34.
「――ああ、そろそろ始まるよ」
「え?」
花音が聞き返すのとほぼ同時に。
屋上にしつらえられた鐘塔から、突如として音楽が流れ出した。
誰もが一度は聞いたことのある曲。荘厳なクラシック。
「うちの夕方のチャイムはこれなんだ。この曲は――」
「……知ってる。この曲ならわかる。小さい頃、何度も聞いて――………!」
説明をしようとした律を遮って、花音が震える声で言った。
屋上の鐘が鳴らすのはカノン。パッヘルベルが作曲した有名なもの。
複数のパートが同じ旋律を奏でる、シンプルなのに神秘的で美しい曲。
――花音。あなたの名前は、あの人がつけたのよ。
今、思い返せば幸福としか言い表せない、何も知らなかった幼い頃。
めったに家にいなかった父のことは、顔も、声も、もはや覚えていない。
けれど、まどろんでいたあのとき、頭をぎこちなくなでていた大きな手。
そして、あの頃よく部屋で流れていたメロディーは覚えている。
……ああ、そうだ。
花音は両手で顔を覆った。
なぜきれいなものを見て、むなしく感じてしまったか。
花音の疎外感。そして、律の感じていた不自然さの正体が、今なら判る。
世界中の絶景を写した写真。心をわしづかみにするような妙なるピアノの調べ。一口でとろけそうになった美味な食事。可憐ではかない蝶の群舞に、人の技術の粋を集めた様々な書籍……。
半日以上かかって、様々なものを見た。毎回毎回、これでもかというくらい心を揺さぶられた。
彼の集めた綺麗なもの。美しいもの。その中で圧倒的に足りなかったもの。
……大切なものの中に、娘である花音がいなかった。
父親としての贈りものなのに、そこに父親の姿がなかったのだ。




