脊柱起立筋を! ペロペロしよう!
こんばんは。
おや、どうしたんだい?
顔色が良くないね?
ああ、いいんだ。特に訳は聞かないさ。
話せば気が楽になる。そんな事を言う人もいるだろう。
しかしだね。ん、んん。
人っていうのは千差万別、十人十色さ。
そうだって人もいれば、
そうじゃない人もいる。
そうだろう?
ひひ。
統計学的に見て、君の全ては多数派に属するのかな?
普通という枠には幅があるんだ。
ルールの中に納まっていても個性はある。
例えばカレーライス。例えばカーネリアン。
みんな大好き! なんて良く例えられるけれど、そうじゃない人もいるだろう?
だから何も言う必要は無いのさ。黙ってろ。
そうだ。
代わりと言ってはなんだが、私の話をしよう。
人の話を聞いている内に気が紛れる。という事もあるからね。
先日の事なんだが……働き方改革というヤツでさ、有給休暇を使う事になったんだよ。六日間。
途方に暮れてしまってね。
働きづめの三十年間、これだけの休暇は経験したことがないから。
いろいろいろと考えたんだけれど、久しぶりに大分県別府市の上人仲町へ行こうと思ったわけだ。
そう思い立ったら一転、心が弾んでしまってね。いろいろいろとやりたい事が浮かんできた。
向かう途中で別大国道を通ろう。
あそこには五つ目のカーブに首なし地蔵がある。懐かしいな。
脊柱起立筋をペロペロしよう。
あのお地蔵さまは私の大きいおばあちゃんだから。
一番気に入っている桃色のポロシャツに腕を通し、黒のジーンズを履いて皮財布をねじこんだ。
出かけるからね。
スタスタと浜松駅まで歩くと、諸々の手順を経てホームで目当ての乗り物が来るのを待ったんだ。
するとだね。
突然、頭の中でメロディが鳴った。
私が狼狽えていると、続けざまに脳みそで声が響いたんだ。
声はこう言っていたよ。
「しんかんせんをごりよういただききましてありがとうございます」って。
その声が堪らなく不快で、私は「あああああああああ!!」と感じたがそれを口に出すわけにはいかない。
ん?
周りの人間を驚かせてしまうからに決まっているだろう。
代わりと言ってはなんだが、手帳のメモ枠に慌てて「精神」と細かく書き続けたんだ。
精神と文字にする事で精神が楽になると、サリマン・アーレンの著書である《哀と愛》に書いてあったからね。
ふっと一息ついて新しい手帳の購入を考えていると、いつの間にやらホームが薄暗くなっていた。
茫然としたよ。
家を出たのはまだ午前中だったんだ。
昼食には三ケ日牛の駅弁を食べようと考えていたのに、予定が狂ってしまった。予定が狂ってしまったんだよ。信じられるかい? 予定がね! 狂ってしまったんだ!!
……当時の私も、今のように、取り乱して、しまってね。
今、考えれば、分かる事なんだが……ちょっと、待ってくれないか?
ふう、ふう……。
手帳に文字を書いていたぐらいで何時間も立つ訳がないんだよ。
その時の私はそんな簡単な事にも気が付かず、黒く染まった手帳を引きちぎって線路に投げ捨てたんだ。どうせ買い替えるものだしね。
マナーが悪いと思うかい?
私も思うよ。今考えればね。
その時の私は特に気にせず、自宅に帰ろうと歩き出したんだ。
目当ての乗り物は行ってしまったようだし、夜の帳のなかで駅のホームを歩くのは自殺行為だから。
今日はもう家まで戻ってイチゴ酒でも飲もうかと歩き出したんだ。
するとだね。
ホームに幾つかの人影が見えるんだ。
暗い中で人影が、濃い陰影として景色を切り取っている。
(ふざけるな!)
腹が立ったよ。
こんな遅くまで出歩いて……家族は帰りを待っているというのに!
