1 エオリアンハープ
投稿第2作になります。多くの人に知られている曲については様々な解釈が用いられていますが、あくまでもこの作品中では葵の独自視点でのみ語られることをご承知おきください。
かなり以前に作った話をもう一度手直しして構築し直しました。
夏の気配がそろりと感じられるようになり、蒸した空気はそこかしこに居座って何処にも往きたくないと足掻いているようだ。
なので講堂の中の空気も熱気を孕んでいた。
エアコンも入っているが、それでも追い付かないのは何も気候の所為だけではない。
ステージの上にはコンサートグランドピアノと、代わる代わるそれを弾いて行く生徒達。
帝都音楽大学付属高校の実技の試験は生徒達への公開方式で行われる。
今はその期末試験の真っ最中だった。
試験は1年生から行われ、観覧を希望する生徒は講堂で聴いて行くことができる。
大抵は同学年の演奏を聴くに留まるものを、今年は少し様子が違っていた。
講堂の座席には2年生、3年生もぎっしりと座って演奏を聴いている。
「河雅ってあと何人くらいで回ってくる?」
「シッ」
こそこそと話すのを制して演奏に集中するように促す。
「さっき舞台のそでに行くのが見えたから、もうすぐだ」
試験は1人持ち時間が5分となっていて、ピアノ科はエチュードを2曲弾く。
「そうか、あー、何弾くんだろうな」
学生は学年が違っても切磋琢磨し合うライバルでもあるが、何だかギャラリーはすっかり観客気分でいる。
そのうち皆が待っていた河雅が登場した。
雅はあまり舞台上で演奏する経験が無かった。
精々母親が開くピアノ教室での発表会くらいで、あとは小学生の時に一度だけ大きな舞台に立ったが、父親の意向でそれ以来そのような機会は得られなかった。
『だから楽しい』
臆することなく、雅はライトに照らされたステージ上のピアノに向かう。
「今日もあなたの素敵な音を聞かせてね」
椅子に座る前に、雅は小さな声でピアノに語り掛ける。
そうするとピアノも『任せて!』と言ってくれるような気がするのだ。
それが雅がピアノを弾くときの儀式のようものになっていた。
しっかりと返事を受け取った雅はにこっとピアノに微笑み、椅子に座る。
そこまでは可憐な少女の所作だ。
けれどピアノの鍵盤の上に手をポジショニングすると途端に表情が変わる。
ギャラリー達は静かに始まった音で演目を理解した。
嵐の前の静けさのピアニッシモ。
「木枯らし…」
人がいっぱいで入り切れなくなった講堂では、立ち見している者も少なくなかった。
俊久はステージ上の少女を睨みつけるように目を細めて見ている。
静寂を破るスフォルツァンドは、予め曲をわかっていても聴く者をハッとさせた。
激しくうねり、ぐずぐずと吹き溜まりを作り、また苛烈に吹き荒ぶ。
1曲目が終わり、ステージ上の雅は一旦目を閉じる。
次に目を開いた時には、先程とは打って変わって優しくピアノに微笑んでいた。
ポーン、と最初のアウフタクトの一音が落とされると、美しいアルペジオが先程まで荒れ狂っていたステージの上を優しく包みだし、穏やかな風が吹き渡るエオリアン・ハープの調べに変わった。
ステージを照らすライトが天上の雲から差し込む陽の光のように感じられる。
雅は2曲ともショパンのエチュードを選択していた。
ほう、と何処からともなく溜息が漏れる。
たった5分の劇場を鑑賞し終わったギャラリーは、惜しみなく拍手を送った。
雅は立ち上がってぴょこりと拍手に応えるように礼をするとステージから下がった。
教師がファイルに審査を記入すると、次の生徒の名前が呼ばれる。
立ち見をしていた生徒達は、ぱらぱらと講堂から出て行く。
彼等も試験に備える時間が惜しい。
聴くに値する演奏さえ聴けば、後は自身の練習に充てたいところだ。
「やっぱり別格だったなあ、河雅。入学式の時もそう思ったけど、流石は河治樹の娘ってところかな」
「…」
級友ののんびりした感想を、俊久は黙って聞いている。
「なんだよ横村、嫉妬か?あんな子敵に回したくないよなあ」
雅がコンクールに出ないというのは以前から聞いていた。
