10 驚愕
『コンクールには出さないと聞いた。ならば、発表会くらいは用意してやれ。あの子の才能を部屋の中にだけ閉じ込めておくのは最早損失というべきだよ』
随分評価をしてくれるものだ。
自分で身を守れるようになるまでは、なるべく表に出したくないのだ。
娘の才能は、誰よりも治樹がよく理解しているつもりだった。
ウィーンフィルの夏の野外コンサートは、大勢の市民で賑わっている。
冬の劇場でのコンサートと違って、無料で聴けるとあって大勢の人が聴きに来る。
プログラムの最初に治樹がコンチェルトを弾いた。
「凄い、お父さん凄い」
娘に違いを見せつけるように弾く治樹のコンチェルトは圧巻だった。
カジュアルなコンサートであるのが勿体無いくらいだった。
客席で拍手を送っていると、メッテルニヒ夫人が雅の手を引いて立ち上がった。
「おば様、何処に行くの?」
怪訝そうに尋ねる雅に夫人は笑って、どんどんとステージの方に近づいて行った。
「エッカルトが言ってたでしょう。今日はミヤビの発表会だって」
「ええ?もう発表会は終わったんじゃ…」
「何を言ってるの。これからでしょう」
これから?
何で?
舞台袖には楽団員の控室がある。
先に舞台から下がった治樹が雅を出迎えた。
「雅、今日のケーキの味はどうだった?」
開口一番訊いてきたのはそれだった。
「ん、…前のケーキと味は違うけど、違ってても美味しかった」
「そうか、よかった」
そういうと雅の頭を撫でた。
「幸せな気分になれた?」
「うんっ」
躊躇せずに、雅は大きく頷いた。
「その幸せを、皆に聴かせてあげよう。さあ、発表会だ」
治樹が雅の背を押すと、光の当たるステージに出る。
足が止まった雅に、エッカルトが手招きをした。
いきなりステージに出てきた小さな少女に、会場が一瞬どよめく。
「皆様、ウィーンフィルのお届けする真夏の夜の夢に、迷子になって現れた妖精がいたようです。どうぞ妖精の囁きに御耳を拝借いたします」
エッカルトが指揮台の前で挨拶をすると、再び周囲の照明が落とされた。
オーケストラは何事もなかったかのように、最初のプログラムにあった治樹の演奏したベートーベンの協奏曲を奏でる。
―――お外の発表会なんて初めてだわ。
雅は怖気づくよりも、楽しくなってきた。
オーケストラ部が終わり、ピアノがソロで入り込むと、客席から静かなざわめきが起きた。
「あの子は何者?」
「東洋人ね…ハルキ・カワの知り合いか?」
そして、昼間と全く違うカデンツァを弾き始めると、治樹は驚きを通り越して笑いそうになった。
「ああ、なるほど。違う味でも美味しくて幸せになるケーキ、ね」
驚いているのは観客や治樹だけではない。
エッカルトや楽団員達もだった。
練習も何もなく、思いつくまま即興で一発演奏のカデンツァ。
ザッハーのケーキはデメルのケーキよりも重く、深く、それでいて濃いコクがあって、添えられたクリームの存在理由すら明確にされている。
お茶に至るまで無駄がない、完成形のカフェデザートに感嘆した雅の心情を表していた。
ベートーベンは描写に優れた作曲家でもあった。
その点、雅も相性が良かったのかもしれない。
コンチェルトの終盤には、観客はその舞台に居るのが年端もいかない少女であることも忘れたかのように雅の音に聴き入っていた。
くるくるとよく回る指もだが、それを幸せそうに弾いている表情に視線が釘付けになる。
当日のアンコールは、長いのでこれ一曲だけだ。
万雷の拍手に、雅はぺこりとお辞儀をして「ダンケシェン(ありがとうございます)」と挨拶すると、エッカルトに手を引かれてスキップ混じりで舞台のそでに下がった。
ステージの裏手には出演者達の臨時の控室となるようにテントが張られている。
そこで待ち構えていた治樹は渋い顔をしていた。
「まったく。もう後戻りはできなくなった」
対してエッカルトの方は、悪戯が成功したような悪い笑みを浮かべている。
「まあまあ。ウィーンの人達はミヤビの演奏を気に入ってくれたようだよ」
未だに鳴りやまない拍手に、ふふんと得意げにエッカルトが鼻を鳴らした。
「ミヤビ、発表会は楽しかったかい?」
治樹のことは一旦無視して、エッカルトが雅に尋ねる。
「はい。さっきのはお父さんに御馳走してもらった方のケーキの曲です!」
「そうか、美味しくて幸せになったんだね、ミヤビは」
「そうなんです。だからその幸せな気持ちを聴いてほしくて」
怖いもの知らずな娘が嬉しそうにエッカルトと話している。
明日になれば新聞を賑わして大騒ぎになるだろう。
出演者リストにない少女の発表会をウィーンフィルがやったとあっては。
治樹はエッカルトに、記者から取材を受けても雅のラストネームだけは絶対に出すなと念を押した。
雅はピアニストになりたいと幼い頃から言っている。
治樹も後押しはしてあげたいが、自分というピアニストの子供という名は雅に過剰な期待を押しつける。
だからコンクールにも出さず、ひっそりと囲って育てていたのだ。
「私は直ぐにでも荷物を纏めて雅を連れて帰国したいところだ」
「ハルキ」
不満そうな治樹に、エッカルトも物申した。
「気持ちはわかるが、窮屈に鳥籠に入れられてるミヤビの気持ちもわかってやれ。思いっきり羽ばたかせてやった方がこの子は化ける」
こんなに凄い宝石を見つけたんだ!と自慢したい少年のようだ。
「若いうちから持ち上げられて、成長した時に凡庸だと見向きもされなくなる方が惨めだ。大事な娘だからこそ、そんな目に遭わせたくない」
子供であるからこそ価値を与えられ、大人になればそれは十人並みとされる才能は少なくない。
少なくとも治樹は雅をそんなイロモノ扱いされるのは真っ平だった。
「あーわかったわかった。真夏の夜に舞い降りた妖精ってことを貫いておこう。元からたった一夜の約束だ」
難しい話についてけない雅は、治樹とエッカルトを交互に見た。
でもこのたった一夜の、たった数十分の舞台が後に大きな騒ぎになるとは誰も想像してなかった。
思った通り、翌日の新聞ではウィーンフィルのコンサートに現れた謎めいた東洋の小さな少女の事を報せ、『真夏の夜の夢に迷い込んだミヤビ』の名があっという間に拡がった。
その演奏を聴きたいと思う人達は多くいたが、何年も経ってからやっと彼女の正体がわかる時が来た。
『その時』まであの少女はコンクールに出る事もなく、コンサートに現れる事もなく、ずっと息を潜めていた。