異説・真神神話【上】
人類が発展途上にいるまだ間もない世界。
その世界にそれはいた。
無数の引っ掻き傷が歴戦である事を物語るニホンオオカミの一匹。
この個体は群れからも爪弾きにされ、文字通りに一匹狼として今日を生きてきた。
そのニホンオオカミの今日の獲物はツキノワグマであった。
オオカミは標的に走り出すと熊に襲い掛かっていく。
突然の強襲に熊は驚くが、そのオオカミが自身を獲物と認識している事を本能で悟る。
後退はない。
退こうとすれば、その瞬間、それが喉元に食らい付いてくるのをツキノワグマは悟る。
互いが互いを警戒する中、先に動いたのは傷だらけのニホンオオカミであった。
それに対応しようとツキノワグマが前足を伸ばす。
刹那、オオカミはその攻撃を読んでいたかのように前足を避け、反対の前足に食らい付く。
突然の行動の変化ーーそれは傷だらけになりながらも今日を生き抜いてきたニホンオオカミならではの動作であった。
何度も何度も戦いを挑み、何度も何度も傷だらけになって来たニホンオオカミならではの知恵である。
死に物狂いで生き抜いてきたからこそ、このオオカミは今日まで生き抜いてきた。
そして、それはツキノワグマ程度では恐れる事もなく、戦いを挑むだけの度胸を身に付かせた。
そんなオオカミに熊は怯んだ。
群れならば驚異であろうが、たかが一匹にーーそれも覇気で負けるなど、そのツキノワグマの経験には存在しないからである。
それでも体格差はある。力も異なる。
やがて、自身の前足に食らい付き続けるそのニホンオオカミにツキノワグマの生存本能が刺激され、熊が勢いよく食らい付かれた前足を振り回す。
その前足に振り回されながらもオオカミは食らい付いたまま離れない。
寧ろ、更に牙を熊の足にめり込ませた。
そんなオオカミの背をツキノワグマが偶然、近くの木に叩き付けた。
一瞬、オオカミの呼吸が止まり、熊の前足を噛んでいた口が緩む。
その瞬間を見計らったかのようにツキノワグマが更に追い討ちと言わんばかり後ろ足で二本立ちになり、オオカミを地面に叩き付ける。
叩きつけられたオオカミはついに熊から牙を抜き、そのまま、地面に倒れ込む。
そんなオオカミに熊は容赦する事なく、後ろ足で地を蹴りながら追撃する。
次の瞬間、信じられない事が起こった。
突進して来た熊の攻撃を避ける事もせず、オオカミが倒れた姿勢の状態から素早く持ち直し、その低い姿勢からツキノワグマの喉元に食らい付いたのだ。
本来ならあり得ない反撃ーーその反撃に熊は一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。
気が付いた時には食らい付いたオオカミごと前のめりに倒れ込んでいた。
喉を絞められ、呼吸もままならぬ熊がもがく。
ゴキンと鈍い響きが聞こえたのはその時である。
それを最期に熊は息を引き取った。
それからどれ位の時が経ったのかは定かではない。
だが、そのオオカミはゆっくりと熊から這い出て来る。
そして、今しがた仕留めた獲物の死肉を漁り始める。
オオカミの牙を持ってしても熊の肉を噛み千切るのは困難である。
だが、このオオカミはそれを本能と経験で理解しているのだ。
噛み千切れないのなら、へし折れば良い。
それだけの修羅場はこのオオカミにとっては経験済みである。
不意に世界が歪んだのはその時であった。
オオカミは周囲の異変に気付き、熊の死骸に歯を立てるのを中断して警戒する。
この時、このオオカミはまだ自身がどのような世界に行き、どのような行き様を歩むのか、まだ知らない。
ーー気がつくとそこは荒野であった。
鳥が鳴き、異物に気付いたように飛び立つ。
否、それは鳥ではなかった。
翼の生えた手足の生えた怪物。
もしも、人間がこの場にいたとすれば、それを悪魔と呼ぶであろう。
オオカミはその悪魔に向かって唸りを上げた。
自分がどうして、このような場所にいるかなど全く解らない。
そもそも、重要なのはそこではない。
そう。ここで重要なのはその悪魔がオオカミの仕留めた熊を奪う瞳をしていたからである。
オオカミは雄叫びを上げると襲い来る悪魔に飛び掛かった。
そのオオカミーー真神と呼ばれる神聖なる生き物の異世界を越えた伝説はここから始まる。