月が満つるように
心に『モヤ』がかかっている——いつからなのか、それが何なのかはわからないんだけれど、
何か足りないような——。
何か欠けているような——。
周りのみんなは僕の事を『光はさ、トーンが平らだからわかりずらいんだと思う』又は『仇川君って、あまり感情を表に出さないよね』とか言う。
十七時半——十二月ともなればもう外は真っ暗だ。部活を終えて教室で一人、今夜のイベントの事を考えながら帰り支度をしていると、廊下をバタバタと駆けて来る音がする。これは……雪臣?
「おー居た居た。おつかれい! そこまで帰ろうぜ」
やっぱりだ。
「お疲れさま。剣道部にしては終わるの早くない?」
そう言いながら、僕は静まり返っている廊下に出る。
「いやいや、うちら休みの日だってのに七時からやってるんだぞ。ヘトヘトだよ。もうすぐ冬休みだけど、休み中も毎日のように部活あるみたいだし……中学の時とは違うな」
言った矢先、雪臣は思い出したように声を張り上げた。
「あーっそれより光! お前ら天文部! 冬休み初日から長野に合宿だって?」
声は廊下に反響して、余計に大きく聞こえる。
僕は逆に抑揚のない声で言う。
「ああ、そうらしい」
「おおお、羨ましい。二十四日から二泊三日だろ」
よく知ってるな。
「もちろん乃万嶌も行くんだろ。合宿、そしてクリスマス。こりゃあ学園アニメなら間違いなく告白だよな」
何それ? 学園アニメって何? 呆れて言う。
「またそれか。何故そうなる? たまたま高校が一緒でたまたま部活も一緒になっただけだろ」
「いやいや、俺達、保育園の頃から一緒なんだぞ。光はトーンが平らだから他の奴らは気づかねえだろうけど、俺は中学の時からわかってたぜ。乃万嶌と話してる時の光は明らかに違うんだ。空気……って言うかさ、何だ? 雰囲気か?」
わかってないだろ、それ。しかもトーンが平らって何?
「光はほぼ無表情だからいつもと同じに見えるけど、何か違うんだよ。とにかく高校まで一緒なんて、そりゃあもう『運命』だろ」
雪臣は『運命』とか、恥ずかしい事を平気で言う。
あのな……面倒なので無視しよう。
——そんなくだらない話しを終えて、僕らは昇降口を出た所で別れた。雪臣は自転車通学だ。バイトして買った高級自転車らしく、自慢げに『愛車』通学だと言っていた。
どっちでも良い。
僕にも自慢出来る物がある。
愛機、自動追尾式赤道儀付天体望遠鏡《じどうついびしきせきどうぎつきてんたいぼうえんきょう》だ。雪臣風に言うならば、『愛望遠鏡』だ!
対物レンズ百二十ミリ、焦点距離は六百ミリ。集光力は肉眼の約三百倍になる。静音自動高速導入、高精度の——やめよう。話が止まらなくなる。
今頃僕の部屋で『愛望遠鏡』も今夜のイベントを、首ならぬ、鏡筒を長くして待っているだろう。
壮大な天体ショー。
今夜は皆既月食だ!
今回の皆既月食は二十時半頃から始まる。正確に言うと、二十時半頃から半影食が始まり、部分食、皆既食となり、月が完全に地球の影に入る皆既食の最大は二十三時半頃だ。そこからはそれまでとは逆に月が姿を現していくので、すっかり月が隠れているのは零時頃までだ。完全に戻るまで観測しようとなると二時は軽く過ぎてしまう。
予報では、気温は五度以下になるらしい。明日も日曜で休みなのが唯一の救いだけれど。
いつまで観測するかはその時に考えるか。
十九時四十五分——。
防寒インナーを上下、その上からジャージを上下着て、そのジャージの裾にかぶせる様に靴下を二重に履いた。そこからさらに防寒カーゴパンツを履き、ネックウォーマーマスクをし、ダウンジャケットを着ている。
さらに釣り用の指の先だけ出ている手袋をはめ、その上から大きめの手袋もしている。これは機械操作や何か細かい事をする時は、一番上の手袋を脱げば楽に出来るからだ。仕上げにニット帽……。
……まるでダルマだ。動きにくい。
が、準備万全! 僕は家を出た。
はあ。吐く息が真っ白だ。かなりの寒さのはずだけれど……暑い。持ち慣れた『愛望遠鏡』が重く感じる。
二十時十五分——ようやく公園に着いた。
山の高台に位置するこの公園内をさらに登れば、目的地の見晴台だ。
あれ? 入り口から少し離れた路上に車が停まっている。さすがに皆既月食は見に来る人がいるんだろうか? ひょっとして結構いる?
