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2 舟唄(バルカローレ)

「雅ぃ、相変わらず段違いに凄かったあ!」


むっすりして試験会場の講堂を後にする雅を追ってきたのは親友の理実だった。


「…た」

「へっ?」


ぼそぼそと口籠った雅に理実が訊き返す。


「33小節目の5連符のとこ、やらかした…」

「あひゃぁ」


エオリアンハープことエチュード25-1は、左手のアルペジオが基本6連符で進行するが途中で不規則に4連になったり5連になったりして暗譜上厄介な挙動をする。


「もうやだ。絶対やり直す。悔しい」


そう言って雅はずんずんと練習室に向かう。


「やり直すったって、もう試験終わったんでしょ?大体、ショパンも変態じみてるんだよ、あんな意地悪な変則挙動は」


すると雅は立ち止まって、ジト目で理実を振り返る。


「理実ちゃんヒドイ。ショパンは変態じゃないもん、ちょっと茶目っ気があるだけだもん」


あ~ハイハイ、と理実は諦めて手をひらひらと振った。

うっかり雅にショパンを語らせたらすぐに終わる気がしない。

そのくらい彼女のショパンに対する敬愛が深いのだ。


「ね、あたしも一緒に行っていい?」


理実も手にエチュードの教本を持っている。


「理実ちゃんは練習しないの?」

「あたしにとっては、雅の演奏を聴くのも十分に勉強になるから。あたしは雅のピアノが好きなんだから」


理実がそう言うと、雅が目に涙を溜めた。


実技試験の大半が終わって、練習室は然程混雑していなかった。

部屋に籠った熱気を窓を開けて追い出し、エアコンを入れる。

大部分が木でできていて、恐ろしいほどの力で弦を引っ張っているピアノという楽器は湿気に弱い。

ある程度の年数で練習用に使われるピアノはその使われ方がハードなために入れ替えられるが、それでも湿気に晒されると弦が緩んでチューニングが狂う。


―――ピアノが呼吸してる。


その様子を見ながらほっとした雅がそんな風に考える。

工場からロールアウトした時に、ピアノは狭い練習室に閉じ込められて使い倒される自らの運命など知らなかっただろう。

少し運命が違えば、隣に並んでいたピアノは舞台で脚光を浴びたかもしれない。

或は誰かの個人のものとして大切に何十年も使ってもらえたかもしれない。


ピアニストだって同じだ。


毎年のように掃いて捨てるほど排出されるのに、何十年も後世にまでも残っていける様な稀有な才能は殆ど現れない。



それでも誰かの心に残ることができるなら幸せだ。

私も、このピアノも。

だから歌おう、一緒に。

幾つもの偶然が重なり合って出逢った、私とこのピアノで。


理実が横の椅子に座って楽譜を開いた。

雅の指がキーの上に置かれると、爽やかなエオリアンハープの音色が流れ出す。

最初こそ理実は楽譜を目で追っていたが、視線は徐々に雅の方に注がれる。


雅は試験での失敗を悔しいと言っていた。

でも失敗そのものを悔しいと言ったのではないとわかっている。

何故なら雅は…



「…うん、できてたね」


弾き終わった雅に、理実が声をかける。


「うん…うん、ありがとう」


雅がぽろぽろと涙を零した。

そこには雅だけが知る達成感がある。

今度はちゃんと弾けていた。


―――もしも失敗したのなら、それは私の想いが届いてないから。

技巧が拙いのであれば、それは私があるべき所に辿り着く努力が足りてなかったから。



そんな風に言う雅に、理実は衝撃を受けたものだった。



理実が初めて雅に出会ったのはこの練習室だった。

入学式が始まる前、ここからピアノの音が漏れ聞こえた。

式典に向けて学校中がバタバタしているのに、一体誰が?


中を覗こうとドアノブに手を掛けたが、聴いているうちに手が止まってしまった。


これを中断したくない。


いつの間にか聴き入ってしまっていた。

弾いているのは先生なんだろうか、それとも先輩なのか。

ショパンの舟唄バルカローレは何度も聴いたことがある曲だけど、こんなに情景が豊かに音に乗ったバルカローレは聴いた事がない。

これから始まる学校生活で、早速凄い宝石を見つけたような気分になった。

曲が終わったところで、勢いよく理実は扉を開けた。


「あのっ、今のショパン―――」


弾いてたのはあなたが?と言いかけて理実は固まった。

ピアノの前に座っていたのは驚いて振り向いた美少女だった。

自分と同じ、制服に1年生の色のリボンタイを付けている。


「素敵だった!!感動しちゃった!ねえ、もっと聴きたいんだけどいい?」


捲し立てる理実に驚いてキョトンとする美少女。


「あ、ごめんなさい、あたし渡瀬理実。あなたのピアノがあんまりにも素敵だったから、なんていうか、そう…」


殴られたような衝撃とぎゅっと心臓を掴まれたような苦しさと目の前が明るく輝くような幸福感とがいっぺんにやってきてぐちゃぐちゃになったような、これをどうやって説明すればいいのか、軽く理実が唸る。


―――あ、わかった。

喩えるなら、恋に落ちた感じ?


そう考えて、理実の頭の中でガーンという効果音が鳴る。

丁度ピアノの最低音部を纏めて叩きつけるような音のような。


―――えっ、ちょっと待って、あたし百合趣味じゃないって!違う違う、そういうんじゃなくて!!


