やや不満そうに推薦状をバッグに仕舞い込む。
雅が居なくてよかった。
こんなのを聞かれたら、きっと立ち直れない。
―――夏は嫌いだ。
暑いし、虫は湧くし、じめじめするし。
それに夏は雅ちゃんを連れ去っていく。
めっきり自分に向けられなくなった笑顔は、学校の友人にだけ向けられている。
それは自業自得とわかっていてもギリギリと心臓を締め上げる。
一番欲しいものを手に入れる為に、一番大切なものを傷付け踏み越えていく。
目を閉じて雅の笑顔を思い浮かべる。
矛盾する自分の言動に一番腹を立てているのは自分自身だ。
椅子の前に座ると、美保子がレッスン開始の合図をした。
「それじゃあ俊久君。課題曲をどれにするか選びましょうか」
外では蝉がけたたましく短い命を燃やして鳴いている。
けれど外界と隔絶されたレッスン室の中では、エアコンの涼やかな空気とピアニシッシモの音すら繊細に紡ぎ出される空間を作っていた。
蝉は地上に出た短い時間で雌を呼ぶために羽を震わせ続ける。
でもあの子は、そんな叫ぶだけの騒音のような音には惹かれない。
だから慎重に慎重に、心を込めて渾身の音で訴えかけるしかない。