自由広場を抜け、斜面緑地を横目に階段を上り、案内表示板を左に行けば見晴台だ。そこには街灯は無いけれど、ベンチが三基と自動販売機が二台ある。
望遠鏡をセットするには充分な明るさで、天体観測をするのには最高のスポットだ!
見晴台に人影が見える。
やっぱり居た! でも一人? 他人と一緒なのは気まずいけれど助かった。充分観測は出来る。
少し落ち着き、ゆっくりと近づく僕はそれに気づいた。
望遠鏡? その人はすでに望遠鏡をセットしていて、近づく僕に気づき、こちらを見ているようだ。
満月の明かりは自動販売機のそれとは桁違いに明るく、その人を照らし出す。
ニット帽から流れるように出る、腰まで届く純黒の長い髪が光っている。
僕の鼓動が一気に速まる。
——高鳴る。
そこに立っていたのは——、
乃万嶌 かな——だった。
「おー仇川君! こんばんは」
「あ、ああ……こんばんは」
乃万嶌が居たもんだから、慌てている。落ち着け——。
「この公園知ってたんだ? ここ、天体観測には良いスポットだよね。怪しい人じゃなくて、仇川君で良かったよ。知らない人と一緒も気まずいし」
僕もさっきそう思ったけれど、同級生の女子と二人きりっていうのも充分気まずい。
変に距離を取るわけにもいかないので、乃万嶌の横で望遠鏡を組み立てながら言う。
「知ってるも何も、僕はこの公園には週三で通ってるよ。毎回二十一時過ぎだけれど」
「そうだったの? 私は金、土の週二。でもそうか、私はいつも二十時前には帰るから——」
シュポッッ
突然音が鳴る。携帯か?
「あ、ちょっと待って」
乃万嶌はダウンジャケットのポケットから出しづらそうに携帯を出した。
乃万嶌も僕同様、結構なダルマだなあ。
雲は——結構多い。月は再び隠れている。
「二十時半過ぎたね。もう始まってるかな?」
携帯をしまいながら乃万嶌が言った。
「んー、あの辺の雲が流れればスッキリするんだけどな」
僕が答えると、
「今のメッセージ、お父さんから。一時間おきにメッセージのやり取りしないとならないんだ。公園の入り口の所に車が停まってたでしょう。終わるまで待ってるんだってさ」
それはそうだ。年頃の女子がこんな時間からこんな所に一人じゃ、親は心配だ。
「ま、寒いの苦手だから、ここには来ないけどね」
乃万嶌が笑いながら言った。
そもそも半影食は肉眼ではほぼわからない。部分食が始まって、ようやく月が欠けているのがわかる。
なので、人によっては部分食が始まってからで良いのでは? と思うかもしれないけれど。
ま、単なるこだわりだ。
この時間から居た乃万嶌もそうなのだろう。
ん? そういえば乃万嶌は何時から来ていたんだ?
いつのまにか雲は流れていた。
僕らは望遠鏡を覗き込む。
想像もしていなかった展開で——、
待ちに待った天体ショーは始まった。
「だいぶ冷えてきたね」
乃万嶌が言った。
「そうだな。結構寒くなるみたいだから」
僕は返す。
たまに、そんなちょっとした会話をしつつ、空を見上げては望遠鏡を覗く——を、僕達は繰り返していた。
雲はもう無い。快晴だ。観測するには最高のコンディションだ。
ジーーっという自動販売機のかすかな音のみで、辺りは静まりかえっている。そこに、
シュポッッ。
乃万嶌の携帯が鳴る。
もう一時間経ったのか?