「あなたのピアノが好きになったの!と、友達になってくれるかな!?」


しどろもどろになってそういう理実に、一拍置いてから雅はにこっと笑った。


「嬉しい。ありがとう。もっと弾きたいけどそろそろ入学式が始まっちゃうから、一緒に講堂に行こうか」


そう言うと雅は荷物を持って席を立った。


「もっと聴きたいって言ってくれて嬉しい。すぐに聴けるよ。何か私が演奏するらしいから」


移動の道中、雅がそう教えてくれた。


「私は河雅。宜しくね」


一緒に行こうと言われて舞い上がる、告白が成功した少年かオノレは、と理実が自己ツッコミを入れたが高揚する気持ちは抑えようがない。

そして雅の言葉通り、式典の中で雅が弾くバルカローレを理実は再び聴くことになった。


嵐の様な出会いから雅がすぐに理実と仲良くなったのは、純粋に雅のピアノに惚れ込んだと言ってくれたからだった。



小さい頃はわからなかったが、成長するにつれて自分にはいつも『河治樹の娘』の呼び名が付いて回った。


有名なピアニストの娘だから、ピアノが上手くて当たり前だよね。


そんな風に言われる。

教室に通ってくる生徒達にさえも。

誰も自分自身の事を見てくれていない、自分の努力も見ようとしてくれない。

出来て当たり前、出来なければ恥ずかしい。

そんな風に追い詰められていた時、美保子は大丈夫と励ましてくれた。


「雅がピアノを弾くのはどうして?」


母の問いに、幼い雅は泣きながら答えた。


「ピアノが、好きだから」

「そうね。お母さんは知ってるわ」


母の前では、ただのピアノが好きな女の子でいられる。


「雅は頑張り屋さんだし、ピアノの曲が弾けるようになってももっともっとって頑張っちゃうのよね」

「うん。弾けるようになると嬉しいから」


当人はそうでも、周囲はそう思わない。

出来て当たり前だから、もっとできる筈だ。

周囲は褒めてくれなくても、母だけは自分の努力をわかってくれる。


自分が誰かなんて知らないけど、聴いただけで純粋に自分のピアノが素敵だったと言ってくれる理実。

先入観無しで自分のピアノを好きになったと言ってくれる相手は、雅にとってかけがえのない存在だ。

その日のうちに、2人は友達になった。



理実にとっては、周囲の『河治樹の娘だから近付いた』という噂話は心外なノイズだ。

有名なピアニストと懇意になれば、コンクール等でも優位に働く。

そんなつもりなど無いのに悔しい。

友人の自分ですらそうなのだから家族である雅はどんなに無念な思いをしているのだろう。


入学して仲良くなって早々に、雅は爆弾発言を投下した。


「私はコンクールには出ないから、私は誰からもライバル視されない筈なんだ」


父親の治樹からもコンクールには出ないようにと幼い頃から言われてきた。

有名なピアニストの娘という肩書は、審査員にも忖度を促す。

そしてその結果、前途あるプレイヤーを1人退ける結果を産む。


雅もピアノが好きなだけで誰かと競いたいわけではなかった。


「だって自分が好きな音楽に、点数や順位を付けられるのが嫌だったんだ…」


そう言われた理実は息を呑んだ。

この帝音大附属高に入学するための試験だって、多くのライバルを蹴落とさなければならなかった。

試験対策をして、苦しんで練習もしてここまでやって来た。

それをする事もなく、雅はここまで来たのだろうか。


考えたら身震いが出た。


雅はここに入学した時点で、あの完成度の高い演奏を披露していた。


「だったら雅はどうしてここに入学したの?」


素朴な疑問だった。


「もっともっと上手になりたかったから。何時か私の演奏を聴いて幸せに感じてくれる人がいたらいいなって思ってて。それが夢だから」


にこにこと答える雅に、理実はぽかんと口を開けてしまう。


―――えええ、いやそんな夢だったらもう叶ってますけど!?

あたし凄く感動しちゃって幸せマックスなんですけど!?


それを言うべきかしばらく悩んだ。


でも、なんだろう。

もっと進化した雅のピアノも聴いてみたい。

そんな欲も出てしまう。


理実だって何度か国内のコンクールには出た事がある。

それなりの成績を出してきたという自負はある。

だからこそここにいる。


高校生活が始まったら学友達と切磋琢磨しあって、やる気も腕も磨いて上げていく、そんな風に考えていた。


蓋を開けたら、とんでもない才能が目の前にいた。

同じ年代に生まれたのが幸か不幸か。

今迄争うことが無かったのは、雅に争う気持ちがないからだった。


ライバル心や嫉妬心が芽生えたりするのは、相手を自分の力で打ち負かせる可能性がある場所に立っているから。

最初から無理だと思う相手には到底そんな気持ちは芽生えないものなのだと理実は思い知った。


「音楽って、その一瞬一瞬に流れる音が全てで、そのすぐ後には過去のものになっちゃうでしょ?明日の私はもっと上手になって違う音を出してるかもしれない。そう考えると、いつもワクワクするの。そんな私の気持ちをピアノに伝えたら、きっとピアノは応えてくれると思うから」


雅がピアノを弾き始める前に必ずする『儀式』は、そういう意図があったのかと理解した。

そして理実が出した結論は、


「河雅という子は、自分とは違う人種なんだ」


というものだった。


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