3 きらきら星
隣のピアノ練習室には先客がいた。
闇雲に弾くことはせず、先ずはさっき聴いたエチュードを頭の中で反芻する。
「弾かねえの?横村」
「ちょっと黙っててくれ」
譜面台に楽譜を置いたきり、俊久は脳内に響くピアノの音を追っていた。
やがて隣室からエオリアンハープの曲が流れて来た。
「…っ!」
俊久は驚いて頭を上げ、共に練習室に来た級友の亮介と一緒にそちらの方を見遣る。
壁の向こう側で、彼女がエオリアンハープを弾いている。
「あ、まさか…隣にいるの、さっきの1年の…」
俊久が聴き間違える筈はない。
子供の頃から何度も聴いて覚えてしまっている雅の音。
絶対に悔しがってるだろうなと思った。
誰かと競って負けた事を悔しがるのではなく、自分がやったミスを未熟だと責める。
雅はそういう子だ。
「…完璧じゃん」
曲が終わると、溜息を吐いて亮介が漏らした。
「それをステージの上でできなきゃ意味ないんだよ」
負け惜しみみたいに聞こえるな、と俊久は内心自嘲する。
実際にそうだと思っている。
そう嘯く俊久に、亮介が訝しむような視線を向ける。
「横村、お前さ。ここまでくると嫉妬してるっていうより、自慢みたいに聞こえる」
「自慢?僕が?」
自覚ねえの?とでも言いたげに亮介が薄っすらと笑った。
「オレだけがあの子の本当を姿を知ってるっていう自慢」
「はぁ?」
今の遣り取りでどうやったらそんな風に取れたのだろうか。
まだ自分こそはステージ慣れしてて結果が全てだと自慢していると捉える方が普通だろう。
「2年もお前のダチやってたらさ、何となぁーくウスッと気付いてくんだよ。お前がこの学校の誰もライバル視してなくて、たまに話題に出て来る年下のピアノ教室の子だけがお前の眼中にあるって」
「…」
「正直楽しみにしてたんだよ、そんなにもお前が拘ってる子がどんな子なのか。ピアノコンクールにも出て来ないからノーデータだったからさ。いい意味で度肝抜かれたけどね」
俊久の表情が不機嫌に歪んでいく。
―――興味持たれるのが嫌なんだよ。
どうせ変な修飾語がついてくるんだから。
「河雅かあ。凄く可愛いな、オーラが違う。流石はイケメン巨匠河治樹の娘。腕もアレだし、将来スター確約じゃん。彼氏いるのかな、居なけりゃ立候補してみようかな」
浮かれる亮介に、俊久が残酷にぶった斬る。
「やめとけよ。そもそもお前の実力で雅ちゃんが相手にしてくれると思ってんのか」
冷や水を浴びせられるとはまさにこの事。
はああ~、と盛大に亮介が溜息を吐いた。
「だよなあ。冴えないピアニストなんて河治樹の息子を名乗ることも許してくれなさそうだからなあ…」
いきなり雅が結婚相手という条件を仮定してそんな話をするのに俊久は呆れていたが、そこまで言ってはっと亮介が気付く。
「…な、横村?お前、もしかして…」
ぎろりと亮介を睨んだ俊久は、続くであろう言葉を封じた。
「だから僕は嫉妬なんてしてる暇はないんだよ」
ぱらぱらと楽譜をめくり、エチュード25-1の途中のアルペジオが不規則に変化する箇所のページを開く。
何度も冒頭を弾き直す。
まるで何かを探すように。
なかなかそのページまで辿り着かない。
「…くっ…」
思わず声が漏れる。
雅の音を再現しようとしているのか。
そこから自分だけの音を模索しているのか。
「おい、マジか…マジなのか」
鬼気迫る集中力で鍵盤に向かう俊久を見ながら亮介が呟く。
―――なあ、それじゃお前は追い付かないよ。ステージのあの子は幸せそうに弾いてた。
声を掛けようとして逡巡した挙句、言葉を呑み込んだ。
生半可な気持ちであの少女を追っているのではないと嫌でも理解させられたから。
俊久は幼い頃から極度の人見知りで、心配した母親に連れられて5歳の時に美保子の教室の門を叩いた。
音楽ならば、言葉を超えてコミュニケーションができる。
母親の下心の他に、そういったまともな理由も存在していた。
「こんにちは。初めまして、俊久君。私のことは美保子先生と呼んでね」
初めて訪れたピアノ教室で出迎えてくれたのは、若くて可愛い先生だった。
「こ、こんにちは…」
母親に促されて挨拶をすると、ひょっこりと先生の後ろから小さな女の子が出て来た。
「わあ、お兄ちゃんだ!」
その声に驚いて美保子が振り返る。
「あっ。雅ちゃん、ちゃんとお部屋で待っててって言ったでしょう」
―――わぁ、…天使だ。
その姿が目に飛び込んできて、思わずぼーっと小さな天使に見惚れてしまった。
「お兄ちゃんもここに来るの?ピアノ弾きに来る?」
美保子に叱られたのもものともせず、天使は嬉しそうに俊久に近寄って来た。
「お兄ちゃんじゃないよ。僕は俊久っていう名前だから」
「としーしゃ?」
上手く名前を発音できなくて、首をコテンと傾ける。
「としーしゃじゃないよ、俊久…」
「あっ、わかったっ。としくん!としくんもピアノ弾くんだね。一緒に雅と弾こうね!雅もピアノ大好きなんだよ!」
零れる様な天使の笑顔。
弾む愛らしい声。
一瞬で俊久の世界が変わった。
光が色彩を映し、音が響き始める。
「まあ…珍しい事もあるものですわ。この子、凄く人見知りでこんなに誰かと会話が続くのを初めて見ました」
驚いたのは俊久の母親だった。
「はあ、そうなんですか」
