30.
律が驚いたように目を見開く。その顔を見たくなくて、花音は堰を切ったようにまくしたてた。
「だってさ、もうこんな時間じゃん。午前中から始めて、何時間やってるんだって話だよ。ソッコーで終わらせるつもりだったのに、こんな時間になってもまだ終わらないし。律をこれ以上つきあわせるわけにはいかないよ。もう下校時間なんだし、帰れなくなる前に、帰って」
花音はあくまで明るい声で続ける。けれど、律の気遣わしげな表情が視界の端に映っている。
「僕のことは……いいよ。寮だから近いし、抜け道も知ってる。だけど、花音はそれでいいの? 結局、お父さんの暗号の謎、ちゃんと解けないままになっちゃうけど」
「……。……そんなの、ないんじゃないかな」
花音は視線を落として、口をひき結ぶ。
「あいつのことだから、きっと、人を振り回して楽しんでるだけだよ。他人の気持ちなんて考えないで」
目を閉じても、父親の顔も思い出せない。昔の写真を見ても、なつかしいという感情すらわき上がったことはない。それがとても腹立たしくて――同時に、罪悪感も抱く。
「前に言ったけどさ、うちの父親、いつもふらふらしてて、家にはほとんどいなかったんだ。入り婿だったんだけどね。反対されてたらしくて……。幼い頃に離婚して、お母さんも家を出ざるをえなくなって、一人であたしを育ててくれた」
花音は小さく息をついた。
「でも、お母さんはあいつのこと嫌いじゃないんだ。生活習慣が合わないからとか、あいつに結婚ていう形が合わないからとか、いつも、かばってばっかり……。だから、離婚してからも、やりとりはしてたみたい」
六星花学園のことも母親を通して聞いた。学費も援助してくれると言っていたらしい。けれど、花音はつっぱねた。母親は花音の意志を尊重して、それ以上押しつけてくるようなことはしなかった。
「だけどあたしは、あいつが嫌い。だって、お母さんが苦労してきたの、ずっと側で見てきたんだから。毎日仕事して、あたしの世話もして、毎日帰ってきてくれた。都合のいいときだけ思い出して、都合のいいときだけかまうなんて、そんな人に、親の資格なんかない……!」
「…………」
「だから、無視しようと思ったの。でも、そうすると、自分が薄情な人間みたいで、できなかった。こうやっていろんなきれいなもの見せられても、きっとまた自己満足なんだろうって思っちゃうし、だんだん、なんのためにこんなことやってるのかなって、わからなくなってきて――」
花音は両手で口元を覆った。
本当は、ずっと歯がゆく思っていた。ここに来るまで毎日のように葛藤していた。覚悟を決めて来たのに、最初の暗号で決着がつかなくて戸惑った。さらに、用意されていたものが予想外すぎて動揺した。
きっと、父親の見せたいものは、暗号が最終的に指し示すものだけではない。そこに至る行程すべてが、花音に教えたいものなのだ。
暗号を解く度に、今まで花音が見たことのないもの、見ようとも思ったことのないものに出会った。 きっと、この先も、花音の知らない美しいものが彼女を出迎えてくれるのだろう。
親が子にきれいなものを見せたいと思ったとき、そこにある思いはなんなのか。
わかる気がする。だが、認めたくない。認めてしまったら、今までのことを全て肯定してしまうように思えて、どうしても頷けなかった。
他方で、拭いきれない違和感があった。むなしさといってもいい。感情がぐちゃぐちゃに渦巻いている中で、その中の黒いものだけが凝縮され、ふくれあがり、心の奥で鎌首をもたげる。これ以上口を開いたら、重くて黒い塊を全部律にぶつけてしまいそうだ。