文句の一つでも言ってやらないと気が済まない。
私はスニーカーを踏みしめて空間の穴の一つに詰め寄ったんだ。
するとだね。
私の頭上で眩く光が降り注いだ。
私は目を細めて、その光源を見た。
ヨレヨレの背広を着た猫背の男。下はブリーフ姿で白のハイソックスを履いている。
ただ、頭部が違う。
何というのかな……。
そう! 外灯だ!
頭が外灯だった。
まるで電柱で光る外灯のように、白熱電球が男の頭部からホームを照らしていた。
驚いたよ。
私は思わず「うぉびっくりしたぁ!」と声に出したんだ。
それが合図だったかのように、ホームに見えた陰影の全ての頭部が光り出した。
男も女も、男性も女性も、全ての頭が外灯だった。
しかし、私が詰め寄ったのは文句の一つを言うためだ。
その予定だ。
予定は行われなければならない。
そうだろう?
言ってやったよ。
「不躾ですが、ご家族は貴方の帰りを待っているのではないのですか? ご自宅に戻られてはいかがでしょう」
目を見ずにモノ言うのは主義じゃあないからね、じっと見据えて言ってやったよ。
しかし相手には目が、それどころか頭が無い。
あるのは白熱電球を点灯させた外灯があるのみ。
もうね、眩しくて眩しくて。
限界に達したから左手で両目を擦ったんだけれど、空いていた右手がギュッと握られて、思わず肩が跳ねた。
文句の二つ目を言ってやろうと顔を上げると、男はすでにいなかったんだ。
それどころか、景色が違う。
さっきまでそこかしこにあった陰影もすっかり消えていた。
当然辺りを見渡すよね?
駅のホームには間違いない。
でも、どことなく違うんだ。
ふと目に入った掲示板を見ると、《浜松駅》と書かれていたはずの掲示板が《新浜松駅》の文字に変わっていた。
(シン・ハママツ?)
おかしいにも程があるじゃないか。
だってだよ?
浜松駅が新しくなったのなら……早すぎると思わないか?
いや、確かに私は建築学には精通していないし、建て替えの手順などには無知も甚だしい身ではある。
だがしかし、一日も経たずに駅ひとつが新しく建て替わるなど有り得ないじゃあないか。だろ?
常識だ。常識だ。
私は首をかしげつつ、両指を合わせて人差し指をクルクル回していたんだが、大きな警笛を鳴らしながら赤い色の電車がホームに止まったんだよ。
そしてドアが、開 き ま し た。
……迷ったんだが、私はその赤い色の電車に乗ったんだ。
帰ってイチゴ酒を飲むのもいいが、一日の終わりに電車でゆらゆら揺れるのも良いかと思ってね。
腹が立ったという不愉快な気分を切り替えたかったというのもあったかな。
帰りはタクシーにでも乗ろうかと考えていた。
車両内は誰もいなくて、緩い冷気が肌を冷やした。
なのに、古い電車特有の暖房の匂いが鼻をついたんだ。だからどうという話ではないんだけど。
私は折角だから貸し切り状態の車内を楽しもうと考え……ああ、貸し切りとは特定の誰かが空間を独占する事を言うんだ。知っていたかい?
それで私は腕を組み、さらに足を組んだ。
両手両足が絡まり合う。正に肉体同士による狂乱といった有様さ。
感無量だったよ。
子供のころからの夢が一つ叶ったんだ。
そのまま大きく息を吐いて、脊柱起立筋と弟に想いを馳せていたんだけれど、ふと気が付いたら車窓から覗く景色が白んできていた。
私は景色を眺め、建物の上を走る忍者を幻視していたんだがね。
車内にメロディが鳴って、その後に女性の声でアナウンスが流れたんだ。
「次はさぎの宮、さぎの宮です」
(さぎの宮か……)
思い出したんだよ。
確かあの場所にはタコ焼き屋があった。
入り組んだ団地を見上げるように、タコ焼き屋があったんだ。
思ったね。私は思った。
いや、求めたというべきか。
タコ焼きを。
(降りよう……)
二十年ほど前だったか、仕事が上手くいかずに落ち込んでいた時、先輩がごちそうしてくれた思い出の味だ。
因みに先輩は死んだ。
無人の駅を出ると、丁度地域の祭りの最中のようだった。
遠くからぴーひゃらぴーひゃらと祭囃子が聞こえてくる。
ワクワクしないか?