僕と乃万嶌はほぼ同時に携帯を出して確認する。
二十一時半ちょうど。
お父さんはきっちりしてるな。
「そういえば、乃万嶌は何時くらいにここに来たんだ?」
「ん? 二十時ちょっと前かな」
携帯を操作しながら乃万嶌が言う。
「望遠鏡のセットに時間かかりそうだったから早めにきたの」
「は? 時間がかかりそうって、いつものポルツーだろ……」
言いながら僕は乃万嶌の望遠鏡に目をやる。
「え? 部活で使ってるのと違うな。まさかバイザ?」
「うわ〜今頃? 全然見てなかったんだね。仇川君が食いついてこないからおかしいなぁと思ってたんだ」
振り返り見た乃万嶌の顔は、ニヤニヤしていた。ニヤニヤしながら『なんか飲もう』と自動販売機に向かった。
「マジでブイシーエルだ」
対物レンズ二百ミリ、焦点距離は千八百ミリ。集光力は肉眼の約八百倍以上になる——。
自動追尾式赤道儀付大口径天体望遠鏡《じどうついびしきせきどうぎつきだいこうけいてんたいぼうえんきょう》だ。
「すごいな、これ。ちょっと覗いても良いか?」
言って、また振り返る。
自動販売機の前で、乃万嶌は切長の目を丸くしてキョトンとしていた。
「あ、うん」
そう言うとすぐに笑顔を作り、
「どうぞどうぞ。ほら、ちょうど部分食が始まっているんじゃない? 欠け⋯⋯始めてるよね」
と続けた。
部分食からは肉眼でもはっきりと見える。しかし望遠鏡で観るそれは、地球の影が月面を覆っていくのが実感出来る。
月の海を横切り、クレーターのデコボコに合わせて影が変化するさまは、感動ものだ。
「ありがとう」
乃万嶌も楽しみだったろう。いつまでも観ているわけにいかない。
「どうだった? まだ観てても良いよ」
そう言って、レモンティーを飲みながらこちらに来た。
「いや、満足。乃万嶌がこんなに凄い『愛望遠鏡』を隠していたとは、驚いたよ」
もう一度、乃万嶌の望遠鏡を見てそう言った。ん? 三脚に何かぶら下がっている?
人形? ボールか? いや、地球のストラップだ——これ、何だっけ? 見たことがある。
「ぷーあははは! うふふくくく、苦しい。我慢できない」
……乃万嶌が爆笑している。いきなりどうした?
「うう、くくく今のそれ、『愛望遠鏡』ってなあに?」
! ええ? 言った? 僕そんな事言っちゃったか?
「いや、違う。マ、マイ、望遠鏡と……」
「くく、苦しい。その言い訳は苦しいよ」
「悪い、聞き流してくれ」
「無理、くふ、聞き流せない。う、あーふー苦しかった。死ぬかと思ったよ」
…………。
「ふーあんなにテンションの高い仇川君、初めて見たよ。『マジで』とか言ってたもの」
僕だって『マジで』くらい言う。
「それに、あんなにど、動揺してくく、あ、あい、愛」
「わかったわかった。もうそれは許してくれ」
「はー……わかった! 許す」
……まいったな……。
「ただね、隠してたわけでは無いんだよ。ミキ達は知ってるし。私達って話しても部活動の事だけで、プライベートな話とかしないから」
確かに、僕は普段から雪臣以外の誰ともプライベートな話なんてしない。一日誰とも話さないことも、あるにはある。
別に、それは今ままでと変わらない……。
普通だ……。
あれ? 何か、胸が苦しい……?
「部活で毎日のように会ってても、仇川君がこの公園に通ってた事をさっき知ったし」
乃万嶌が望遠鏡から目を外し、こちらを見た。
「何て言うのか⋯⋯仇川君には、踏み込めない空気が、踏み込ませない壁のようなものがあるから」
壁?
