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その女子生徒、十津賀彩香は僕の一つ上の現在2年生で、初めて会ったのはこの学校での事。何もない所でこけていた僕に、先輩は手を差し出し、立ち上がらせてくれた。最初のきっかけは、ただそれだけの小さな出来事。しかし、その日から彼女は僕を見かけると度々声をかけてくる様になった。その時の僕は、恐らく先輩は誰にでもかける優しさの一部を、僕に分けているに過ぎないのだろうと考えていた。しかし、その程度を過ぎていると感じ始めたのは、僕の帰りを先輩が校門で待っていた時のことだった。
「やあ、君を待っていたよ」
全ての憧れの視線を受ける先輩に、交際の申し出(いわゆる告白)は数えきれないほどある。それは男子だけではなく女子からもくると聞くし、時には学外や教師からもあるとか。どれが本当のことなのかは分からないが、しかし告白される事が多いのは事実。そして、その事実に対して、先輩は全ての告白を断っている情報も付け足さなくてはならない。パートナーとなる交際相手がいないにも関わらず、全ての告白を断っている。先輩は、誰にでも優しくするけれど、一定の距離感をおいている様だった。そんな先輩が、なぜかある日から校門で僕のことを待ち、僕と一緒に帰る日々が始まった。
「やあ、悠斗くん。今日も早い下校だな」
「そっそういう先輩の方が居るの早いじゃないですか」
「それは私の教室の方が昇降口に近いからな」
「そう言う問題じゃないんですけど・・・」
先輩ほどの人気者が、なぜ学校が終わって直ぐ帰るんですか。僕と違って、いろんな人が先輩を求めているのに。
そう口にしそうになるものの、直前で辞めた。それよりも、周囲の視線が気になったから。少し前まで、先輩に憧れの視線を送っていた周囲の学生は、唐突に現れた僕へ話しかける先輩を、不思議そうに見ていた。
今まで先輩が、誰かの事を校門で待つ事などなかった。誰とも一定の距離を置く先輩だったから。だからこそ、この状況に好奇の目を向けている。勘違いしてはいけないのは、僕に対してではなく、関心の矛先は常に先輩に向けられていること。よく漫画にある「誰よアイツ」「親しげに話して、生意気じゃね」って言う目線は、僕には向けられていない。彼ら彼女らにとって、僕の存在などどうでもいいし、視界にも入っていないから。注意を払う対象にも含まれない。あくまで、周囲の学生が気になるのは、先輩のことだけ。しかし、そうは分かっていても、やはり周囲の目線が向けられると言うのは居心地が悪い。
「まあ、ここじゃなくても立ち話は出来るからね。少し歩こうか」
先輩は普段から周囲の視線を集めているため、先輩自身はこの状況に何ら居心地の悪さを感じていなさそうだった。ただ、先輩は相手の気持ちを察するのが得意だ。先輩はそういって、僕に有無を言わさないまま歩き始めた。僕を置いていくような我儘な感じではない。優柔不断な僕をリードする様に、促すためのゆっくりとした歩き出し。直ぐに僕が追いついてくるのを待っている。
そんな先輩を見て、僕は何かを言おうと少しだけ口をぱくぱくさせるものの、それよりも先に追いつく事を優先した。小走り気味に歩き、先輩の隣に並ぶ。
「え、えっと、その」
「今日の授業はどうだった?確か体育があったんだったかな?」
「ん、いつも通り、ですか、ね?」
「ふふっ、悠斗くんの会話に対する苦手意識は相変わらずだな。だが、会話の基本は自己開示だ、まずは思った事をとりあえず口にしてみたまえ。まとまりのない話し方は人から嫌がられる原因だが、君と私の仲だ、些細な事は私も気にしないさ」
「わかり、ました。えっと、じゃあっその、今日は卓球だったんですけどーーー」
先輩は僕と一緒に歩く時、話すのが苦手な僕に変わり、だいたいこうして話を振ってくれる。そして、酷くつまらない僕の話を、相槌を打ちながら聞いてくれる。時折、
「君はどうにも物事が起きた順番に話す癖があるな。たまには結論から話す事を意識してみるといい。結論を話し、それが起きた理由、そしてその後に詳細を話すと、話としてもまとまりが出るし相手も理解しやすくなるな」
といった風に、何かしらのアドバイスをくれる。それは話し方だけではなく、歩き方や考え方、勉強の仕方など様々だ。
一般的に、急に物知り顔で助言を押し付けてくる人というのは、あまり好かれるものではない。僕も、そういった人には心当たりがある。大体の教師やクラスメイトはそうだ。良くも悪くも。けれど、先輩のアドバイスは、なぜか不思議と押し付けがましさを感じない。それが先輩のすごい所だ。
