六章 サマンサ・ゲーム
腐臭がする。
暗闇に包まれた廊下は、吐き気を催す様な、人間の内臓の匂いで支配されていた。
手に持った、ランタンの明かりでは、この暗闇を照らすには余り効果がない。
精々足元の赤いカーペットを照らし、何かに躓かない様にする事ぐらいだ。
明かりなしでは自分の手も見えない闇の中では、視覚よりも嗅覚の方が研ぎ澄まされているのを感じる。
ルシアは段々と、辺りに漂うほのかに甘い、肉の腐った香りをかぎ分けられる様になってきていた。……全く慣れはしないけれど。
一瞬、鼻孔をくすぐる匂いが濃くなった気がした。
思わず身構えた。
これは、敵が近くにいる、その合図なのだ。
腰に下げた、鉄の剣を抜き放つ。
木剣とは違う確かな重み。
それは、僅かな安心をルシアに与えてくれる。
魔族相手には頼りない武器だと分かっていても、握る事はやめられない。他に術もないのだ。
「ルシア!」
不意に、リタが叫んだ。
ピタッとルシアが歩みを止める。
感覚を研ぎ澄ますと、
ぽたり、ぽたり。
と何かが垂れ落ちる音が聞こえてくる。
「おい……足元」
ベンが何かに気付いた。
声が、震えている。
ルシアが足元を照らすと。
……血とも汚液ともとれる何かが水たまりをつくっている。
思わず息を飲んだ。
そこにまた、ぽたり……と雫が落ちて波紋をつくる。
ルシアは、ゆっくり顔を上げた。
そこには、千切れた腸を腹からぶら下げた人間の死体が、天井にびっしり、何体も張り付いていた。
「アアア……ああ――キャアアア! ギャアア!!」
突然、死体達は言葉にもならない、奇声を上げる。
「二人とも、構えて!」
ルシアが叫ぶのとほぼ同時に、死体達は一斉に地面に降り立った。
そして、腕を振り回し赤茶色の体液をまき散らしながら襲い掛かってくる。
ルシアは一人突っ込んだ。
こいつらは数は多いが、強さは大したことはない。
先頭の一撃を躱し、斬り抜け、集団の後ろにいる奴に飛び掛かり、剣で頭を砕く。
「はあはあ……っく!」
――弱点は頭だ。頭を壊さない限り倒せない。いいか? 頭を狙うんだぞ――
事前に教えられた通りに、何とか倒すも、如何せん、敵の数が多い。
後ろでは、リタとベンが、懸命に応戦しているのが見える。
が、多勢に無勢。あのままでは押し込まれるだろう。
「やああ!」
雄叫びを上げ、後ろから、群れに突っ込み、挟撃の形をとる。
逃げ道のない狭い廊下では、効果は絶大だった。
ルシア達は、何度か引っ掻かれ、噛まれながらも、一体ずつ頭を潰していった。
「これで、全部?」
「あたし……もういや」
「泣くなよリタ。大丈夫きっとコレット先生が助けてくれるさ」
「じゃあその先生はいつ来るの!? あたしたちが全員食べられたら!? ゾンビに殺されたら!?」
「……落ち着けって……頼むから……」
「死んじゃったんだよ!? 現役のハンターの人さえ死んだのに……こんなのもう無理じゃない……」
「そんなの俺だって分かってるよ! でもじゃあどうしろって言うんだ!? このまま黙って食われろってのかよ!」
「二人ともお願いだからやめて! 争ってる場合じゃないよ……」
「あ……わるい……ルシア」
「……ぐすっ……うう」
リタとベンはもう限界に近い。
無理も無い。
視界は暗闇に塞がれ、嗅覚は腐臭に支配され、いつ敵が現れるかも分からず、ただひたすらに神経を研ぎ澄まし続けねばならない、恐怖。
人が狂うには十分かもしれない。
ここまでよく頑張ってきた方だろう。
実際、ルシアとて叫びだし何もかも投げ捨てて逃げたい欲求をずっとこらえている。
自分一人ならば、とっくに限界を超えていただろう。
「とにかくここにいても仕方ないな……ルシア! あそこ、部屋じゃないか?」
ベンの指さす先を、照らすと、揺らめく明かりの中に、木製のドアが見える。
「……どうする?」
罠の可能性も捨てられない。
開けた瞬間、大量のゾンビに奇襲されれば、今度こそやられてしまうかもしれない。
「少なくとも、廊下にいるよりはいいんじゃないか?」
どの道何処にいようとこの館にいる限りは、安全ではないのだ。
ルシアは頷いて、ドアに手をかけた。
ぎいいい……と軋んだ音を静かな廊下に響かせながら、扉が開く。
――敵の気配はない。
三人は素早く中に入り込み、扉を閉める。
これで、暫くは安心できる。
一息ついて、辺りを見渡してみる。
どうもここは書庫のようだ。
書架が縦横に規則的に並んでおり、沢山の本が収納されている。
かなり広い。
入り口からでは、部屋の全景がまるで分からない。
「隠れる場所も多い。使える物を探しながら、敵がいないか調べて部屋の安全を確保しよう」
何にしてもこの部屋の安全を確認しなければ、休息も満足に出来ない。
ひとまずここはベンの提案に従って、書庫の探索をする。
そう――決めた時だった。
コンコン……。
静かな部屋に、響き渡る。
コンコン……。
ルシア達に緊張が走った。
間違いなく、何者かがドアをノックしている。
コンコン……。
ゾンビ達にドアをノックするなどという知能はない。
つまり、今ノックしているのは、他の生存者という事になる。
その事実が、三人から言葉を発するという行為を奪い去った。
もし。
もし、今扉の外にいるのが、『奴』だったら?