乃万嶌を直視したまま、僕は動けなくなった。
「それが、仇川君らしいと言えば、らしいんだけど。中学生の時から———」
——そうだったもの。
乃万嶌のその声と重なり、突然思い出した——あの地球のストラップ。
乃万嶌 かなは、僕が在学していた、神白兎中学一年一組に転校して来た。
転校生定番の最初の挨拶の時の、なんとなくの印象としては、体の線が細く、前髪は眉の直ぐ下で真一文字に整われていたけれど、緊張しているのか少しうつ向き加減でいるせいで、目にかかっているようにも見え、おとなしい、と言うより、暗いイメージだった。
現在の乃万嶌も、喋らなければ、外見は、当時と変わらない。いや、実際はよくわからない。僕もそんなに仲が良かったわけではないし、同じクラスだったのも一、二年の時だけだから……。
か細い声で挨拶を終えた乃万嶌が案内をされて席に着く時、持っていたカバンにアクセサリーが一つだけぶら下がっていたのに気づいた。
それが——地球のストラップだ。
それがきっかけで僕は乃万嶌に話しかけるのだけれど——。
シュポッッ。
! 二十二時半か。お父さんは時間に正確だから確認も必要ない。
「ん——、はは、『世界の変顔動物二百連発、四時間スペシャルがもうすぐ終わっちゃうから、一休みして車で一緒に見ないか? あったかいぞーっ』てさ」
「……良い、お父さんだよな」
「はい、見ませんっっと」
ピッ。
あっさりと携帯をしまった。
——月は、地球の影の中心にはまだ完全に入っていないけれど、欠けている部分は赤銅色に変わっている。
静かに皆既食が始まった。
「不思議だよな。皆既月食とか。いや、宇宙からしたら『あたり前』の事なんだろう。何年何月頃に月食が起きて、何時頃から部分食や皆既食が始まる——って事も計算してわかってしまうくらい、なんてことのない『あたり前』の事なんだ。でも、僕達にとっては特別な事に感じてしまうよな」
あれ? 皆既食を前に興奮してるのか? 僕は何をベラベラと……。
「ふふ、こんなに饒舌な仇川君も初めて。そうだね、私達って得していると思うんだ。こうして『あたり前』にある夜空を見上げるだけで、ワクワクして、こんなに感動出来るんだから」
しばらく、夢中で月や周りの星々を観測していた。
乃万嶌がポツリと言う。
「私、中三の時に天体観測を始めてから、かなり勉強したんだよ。仇川君は何がきっかけだったの? 天文にハマってしまった、きっかけ」
きっかけ——。
「小学生の時、両親にプラネタリウムに連れて行ってもらったんだ」
なんてことはない。小学一年の時に両親に連れて行ってもらったプラネタリウムの美しさに魅せられて、天文にハマっただけだ。
ただ、ハマり具合は相当なもので、家ではもちろん、学校でも授業中以外はずっと宇宙関連の本を読んでいた。
クラスの子に遊びに誘われても断っていたから、いつのまにか一人だったな。もちろん、僕も最初は周りの子達に星や宇宙の話しをしたけれど、興味のある子はいなかった。
ん? まただ……胸の辺りが苦しいような、モヤモヤするような……?
中学の入学祝いで初級者用の望遠鏡を買ってもらい、天体観測をするようになってからは、よりハマっていった。
周りも見えなくなっていて、クラスでも浮いていたかもしれない。
そんな時、乃万嶌が転校して来た。
転校初日の一時間目が終わって休憩時間、僕は乃万嶌のカバンにぶら下がっていたアクセサリーが気になっていた。
地球のストラップ。
見ると乃万嶌はポツンと一人、うつむき、座っていた。
突然の転校生に、周りのみんなもチラチラ気にしてはいるけれど、話しかけられない様子だった。
僕はそんなことも気にせず、もしかしたら天文に興味があるのかなぁと、確認しに行ったんだよな。
「あ、あの、天文とか宇宙とか好きなの……かな?」
いきなりこんな感じで言ったと思う。普通、出身地とか、前の学校の事から入るだろうに。
乃万嶌はビクッと肩をすくめて、
「え? あ……宇宙?」
と、首をかしげた。
あれ? 違うの?
僕は声をかけた事を後悔しながら、カバンを指差して言う。
「あの、ほら、そのストラップ」
「あ、これはね、そう、地球なんだけど、ちょっと違うの——」
ストラップの説明をしようとしたんだろうけど、乃万嶌がそこまで話したところで、周りの女子が割って入ってきた。
「ねーねー何の話?」
「乃万嶌さんってどこから来たの?」
初めに誰かが話しかけるのを待っていたんだろう。これをきっかけにみんなが集まって来た。
乃万嶌はもう囲まれている。
周りからの怒涛の質問責めに、キョロキョロしながら、あたふたしながら答えている。
僕は席に戻った。
雪臣が駆け寄ってきて、
「やるね〜」
なんて言った。
何もやってないけどね。
そう、何もやってないから、結局それからは何も変わっていない。
ただ、乃万嶌とはちょくちょく話すようになっていたかな? 天文の事をよく聞かれたっけ。
中学三年になりクラスが変わったら、それも無くなったけれど……。
「私も、興味を持ち始めた頃はプラネタリウムに毎週通ってたよ」
ふいに乃万嶌が言った。
「毎週? それは、すごいな。そんなに好きになるなんて——」
シュポッッ。
中学三年の時に何かあったのか? と聞こうとしたけれど、定時のメッセージが来たので聞けなかった。
ん? でも少し早くないか? もう二十三時半?