もちろん、誰もが認める能力・存在感も手伝っているだろうけれど、恐らくきっと、「自分が上で教える立場だ」と驕らず、相手に自分の意見を認めさせようとはしていないからに違いない。人は皆、無意識に自分の意見が正しくて、相手の意見が間違っていると思ってしまいがちだ。だから、自分の意見を相手に押し付けて、認めさせようとしてしまう。頭の硬い人間ほどそうだ。
相手の立場や感情を理解した上で、自分の意見を言える先輩のアドバイスは、心の中で免疫が過剰反応する事なくすんなりと浸透する。そして、それを実感する度、先輩はすごいなと僕は改めて思う。
ただ、同時に思うのが「なぜそんな先輩が、僕の隣を歩き、一緒に帰っているのだろう」という事だ。もちろん、僕が先輩に対して嫌な感情を抱いている訳ではない。この感情の名前は、きっと”恐縮”だ。
先輩みたいなすごい人と、僕が一緒に歩くなんて釣り合いが取れなさすぎる。先輩に対して、僕は足りないものが多すぎる。隣を歩くのに、もっとふさわしい人がいるはずだ。
もちろん、”先輩は僕のことが好きだから、校門で待っていてくれるし、こうして一緒に帰っているんだ”なんて勘違いをする訳がないし、彼氏ズラなんて思った事もない。
「ん?また歩く姿勢が猫背になっているぞ、悠斗くん。足元ばかり見ずにもっと前を向きたまえ」
「えぁっ」
猫背を指摘した先輩が、僕の背中を叩く。恐らくそれほど強い力ではなかったはずだ。しかし、足元ばかり見ていた僕は、そのちょっとした衝撃でよろけ、たたらを踏んでしまう。
「あぁ、すまない。そんなに力が強かったか?」
「いえ、大丈夫です、すみません」
「なんで悠斗くんが謝るんだ。その弱腰な姿勢は、やはり猫背から来ているのか?これは本格的に厳しく矯正してやらなくてはな」
「かっ勘弁、してください」
「ふふ、ならそうならない様に、日頃から背筋に気を配るんだな」
僕と一緒に歩く先輩は、なぜか僕の話をちゃんと聞いてくれるし、楽しそうにしてくれる。とても不思議だ。思わず会話が上手にでもなったのかと、勘違いしてしまいそうになる。
僕の性格や能力が改善された訳ではなく、先輩のお陰だからだというのに。
「なん、先輩は何で色々、教えてくれるんですか?」
本当は、なぜ一緒に歩いてくれるのかと、僕とおしゃべりをしてくれるのかと聞こうとした。しかし、帰ってくる答えが怖くて、躊躇してしまった。いや、先輩が何か人を傷つける言葉を言うとは思えないけれど、しかし僕の心が漠然とした当てのない不安を抱えてしまう。
「ん?私の一言で良くなるかも知れないんだ、思った事は言った方が得だろう?もちろん、言い方には最大限配慮はするけれどね」
それは、僕から言わせてみると強者の理論だと、思わざるを得なかった。僕に到底真似できる発想ではない。先輩は自信があって、更にその自信を裏付ける賢さ・能力があるからこそ成り立つ。
「それとも、迷惑だったかな。それなら次からは気をつけるが」
「あっいっいいえ、そう言うんじゃ。いつも、ありがたいです」
「そうか、それなら良かった。ただ、もし何か思うことがあったら、その時は遠慮なく言うんだぞ。仮に君が不躾な事を言ったとしても、それを受け止めるだけの度量はあるさ」
「そう、ですね。ははっ」
「むしろ、君は少し自分の意見を言わなさすぎるからな。私相手の時はむしろ練習と思って、思った事を全て言うぐらいの気持ちでいい。言う練習をしないと、いざという時に上手く思った事を言えなくなってしまうからな」
物を持つ時も、日頃から筋肉をつけておかないと、重い物が持ち上がらない様に。普段から勉強しないと、テストで問題が解けないように。思った事、相手に本当に伝えたい事も、その練習をしなければ上手く伝えられない。本当にその通りだと僕は思った。
そうして僕と先輩は歩いていると、今日も交差点へと着いた。駅前のこの交差点を、僕は渡って駅に向かい、先輩は渡らず右に進む。この交差点が、最近先輩と一緒に歩く道の終着点。
「じゃあまた明日だな、悠斗くん」
「えっえと、さようなら」
「うん、さようなら、だ」
先輩は最後にそういうと、その綺麗な髪を靡かせながら綺麗なターンで僕に背を向け、僕から遠ざかっていった。その後ろ姿も綺麗だなと、僕はいつも目が離せなくなり、信号から流れるメロディーで慌てて駅へと向かった。