(殺される。間違いなく)
死への恐怖は全身を縛り付ける。
ルシア達は闇の中、息を止めてただひたすらに祈った。
(あっちいけ。あっちいけ! 入ってくるな。入ってこないで! お願い……お願い……!)
永遠とも思える様な一瞬が過ぎていく。
(去った? 助かった?)
余りの濃密な時間にルシアはそう錯覚した。
だが。
カチャ……。
脳内が真っ白になる。
間違えようがない。
――ドアに手がかかる音だ。
ぎいいいいい……。
絶望がゆっくりと、音を立てて開いていく。
やがて、開いたドアの向こう。
薄明りの中そこに立っていたのは。
「こんにちは……生きてる?」
「シェイ!?」
青白い肌、藍色の服と吸い込まれるような青い瞳。
紛れもなくシェイそのものだ。
……だが。
ルシア達三人は同時に剣を抜いた。
構え、シェイに対し向き合う。
「……何の真似?」
シェイは表情を変えない。
「シェイ、お願い。本物の人間だって証明して? 『人狼』じゃないって……」
「人狼? 何の話?」
「来ないで! 証明して。じゃないと私……」
「……証明すればいいの?」
シェイは仕方ないという表情で大きく息を吐いた。
そして、口に手を付けて、大きく指笛を鳴らした。
ぴいい!
鋭い笛の音が、屋敷中に響き渡った。
すると、どこからともなく、小動物の鳴き声が聞こえてくる。
鳴き声はどんどん近づいてきて、やがてするりと部屋の中に一匹の黒い猫が入ってきた。
シェイが腕を広げると、黒猫はそこに跳びついた。
あの黒猫には、見覚えがある。
前に、中庭で見たシェイの使い魔だ。
「ああ! ――シェイ!」
ルシアは剣を納め、シェイに抱き着いた。
これにはシェイも動揺を隠せない。
ルシアを胸に抱きながら困惑した表情でルシアと、ベン達を交互に見ている。
「ルシア……? どうしたの?」
「シェイ――! 私、私……辛くて……もう、ダメかなって……私――」
ルシアの顔は、胸の中で、シェイには見えない。
だが分かる。
肩が震えている。
声がかすれている。
――泣いている。
「そう。……頑張ったんだね」
そう言って、優しく抱きしめる。
「シェイ――」
シェイの胸に顔を埋める。
――柔らかい。
ほのかに脳が痺れる様な甘い香りがする。
……頭がぼーっとする。
この暖かな腕の中でずっと眠っていたい。
「あールシア? 泣きたい気持ちはよく分かるんだが……とりあえず本物のシェイだって信じていいんだよな?」
ベンが遠慮がちに声を掛けてくる。
「あ……そっか二人は分かんないもんね。うん。剣を下ろして平気だよ」
「了解! それと――そろそろシェイを放してやれよ」
ここで初めてルシアは、今、自分がしている行動が傍から見れば酷く恥ずかしい行いであるという事に気づいた。
「! ――ご、ごめん! いきなり抱き着いたりして……」
ぱっとシェイから身体を離す。
シェイは、特に表情も変えず、
「別に、いい。……それよりも状況が知りたい。まず、お互いの情報を話そう」
と言った。
「情報――ってそういえば何でシェイがここにいるの? だって孤児組は後から到着の筈でしょう? ――まさか。もうコレット先生が来てくれたの!?」
ルシアの言葉にシェイは首を振る。
「違う。私は、初めから馬車に紛れてここに来ていた。今まではバレない様に潜伏していた」
「そっか……って潜伏?」
引っ掛かる物言いだ。
「問題はそこじゃない。私が潜伏している間に何があった? 人狼って? ゾンビを倒すだけの話でしょう?」
確かに今必要なのは現状の説明か。
ルシアは、頷いた。
「分かった。じゃあそこから話すね。この館で、一体何があったのかを」
ドアの隙間から吹く風が、ランタンの炎を静かに撫でる。
仄暗い書庫の中、揺らめく明かりに照らされて、ぽつりぽつりと語り始めた。