全く知らない土地でただ一人、喧騒の中に身を投じる。
それはまるで全く知らない土地で喧騒の中に身を投じるようじゃないか。
いろいろいろと辺りを歩き回って祭りの現場を探したんがね、これがなかなか見つからない。
きっと私の日頃の行いが悪かったのだろう。
(これからは他人の墓の供え物を持ち帰るのは止めよう)
そう反省しながら、田んぼのあぜ道を歩き続けたよ。
もう祭りの音は聞こえない。
整然と並ぶ稲穂を眺めながら、こんな休日も悪くないと感じ始めていた。
だけど今日を終えなければ明日は来ないから、いつまでもグズグズしているわけにもいかないわけだ。
明日改めて、大分県別府市の上人仲町へ向かう。
その為には一度家へ戻ってイチゴ酒を飲まなければ。
それからその辺の案山子に道を聞いた。
案山子は突き当りの線路を右に進んで、トンネルを抜けると良いと教えてくれた。
私はあぜ道の先にあった線路をひたすら歩いたよ。
辛かった。足が棒のようだった。
こんな休日は二度とゴメンだと思いながらトンネルを抜けると、知らない女性に声をかけられたんだ。
君の頭の中に、若い女性を思い描いてごらん。
その女性とは別の女性だ。
家に帰りたいと言う彼女に共感し、連れだって目的地へ向かったんだが、私の足はすでに棒になっている。出来れば車が欲しかった。
私は車があるような気がする方向へ向かったけれど、無い可能性もある。
「車がありますように車がありますように車がありますように」
困った時の神頼みだ。
祈りながら進み続け、足元の悪い中を進み続けた。
彼女と互いに励まし合って進みつつ、ただ前を見て進み続けたんだ。
両目を縫った老婆とすれ違った。
耳の無い兎にくるぶしを噛まれた。
見下ろす田園にぐにゃぐにゃと踊る誰かを見た。
この辺の細かい話は明日、君が寝る時に改めて話そう。
そうやって辿り着いた先に、露店があった。
看板は無かったけれど、500円という値札が飾ってあったし、香ばしい匂いもしたから食物を販売しているとすぐに見当がついたよ。
半円形の窪みがいくつもある鉄板がジュージューと音を立てて、小汚い前掛けをした人がその窪みに得体の知れない液体を流し込んでいる。
お店の人の性別は分からなかった。
首から上が無かったからね。
だるまのような体型だったから、太ったおじさんかおばさんか見分けもつかなかったんだ。
これはいよいよ尋常じゃないと思ったよ。
首から上が無いのに、チャカチャカとマイナスドライバーで鉄板の焼き物をひっくり返しているんだ。
そんな人間を見た事あるかい?
私はあるよ。ふふん。
私はその時の状況を恐ろしく思っていたけれど、一日ロクに食事をとっていなかったから思い切って注文をしてみようとした。
連れの女性の分も頼んだ方が良いかと考えて、必要かどうか聞こうと振り返ったんだけれどね。
誰もいなかった。
一寸先も見えない、夜の闇が覆うばかりだったんだ。
また向き直ると、露店も無くなっていた。
ただ一人暗闇に取り残されて、私はうずくまる。
このまま朝が来るのを待とう。
そうして空が白んできたなら駅まで戻ろうと考えた。
朝は来なかった。
イチゴ酒を飲まなかったから。
でも大丈夫だよ。
こうして君と話す事で、気が楽になってきたから。
大丈夫だ。
私は大丈夫。
大丈夫。大丈夫。
大丈夫なんだ。
本当に?