これからその前提が覆る。
遡ること数か月前。
静かな学校にセンセーショナルなニュースが駆け巡った。
『ピアニストの河治樹の娘が入学してきた』
国内の音楽大学の中でも最高峰の位置にある帝都音楽大学やその付属高校ともなれば、それなりの才能たちが集まって来る。
だから音楽関係者の二世、三世が来ても何らおかしくはない。
河治樹は未だ30代にも関わらず世界に名だたる若きヴィルトゥオーソとして注目を集めているピアニストで、そして帝音大の卒業生でもあった。
卓越した情感の籠った音楽だけにとどまらず、甘いマスクで女性のクラシックファンを確実に増やしている功労者でもある。
河治樹の妻も音楽家で、夫の様なステージパフォーマーではなく自宅でピアノ教室を開いている。
結婚した当時は多くの女性ファンからの恨み言が聞かれた。
才能的にも治樹に釣り合わないだろうと。
そういった悪意が妻子に向かないとも限らない。
そのため極力治樹は妻子を表舞台に出さないようにしていた。
治樹の娘、雅は生まれる前からピアノの音を聞く環境下にあった。
お座りができるようになるとピアノの鍵盤を叩いて遊ぶようになり、何時からと明確に線引きが難しいくらいに物心がついた時にはピアノを弾き始めていた。
すぐに雅はピアノが上達していった。
少し雅が成長して手が離れるようになると、治樹の妻、美保子は自宅でピアノ教室を開くようになった。
雅も母に習いながら、教室に習いに来る子供達と遊ぶようになる。
俊久が母親に手を引かれ、美保子の教室の門を叩いたのが彼が5歳の時だ。
人見知りが激しかった俊久は、物怖じしない社交的なピアノ教師の娘とも仲良くなる。
雅にしてみれば、家に代わる代わる子供達がやってくるのは楽しみな事でもあった。
河治樹の妻という肩書は余計な宣伝をせずとも多くの生徒を集める事になる。
中には親が治樹に近づきたいという下心を持つ者も居て、度々それが重なり頭を悩ませるようになると、生徒を取る時に選抜が必要になってしまった。
幸いなことに治樹は美保子の仕事場に顔を出すこともせず、関わらない事を貫いていた。
アテが外れた親達は教室から去る者も少なからず居たが、それでも美保子の指導が良い、離れたくないという生徒も多くいた。
俊久も美保子の元に留まった1人だった。
教室に来た当時は子供だから何の先入観もない。
母親は多分に漏れず有名なピアニストに会えるかもと期待していたのだが、俊久は母親に自分の意志でここに通い続けたいと申し出た。
早くからコンクールにも出ては何度も入賞をし、この教師に師事して貰ってこの結果を出してきたのだと親に突き付けた。
高校生活も後半になる頃には、コンクール荒らしの異名を取るほどになっていた。
優秀な生徒は宣伝看板として教師にとっても有益な存在となる。
それでも音大への進学を控え、美保子ももっと高名なピアニストの教師についてはどうかと薦める事はあったが、当の俊久が頑として頷かない。
俊久は知っている。
本来なら美保子は街のピアノ教室の教師で埋もれて良い筈の人ではないのだ。
その辺りに関しては、雅とも意見が合致していた。
2歳下の雅は近所に住んでいるため小中学校が同じで、俊久が3年生の時に帝都音大附属高校に入学してきた。
入学の式典では新入生代表として雅が最後に演奏したが、在校生が全員その演奏を聴いたわけではなく、式典に参加した一部の上級生だけが雅の演奏を聞いた。
俊久もそのうちの一人だったが、教室に行けば雅の演奏を耳にする機会も当然あり、同級生達の感嘆を冷ややかに見ていた。
「嫉妬なんてしてる暇があったら練習するさ」
まだ興奮冷めやらない級友に俊久はぶっきらぼうに答えた。
どんなに足掻いても、勝てる気がしない。
俊久は既に大量のコンクールの覇者の肩書を手に入れ、片や雅はコンクールに出た事がないから無冠の少女。
恐れる事は何も無い筈…
そう思おうとしても、教室に行って雅のピアノの音が聞こえてくると焦燥感すら感じる。
自分でもきちんと自覚はしている。
嫉妬してしまうくらいには、自分も雅のピアノに心を惹きつけられている。