申し訳なさそうに雅を後ろに追いやろうとしていた美保子が戸惑いの声を上げた。
機嫌をよくしている横村の母は、雅ににっこりと微笑みかけた。
「お嬢ちゃん、俊久と仲良くしてあげてくれる?」
「うんっ。一緒にピアノ弾くの。いっぱいいっぱい弾くの」
行こっ、と言って俊久の手を取ると、レッスン室のピアノの前に一緒に座った。
少し幅のある椅子は、小さな子供が並んで座れるくらいの大きさだった。
ぽん、ぽんと鍵盤を叩く音がする。
「ど、ど、そ、そ、ら、ら、そ」
雅が歌いながら小さな指で鍵盤を押さえていく。
それを真似して俊久も鍵盤の上に指を滑らせていく。
「あらあらあらあら」
苦笑する美保子を横目に、俊久の母は嬉しそうだった。
「やはりこちらを尋ねてみてよかったですわ。先生、どうぞ俊久を宜しくお願いいたします」
「そうですね、俊久君もピアノが楽しそうですし…お預かりさせていただきます」
そうして俊久は美保子の教室に通うことになった。
もしもあの時雅がいなかったら、俊久はここまでピアノを続けていなかっただろうと思う。
美保子のレッスンは基本的に個人授業だったが、時々似たような齢の子を集めてセッションをしたり、ちょっとしたお楽しみ会で交流を図ることもあった。
そうすることで子供達にも刺激を与えて励みになるようにと考えていた。
そういった場には雅も加わり、教室に来ている生徒の子達と仲良くなっていった。
ただ、相変わらず俊久は雅以外には人見知りが激しかった。
発表会のリハーサルの時、珍しく俊久が他の子と話をしてるなと思っていたら、何やら雲行きが怪しくなり始めた。
やがて口論になっていったので、慌てて美保子が仲裁に入った。
「俊久君、翔君。何かあったの?」
そう言われて俊久はむっすりとして黙っていたが、先に翔が話し始めた。
「…雅ちゃんが…」
そう言い出したので、美保子はえっ?と思わず雅の方を見た。
当の雅は発表会の時に着る白いふわふわのドレスを身に纏っている。
「お嫁さんみたいだね、かわいいね、一緒に座ろうって言ったら、俊久君が怒って来て」
そうなの?と今度は俊久の方を見る。
「雅ちゃんは僕のお嫁さんになるんだから翔君と一緒に座るのはだめ、って言って来たんだ」
それを聞いて、思わず美保子が吹き出しそうになった。
「あー、そうだったの。じゃあ翔君が譲ってあげたら…」
「やだよ。雅ちゃんは僕のお嫁さんになるの。だから俊久君と一緒はだめ」
「…」
幼稚園児と小学生なんだけど、当人達はどうも真面目な話らしい。
笑ってしまって悪かったかなと美保子が頭を抱える。
「どっちもピアノが上手だし、優しくてかっこいいから雅はしょう君ととし君の両方のお嫁さんになるよ。だからけんかしちゃだめ」
平和主義者の雅は、そこでまさかの重婚宣言。
「あのね、雅ちゃん?お嫁さんは誰か1人のお嫁さんにしかなれないんだよ」
だから喧嘩になっちゃったんだ、と俊久が文句を入れると。
「それじゃ、雅はしょぱんのお嫁さんになる!そしたらけんかしなくていいよね。雅、けんかしないでなかよくする子が好き」
…あっけらかんと少年2人を玉砕させた。
当時の雅はお気に入りの曲がショパンという人が作ったものだと教えられ、大好きランキングのトップに君臨していたのがショパンだった。
まだ幼く拙いピアニストの孵化するかも定かでない卵の少年達など、ショパンの足元にも及ぶはずがなかったのだ。
笑ってはいけないと思いつつ、美保子が珍しく大笑いをした。
それからだ、俊久が凄い勢いでピアノにのめり込みだしたのは。
絶対に負けられない相手ができてしまった。
もうこの世にいない巨星、打倒・ショパンである。
そんなの子供の冗談だと笑い飛ばせればよかったのだが、俊久の願いも虚しく雅はどんどんショパンに傾倒していく。
美保子にとっては思わぬ副産物だった。
自分の愛弟子がめきめきと腕を上げてあちこちのコンクールに殴り込みをかけ、実力を認められていく。
張り合っていた翔は高校受験時にピアノを止めて教室に来なくなった。
進路の岐路に立つ時、特に男の子には音楽の道に進むのは壮大な人生の博打にもなる。
半端な覚悟と実力では食べていけない厳しい世界。
張り合うと言っても、もうその頃には俊久と翔の差は明らかになっていた。
ここで俊久の独り勝ちかと思われたが、当の雅も手強かった。
同じく美保子に習っていた雅は、ずっと俊久の後を追っていたのに何時の間にか逆転してしまっていた。
小学校の中学年あたりまではよく横村家に行ったり泊ったりもして、俊久の両親や弟とも仲が良く可愛がってくれていたのに、高学年になる頃には俊久は急に雅を避けだした。
雅には俊久の態度の急変が信じ難かった。
あんなに仲が良かったのに、どうして。
原因を考えてもさっぱりわからなかった。
俊久は何も言ってくれない。
美保子は雅が悪いんじゃないのよ、と言ってくれたが、それでモヤモヤが解決したわけではなかった。
それが雅にショパンと、ショパンの音楽と結婚するのだという想いを本気にさせた。
幼い頃の戯言だとばかり思っていたのに、雅は本当にその道に突き進むことにしたのだ。
ただ大好きなピアノを弾くのではなくて、ステージパフォーマーとしてのピアニストになるのだという目標に向かって邁進していく。