「やっぱりね」
乃万嶌が携帯を見て笑いながら言う。
「少し寝るって。いつも二十二時前には寝てるから耐えられないと思ったよ」
「あ、ははは。そっか。お父さん頑張ったんだな」
乃万嶌がやっぱり驚く。
僕自身も驚いている。
雪臣と話していても、声を出して笑う事なんて無い。
乃万嶌は優しく微笑んで——、
「『何かあったらすぐ連絡しなさい』って。大丈夫だよね。何かあっても、仇川君がいるから」
と——。
「え? い、いや、どうだろ……」
僕は目を逸らして言った。まったく、女子がそうなのか、乃万嶌がそうなのか知らないけれど、ドキっとするような事を言うな。
今まで、いつだって一人だった。ずっと一人で良かった。
じっくり天体観測も出来たし、一人の世界も楽しめた。
今日だって、その予定だったのに……集中も出来てないし、じっくり観測も出来ていない。
でも……、
でも、何だか——いな。今まで何度も天体観測をしてきたけれど、こんなに——のは、初めて……。
あれ? どうした? 言葉が出ない。何を言おうとしたんだっけ?
「仇川、君?」
乃万嶌が、いぶかしげに僕を見る。
そうそう、た——いん、だ……うっ……何だ? 苦しい、胸が……締めつけられる。
僕はダウンジャケットの胸の辺りを強く握った。
「どうかした? 大丈夫?」
僕の異変に気づいて乃万嶌は心配そうだ。
「平気平気、大丈夫——」
『大丈夫。全然気にならないね——』
何が?
『別に、一人でも良いし——』
誰だ? 自問自答? まるで僕が二人いるみたいだ。
『楽しいから——』
そ、そう。楽しい。楽しい、だ。でも、一人では——。
じゃあ、今までのは何だった——。
今までの?
見ないようにしてたのは何だった——。
見ないようにしてた? 苦しい……混乱している。
心に『モヤ』がかかっている——。
何か足りない————?
何が欠けている——?
「仇川君!」
ハッ———。
乃万嶌の大きな声で我にかえった。
乃万嶌が、ポケットにしまったはずの携帯を持って目の前にいる。
どこかに連絡しようとしたのだろう。それほど、僕が苦しそうに見えたのか。
「大丈夫。もう、何ともないから」
「本当に? とても、苦しそうだったよ?」
覗き込むように僕を見ている。
言い訳が見つからない。僕だって訳がわからない……一つ、わかっているとしたら、この苦しさは病気の類では無いって事だ。僕は素直に言う。
「いや、違うんだ。これは、たの、しい、楽しい、んだ」
「え……? どういうこと?」
乃万嶌は『何言ってんだ?』という顔をしている。それはそうだろう。でも、この言葉で合っている。正直な気持ちだ。
「……それなら、良いんだけど」
釈然としていないみたいだけれど、乃万嶌は携帯をしまった。
二十三時四十分——。
皆既食の最大、最も暗くなる時だ。
今の僕の心と同じ。
でも——月が暗くなった事で、今までその明るさで見えなかった暗い星々も姿を現すように、僕の心に足りなかったものが、欠けていたものが、まだはっきりとはしていないけれど、見えてきた——わかってきた。
「天の川も綺麗……」
乃万嶌はこの天体ショーに魅入っている。
零時を過ぎて皆既食は終わり、この後、部分食、半影食を経て天体ショーは終わる。
暖かい飲み物を飲みながら、感想等を話しながら。結局、僕達は最後まで観測を続ける事にした。
一時半過ぎには、ほぼ普段の満月に戻り、見晴台を明るく照らしていた。
望遠鏡で他の星を観測していた乃万嶌が、
「うん!」
そう言いながら夜空を仰ぐ。
「どうかした?」
僕が聞くと、もう一度、意を決したようにうなずき、話し始めた。
「私⋯⋯幼い頃から人見知りでね、いつもおどおどしていたの。根暗な自分が嫌だった——」
そう言いながら自分の望遠鏡に付けているストラップを手にして、
「このキャラクターの女の子、とても明るくて強いの。地球も素手で割っちゃうんだよ。なんだか、こんな子になりたいなーって、憧れてた。でも、やっぱりそんな簡単には変われないまま、中学で転校したの。そしたらね、同じクラスに変わった子がいて、その子はいつも一人だった」
ん?
