蜘蛛になった女
平安時代、わたしは死んだ。
盗賊の男に首を切られて血溜まりの中に倒れて死んだ。現世で地獄に限りなく近い景色を見たあの日のことは、死んだ今だって忘れていない。
聞き慣れた女房の微かな呻き声を聞く中で、血溜まりの上に自慢だった黒髪が渦を作り、紅梅の衣に赤が少しずつ浸食していく様子を私は眺めた。
月明かりが鈍く照らす部屋の中は霞がかかるように少しずつ不明瞭になっていった。
ああ、今日は満月だった。
そう思ったのが最後だった。
次に目が覚めたのは薄暗い汚い路地だった。
しかし、不思議と汚いという気持ちはわかなかった。
二本の足で立ち上がろうとしても立ち上がれない、四つん這いのような姿勢でわたしはその路地を這った。
しばらく這ううちに、ここが貧しい人々が住む民家の路地であることがわかってきた。よくよく目を凝らすと土埃にまじって小さな虫が這い回っている。
ふと、目の前を蠅が横切った。空腹を感じた。
自分が今人間ではないことは察しつつあった。
瓶をよじ登り、水溜りを見た。水面からわたしを覗きこんでいたのは小さな蜘蛛だった。
自分が蜘蛛に生き返ったことを知った。
汚れた虫に生き返ったことは想像通りであった。
わたしは人間であったころ、自分の身分が高いことをよく理解し、欲を満たすためにお付きの女房をよく折檻していた。前世の行いは今世に響く。仏教の考えが流布したこの時代では常識だ。
ほどなくして、わたしは巣の張り方を知った。
虫を捕らえて食べる。生きていくのに当たり前の食欲だった。死を嫌がって逃げようとする自らより弱い存在を舐って食べるのはさほど悪くない快感だった。
虫に生まれ変わってしばらくたった夜、根城にしている路地に一人の盗賊が入ってきた。
満月の月明かりが照らしたその顔は、忘れもしない、血溜まりの地獄の中を作り上げた盗賊の顔だった。
わたしは細い一本の糸を盗賊の肩に垂らした。
盗賊は路地を抜けると、構えの豪奢な家の塀をよじ登った。腰に刺した刃はよほど鋭いと見え、屋敷に向かう途中に生えていた竹を鋭利に傷つけていた。
男は音も無く屋敷に忍びこみ、女の首を一つずつ斬り落としていった。淡々としたその動きは残酷さを感じさせないほどだった。
黒髪と、白い夜着、金箔が貼られた屏風と、漆と螺鈿で装飾された貝合わせの道具箱、その隙間を縫うように赤い血が川のように流れている。満月が照らすその景色はため息をつくほど美しい。なんと素晴らしい色合いなのだろうか。
盗賊は死んだものには興味がないと言わんばかりに、袋の中に金目のものを詰めている。
ああ、これほど美しいものを作り上げられるくせになんと冷酷な男なのだろう。
盗賊は目当てのものを詰め終わると来た道を再び、音も無く辿った。
わたしは盗賊の耳をかじった。耳を押さえようと伸びてきた盗賊の指を掻い潜ると、目の前に降り立った。
月明かりは、血を被った男の姿を照らしていた。
人を殺めてすぐのその姿は、神々しさすら感じさせた。
盗賊はわたしを踏み潰そうと足を伸ばした。
人の女の姿をしていれば、わたしは今恍惚とした表情をしているに違いない。祈るようにわたしは目を瞑った。
「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗むやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」
頭のすぐ上、影でわたしの姿を覆ったところで盗賊はそう言って立ち去ってしまった。
わたしの小さな体は悲しみで震えた。
盗賊に置いていかれたわたしは竹林を力なく歩んだ。
しばらく、歩いていると小川の辺りにたどり着いた。
ああ、あの凄惨で美しい景色を作る神様のもとへ。
わたしは小川の水面に映る満月に向かって飛び込んだ。
「かように因果な魂があるとは。」
次に目を覚ましたのは、神々しく光る御釈迦様の御手の上だった。
「恐ろしい虫の女よ。そなたの思いは仏への信仰になり、浄土への道を自ら開いてしまった。」
御釈迦様は口元に微笑みを浮かべながら仰った。
あたりには蓮の花の匂いが満ち満ちていた。
「さあ、行っておいで。この先にお前が求めるものがある。」
御釈迦様は蓮の池に御手をお伸ばしになった。
わたしは恐れ多くもその御手から糸を伸ばして池の中に入っていった。
美しい蓮の池の裏側は地獄だった。
背筋がぞくぞくするような呻き声に溢れたその中を少しずつ降りていくと一人の男の顔を見つけた。
「犍陀多」
わたしはそう言って手を伸ばした。