「ずっと見ていたけど、友達もほとんどいなくて、自分の世界に閉じこもってた」
……それって、もしかして……。
「私の憧れの女の子は友達もたくさんいるの。逆にその子は、友達なんていなくても、好きな事だけに没頭出来る強さを持ってた。私ね、そんなに強く思えるほど好きな物ってなんだろうって、気になって良く話しを聞きに行ってた。でも、中三になってその子とは別のクラスになっちゃった」
…………。
「もっと話しを聞きたかったけど、クラスが違ったら……聞きに行く勇気がなくて……だから自分でやってみようと思ったんだ。図書館に行って本を読んだり、プラネタリウムに通ったり、お父さんに頼んで望遠鏡を買ってもらって、天体観測を始めたり——」
——そうだったのか——。
乃万嶌は、変わらず夜空を見上げている。
わざと僕の方を見ないようにしているようにも見える。
違うよ——、
勘違いだよ、乃万嶌——。
僕は強くなんてなかったんだよ——。
「それでね、天体観測をするようになって気がついたの——」
何だろう? 妙に気持ちが落ち着いている。さっきのような動揺は無い。
僕は乃万嶌に魅入っていた——。
「それはね、星が動いているってこと。仇川君が言っていた『当たり前』のことに、改めて気がついたの。ただ見上げているだけだと、星って動いているように見えないけど、地球の自転によって、一時間に十五度、東から西に動いてる。こんなに早く星は動いてる——時間がこんなに早く流れてる。笑ってようが、泣いていようが——楽しく過ごしていても、私のように何も行動せず、毎日うつむいて過ごしていても⋯⋯」
——!
「このままじゃ駄目。時間がもったいない。急がなきゃ——生き急がなきゃって——そう考えるようになって、『当たり前』のことを目で見て実感して、初めて変われたの」
——ああ、そうか。そうだったんだ。
僕も、今、わかった——。
「そのおかげで、今の私がある。だからね、天文に興味を持つきっかけをくれた——」
乃万嶌が振り返る。月明かりがその笑顔を浮き立たせる。
「仇川君に、感謝してるんだよ——」
——。
ある日気づいた。
周りのみんなが友達を作って、毎日楽しく過ごしている。僕はそれが羨ましかった。
気づいた時にはもう遅く、仲間に入る方法がわからなくなっていた。
だから余計に意地になってしまったんだ。
それからは、誰から話しかけられても素っ気なく、自分からは何もしない。
僕の心は歪んで——悪化していった。
捨て切れず——。
受け入れられず——。
時間だけが過ぎていった——。
このまま時間だけが過ぎてしまうのが不安だった。それが毎日不安で、押し潰されそうで、心に『モヤ』が——。
「泣いて……いるの?」
乃万嶌が、また不安そうだ。
泣いている? 僕が? ああ……そうみたいだ……。
長い黒髪に挟まれた、鼻すじの通った小さな顔も、不安そうに見ているであろう切長の目も、滲んでしまってよく見えない——。
はは、どうしたんだろうな。僕は言う——、
「感動しているんだと思う」
感謝しているのは僕の方だよ、乃万嶌——。
——。
二時半を過ぎて僕達は帰り支度を始めた。
満月の明かりで、夜空が晴れているのがよくわかる。
心の『モヤ』も——もう、晴れている。
明日からまた、同じ毎日が始まる——。
いや、そうだろうか? 何だか違った毎日になるような気がする。
そう思うのは、答えが見つかったから?
それとも夜中でテンションが高くなっているから?
どちらでもいいか。
とにかく、これからは僕も、少し生き急いでみようと思う。いや——、
たった今から、生き急いでみよう——。
「あのさ、乃万嶌」
「んーなあに?」
片付けながらで、こちらは見ていない。
「僕さ——」
一呼吸置いて、
「君のことが好きみたいだ——」
乃万嶌の動きが止まった。やはりこちらは見ないまま、少し長い沈黙の後、
「⋯⋯良かった。うれしい。私もあの日から——不安でどうしようもなかった転校初日に、最初に話しかけてくれて、そのおかげでみんなとすぐに仲良くなれたあの日から、ずっと仇川君を見てたんだ。ずっと……好き、でした」
「え? あ、 ああ! そう……だったんだ」
うわっ、こんな事しか言えないのか、僕は。まともに乃万嶌を見れない。
シュポッッ。
おお、お父さん、ナイスタイミング!
乃万嶌も慌てているみたいで、なかなか携帯を出せないでいる。
「お父さん起きたかな? あ、起きたみたい。急いで片付けなきゃ」
「ああ、そうだな」
片付けを終えて、僕達は見晴台からの階段を下りていく。
途中、もう一度振り返る。壮大な天体ショーを終えたばかりの月は満ちている。
それはまるで——、
今の僕の心のように——。
おしまい